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第30話 疲れと苛立ち
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それから二週間。九条課長とは最低限の業務連絡しか交わさないまま、時間だけが過ぎていった。避けているつもりはない。でも、必要以上の会話を控えれば、自然と距離ができるものだ。
(これでよかったんだ……)
そう自分に言い聞かせる。何度も、何度も。まるで呪文のように繰り返しながら、それでも心の奥底では微かなざわつきを抑えきれない。
もともと偽物の関係だったのだ。そう、ただの契約。互いの家族への体裁を保つために交わした取り決めに過ぎない。会社では適切な距離を保ち、仕事上の会話だけを交わす。必要以上に関わる理由なんて、どこにもない。元に戻るのが当たり前。元に戻らなければいけない。そう頭ではわかっている。それなのに、胸の奥が妙に軋む。まるで錆びついた歯車が無理に動かされるような感覚だった。
デスクに並べた書類に視線を落とし、ペンを手に取る。カリカリと走らせた先から、黒々としたインクが紙の上に広がるはずだった。しかし、視界に映る文字がやけに遠く感じられる。まるで薄い靄がかかったように、言葉が意味をなさず、ただの記号にしか見えない。浅く息を吸い、肩をわずかに上げてから、ゆっくりと吐き出す。意識を切り替えようとする。しかし、ふと気が抜けると、無意識に考えてしまうのだ。
九条課長のことを。
(……なんで?)
考えても答えは出ない。思考の奥に沈む違和感が、小さな棘のように引っかかる。それは言葉にできるほど明確ではないが、確かに存在していた。
「――課長、最近ちょっと様子変じゃない?」
昼休み。
突然の言葉に、私は思わず手を止めた。
振り向くと、麻美がジュースの紙パックを持ったまま、じっとこちらを見つめている。ストローをくわえたまま、わざとらしく目を細める仕草に、軽い調子を装いながらも核心を突こうとする意図が滲んでいた。
心臓が軽く跳ねる。喉の奥が僅かに詰まるのを感じながら、私は持っていたコーヒーのカップを強く握りしめた。指先にじんわりと熱が伝わる。危うく中身をこぼしそうになるのを、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「……そう?」
できるだけ平静を装う。何でもないふうを装う。自分の動揺が、麻美に伝わらないように。でも、彼女は簡単には引き下がらない。ストローをくわえたまま、じっくりと私の表情をうかがい、まるで答えをすでに知っているかのように口角を少しだけ上げた。
「なんか、前より冷たくない?」
冷たい、という言葉が心に引っかかる。九条課長が? 私に対してだけじゃなく?
(……言われてみれば、たしかに)
以前の九条課長は、淡々としていながらも、最低限の礼儀を欠かさず、どんな相手にも公平に接していた。必要以上に踏み込まないが、それでも彼なりの誠実さを感じさせる態度だった。ここ最近は少し柔らかさが出てきたと一部で評判になったりもした。
でも、今は違う。言葉を削ぎ落とし、関わりを最小限に抑え、まるで人との繋がりを意図的に断とうとしているかのようだった。どこか無機質ですらある。以前は淡々としていても、そこに「意志」があった。けれど今は、感情そのものを閉ざしてしまったような、そんな違和感がある。まるで、心の奥深くに何かを押し込め、それを誰にも悟られまいとしているような――そんな、冷たさ。
それに……妙に疲れているようにも見える。目の下には薄く隈ができ、背中をわずかに丸めることが増えた。以前はいつも背筋を伸ばし、静かな威厳を纏っていた人なのに。夜遅くまで仕事をしているのだろうか? それとも――別の何かが?
「ほら、やっぱり気になってるじゃん」
不意に、麻美が声を潜めて笑った。私ははっとして視線を戻す。
「え?」
「今、めっちゃ考えてたでしょ」
図星を突かれて、思わず口をつぐむ。麻美はいたずらっぽくウインクし、ストローを鳴らしながら残りのジュースを吸い切った。
「ま、気にしてるのは私だけじゃないってこと。みんな感じてると思うよ、九条課長の変化」
彼女はそう言い残して席を立った。残された私は、手元のコーヒーをぼんやりと見つめる。湯気の立たない液面に、窓から差し込む光が鈍く反射している。カップの縁にそっと指を這わせると、ぬるい温度が肌に伝わった。
――午後。
資料を届けるために廊下を歩いていたとき、ふと耳に届いた声が足を止めさせた。
「……納得いかないですね」
低く押し殺された声。けれど、その抑制の奥に、確かな感情の波が潜んでいた。怒り、いや、苛立ち――。
声の主に視線を向けると、そこにいたのは九条課長だった。向かい合うもう一人の男性の顔は見えなかったが、九条課長の横顔ははっきりと見えた。
普段の冷静沈着な面影とは違う、張り詰めた表情。鋭く結ばれた唇、こめかみに寄る薄い皺。少し歪んだ眉が、彼の内心の波立ちを物語っていた。
――珍しい。
九条課長がここまで感情を表に出すのを、私は見たことがない。彼はいつも、冷静で、合理的で、決して動揺を見せない人だったはずなのに。
(何か……あった?)
