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出会いはビーフシチューの味わいと共に⑤
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『Bistro Gens joyeux』
そうだ、そんな名前だった。不意に一花の脳内に幼い時の記憶が蘇る。店内に入った一花は、席に座って同じくメニューに書かれたその文字を見つめ、「ねえお父さん。これってどういう意味?」と聞いたのだった。父は得意げに
「これはね一花。『陽気な人々』って意味だよ」と答えてくれた。
「へえ、陽気な人々」
「ああら、お嬢ちゃん。店名に興味があるの?」
料理を運んできてくれた店のおばさんが一花に話しかけてくる。はい、と一花が頷くと、おばさんが嬉しそうに話してくれた。
「これはねえ、この店を訪れて料理を食べてくれた人たちが、みーんな笑顔で陽気になってくれるようにって願いを込めて、ウチの人がつけた名前なのよ」
ね、あんたと言っておばさんが厨房を振り返ると、コック帽をかぶったおじさんがにかっと陽気そのものの笑顔を向けてくれる。
「どんなに落ち込んでても、美味しいものを食べると人っていうのは笑顔になれる。そういう体験をこの店でしてもらいたくてね」
「素敵です」
一花が言うと、おばさんは一花の前に注文したビーフシチューを置いてくれた。
「さ、お嬢ちゃんもこの特製ビーフシチューを食べて、陽気になってくれ」
「はい」
頷いた一花が早速スプーンを手にとってビーフシチューを食べる。じんわり温まる。体だけでなく心も。
「美味しい」
「一花が気に入ってくれて良かったよ」
「ここはね、父さん母さんにとって思い出深いお店なのよ」
「そうなの?」
「そうよ。付き合っている時からね、ずっと通っているの。記念日やイベントの時には必ずこのお店、って決めていたのよ」
「飽きない? たまには別のお店に行きたいとか思わないの?」
「全然」
一花の言葉に母は即座に首を横に振った。
「このお店に来るとね、ホッとするの。あたたかみがあるっていうか……第二の我が家みたいな感じでね」
「そうそう。この店で料理を食べると、あぁ、美味しいなぁって心の底から思えるんだ」
母の言葉に父も賛同した。
「だから一花も美味しいって言ってくれると、母さんも父さんも嬉しいのよ」
「そっか」
一花は母の言葉に頷いてもう一口ビーフシチューを食べた。やっぱり美味しい。
「ね、お母さん、お父さん。これからもずっと、毎年、ここに来ようね」
「ええ」
「当然だ」
小ぢんまりとした店内、並ぶテーブル、それを囲う三人。流れているのはおそらくジャズのBGM。そして聞こえる厨房からの調理音と店のおばさんの愛想のいい声が耳に心地いい。確かになんだかホッとするような空間だ。母と父と三人で食べるビーフシチューに舌鼓を打ちながら、一花は心の底から満たされるのを感じた。
プァーーーーー!!!
間近で聞こえたクラクションに一花の思考が一気に現実に引き戻された。
ハッとして振り向くと、そこには迷惑そうな顔の運転手を乗せた白い車が停まっている。
「あっ、すみません!」
一花は頭をペコペコと下げながら道の端っこに慌てて避けた。心臓がドキドキしている。避けた事で店の間近までやってきて、そして気がついた。
「close……?」
店の扉には閉店中の看板がかけられている。
「何だぁ、やってないのかぁ……っていうか……」
一花は再び店の外観を眺めた。よくよく見るとこの店、全然手入れがされていないように思われる。
店先の花壇にはカサカサに枯れた花が植えられっぱなし、雑草が伸び放題。壁はくすんで塗装が剥げているし、店前のメニュー表は埃にまみれて内容がよく見えない。
「んんー、もしかしてもうずっと営業してない?」
それならそれで仕方がない。店を見つけた時に高揚した気分が、みるみるうちに萎んでいく。
「そんなもんだよね、現実なんて」
誰も聞いていないのをいい事に盛大なため息をついた。なんだか今日はため息が多い気がする。
そうだ。そんなものなのだ。毎年この店に来るという両親との幸せな約束はあっさりと破られ、美大で華々しく己の才能を発揮するという夢は塵と消えつつある。懐かしさに浸りたくてやって来た店は、迫り来る時代の流れに乗れなかったのか、はたまた従業員の何かしらの都合によるものなのか、とっくの昔に閉店している。
現実なんてそんなもんだ。冷たくて残酷で、ちっとも一花に優しくない。
「…………帰ろ」