胸の奥に、言葉にできない違和感が重く沈む。関係ない。私はもう踏み込まないって決めた。それなのに――。
気づけば、廊下の向こうへと去っていく九条課長の背中を、目で追っていた。
止めようとしても、視線は吸い寄せられるように九条課長を追ってしまう。振り払ったはずの思いが、静かに胸を締めつけた。
(これでよかったんだ……)
そう自分に言い聞かせる。何度も、何度も。まるで呪文のように繰り返しながら、それでも心の奥底では微かなざわつきを抑えきれない。
もともと偽物の関係だったのだ。そう、ただの契約。互いの家族への体裁を保つために交わした取り決めに過ぎない。会社では適切な距離を保ち、仕事上の会話だけを交わす。必要以上に関わる理由なんて、どこにもない。元に戻るのが当たり前。元に戻らなければいけない。そう頭ではわかっている。それなのに、胸の奥が妙に軋む。まるで錆びついた歯車が無理に動かされるような感覚だった。
デスクに並べた書類に視線を落とし、ペンを手に取る。カリカリと走らせた先から、黒々としたインクが紙の上に広がるはずだった。しかし、視界に映る文字がやけに遠く感じられる。まるで薄い靄がかかったように、言葉が意味をなさず、ただの記号にしか見えない。浅く息を吸い、肩をわずかに上げてから、ゆっくりと吐き出す。意識を切り替えようとする。しかし、ふと気が抜けると、無意識に考えてしまうのだ。
九条課長のことを。
(……なんで?)
考えても答えは出ない。思考の奥に沈む違和感が、小さな棘のように引っかかる。それは言葉にできるほど明確ではないが、確かに存在していた。
「――課長、最近ちょっと様子変じゃない?」
昼休み。
突然の言葉に、私は思わず手を止めた。
振り向くと、麻美がジュースの紙パックを持ったまま、じっとこちらを見つめている。ストローをくわえたまま、わざとらしく目を細める仕草に、軽い調子を装いながらも核心を突こうとする意図が滲んでいた。
心臓が軽く跳ねる。喉の奥が僅かに詰まるのを感じながら、私は持っていたコーヒーのカップを強く握りしめた。指先にじんわりと熱が伝わる。危うく中身をこぼしそうになるのを、ぎりぎりのところで踏みとどまった。
「……そう?」
できるだけ平静を装う。何でもないふうを装う。自分の動揺が、麻美に伝わらないように。でも、彼女は簡単には引き下がらない。ストローをくわえたまま、じっくりと私の表情をうかがい、まるで答えをすでに知っているかのように口角を少しだけ上げた。
「なんか、前より冷たくない?」
冷たい、という言葉が心に引っかかる。九条課長が? 私に対してだけじゃなく?
(……言われてみれば、たしかに)
以前の九条課長は、淡々としていながらも、最低限の礼儀を欠かさず、どんな相手にも公平に接していた。必要以上に踏み込まないが、それでも彼なりの誠実さを感じさせる態度だった。ここ最近は少し柔らかさが出てきたと一部で評判になったりもした。
でも、今は違う。言葉を削ぎ落とし、関わりを最小限に抑え、まるで人との繋がりを意図的に断とうとしているかのようだった。どこか無機質ですらある。以前は淡々としていても、そこに「意志」があった。けれど今は、感情そのものを閉ざしてしまったような、そんな違和感がある。まるで、心の奥深くに何かを押し込め、それを誰にも悟られまいとしているような――そんな、冷たさ。
それに……妙に疲れているようにも見える。目の下には薄く隈ができ、背中をわずかに丸めることが増えた。以前はいつも背筋を伸ばし、静かな威厳を纏っていた人なのに。夜遅くまで仕事をしているのだろうか? それとも――別の何かが?
「ほら、やっぱり気になってるじゃん」
不意に、麻美が声を潜めて笑った。私ははっとして視線を戻す。
「え?」
「今、めっちゃ考えてたでしょ」
図星を突かれて、思わず口をつぐむ。麻美はいたずらっぽくウインクし、ストローを鳴らしながら残りのジュースを吸い切った。
「ま、気にしてるのは私だけじゃないってこと。みんな感じてると思うよ、九条課長の変化」
彼女はそう言い残して席を立った。残された私は、手元のコーヒーをぼんやりと見つめる。湯気の立たない液面に、窓から差し込む光が鈍く反射している。カップの縁にそっと指を這わせると、ぬるい温度が肌に伝わった。
――午後。
資料を届けるために廊下を歩いていたとき、ふと耳に届いた声が足を止めさせた。
「……納得いかないですね」
低く押し殺された声。けれど、その抑制の奥に、確かな感情の波が潜んでいた。怒り、いや、苛立ち――。
声の主に視線を向けると、そこにいたのは九条課長だった。向かい合うもう一人の男性の顔は見えなかったが、九条課長の横顔ははっきりと見えた。
普段の冷静沈着な面影とは違う、張り詰めた表情。鋭く結ばれた唇、こめかみに寄る薄い皺。少し歪んだ眉が、彼の内心の波立ちを物語っていた。
――珍しい。
九条課長がここまで感情を表に出すのを、私は見たことがない。彼はいつも、冷静で、合理的で、決して動揺を見せない人だったはずなのに。
(何か……あった?)
胸の奥に、言葉にできない違和感が重く沈む。関係ない。私はもう踏み込まないって決めた。それなのに――。
気づけば、廊下の向こうへと去っていく九条課長の背中を、目で追っていた。
止めようとしても、視線は吸い寄せられるように九条課長を追ってしまう。振り払ったはずの思いが、静かに胸を締めつけた。
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