アホらしくなった一花がそう呟いて踵を返しかけたその時。店の中で物音がしたのを一花は聞いた。
「ん?」
空耳かな? と思って耳を澄ますと、確かに音がする。ガッタンガッタンと家具に何かが激しくぶつかり合うような音。それどころか、人の声もした。くぐもっていて内容までは聞き取れないが、何か悲痛な叫び声のような呻き声のような……。
「えっ、何。事件⁉︎ 事故⁉︎ 病気⁉︎」
店内から聞こえる尋常でない音に、一花はいてもたってもいられなくなった。そっとドアノブに手をかけて回してみる。かちゃりと軽い音がしてノブが回った。
扉を押し開くと、そこでは————
————長身の男が、両手で顔を覆いながら床をゴロンゴロンと転がっていた。
そうだ、そんな名前だった。不意に一花の脳内に幼い時の記憶が蘇る。店内に入った一花は、席に座って同じくメニューに書かれたその文字を見つめ、「ねえお父さん。これってどういう意味?」と聞いたのだった。父は得意げに
「これはね一花。『陽気な人々』って意味だよ」と答えてくれた。
「へえ、陽気な人々」
「ああら、お嬢ちゃん。店名に興味があるの?」
料理を運んできてくれた店のおばさんが一花に話しかけてくる。はい、と一花が頷くと、おばさんが嬉しそうに話してくれた。
「これはねえ、この店を訪れて料理を食べてくれた人たちが、みーんな笑顔で陽気になってくれるようにって願いを込めて、ウチの人がつけた名前なのよ」
ね、あんたと言っておばさんが厨房を振り返ると、コック帽をかぶったおじさんがにかっと陽気そのものの笑顔を向けてくれる。
「どんなに落ち込んでても、美味しいものを食べると人っていうのは笑顔になれる。そういう体験をこの店でしてもらいたくてね」
「素敵です」
一花が言うと、おばさんは一花の前に注文したビーフシチューを置いてくれた。
「さ、お嬢ちゃんもこの特製ビーフシチューを食べて、陽気になってくれ」
「はい」
頷いた一花が早速スプーンを手にとってビーフシチューを食べる。じんわり温まる。体だけでなく心も。
「美味しい」
「一花が気に入ってくれて良かったよ」
「ここはね、父さん母さんにとって思い出深いお店なのよ」
「そうなの?」
「そうよ。付き合っている時からね、ずっと通っているの。記念日やイベントの時には必ずこのお店、って決めていたのよ」
「飽きない? たまには別のお店に行きたいとか思わないの?」
「全然」
一花の言葉に母は即座に首を横に振った。
「このお店に来るとね、ホッとするの。あたたかみがあるっていうか……第二の我が家みたいな感じでね」
「そうそう。この店で料理を食べると、あぁ、美味しいなぁって心の底から思えるんだ」
母の言葉に父も賛同した。
「だから一花も美味しいって言ってくれると、母さんも父さんも嬉しいのよ」
「そっか」
一花は母の言葉に頷いてもう一口ビーフシチューを食べた。やっぱり美味しい。
「ね、お母さん、お父さん。これからもずっと、毎年、ここに来ようね」
「ええ」
「当然だ」
小ぢんまりとした店内、並ぶテーブル、それを囲う三人。流れているのはおそらくジャズのBGM。そして聞こえる厨房からの調理音と店のおばさんの愛想のいい声が耳に心地いい。確かになんだかホッとするような空間だ。母と父と三人で食べるビーフシチューに舌鼓を打ちながら、一花は心の底から満たされるのを感じた。
プァーーーーー!!!
間近で聞こえたクラクションに一花の思考が一気に現実に引き戻された。
ハッとして振り向くと、そこには迷惑そうな顔の運転手を乗せた白い車が停まっている。
「あっ、すみません!」
一花は頭をペコペコと下げながら道の端っこに慌てて避けた。心臓がドキドキしている。避けた事で店の間近までやってきて、そして気がついた。
「close……?」
店の扉には閉店中の看板がかけられている。
「何だぁ、やってないのかぁ……っていうか……」
一花は再び店の外観を眺めた。よくよく見るとこの店、全然手入れがされていないように思われる。
店先の花壇にはカサカサに枯れた花が植えられっぱなし、雑草が伸び放題。壁はくすんで塗装が剥げているし、店前のメニュー表は埃にまみれて内容がよく見えない。
「んんー、もしかしてもうずっと営業してない?」
それならそれで仕方がない。店を見つけた時に高揚した気分が、みるみるうちに萎んでいく。
「そんなもんだよね、現実なんて」
誰も聞いていないのをいい事に盛大なため息をついた。なんだか今日はため息が多い気がする。
そうだ。そんなものなのだ。毎年この店に来るという両親との幸せな約束はあっさりと破られ、美大で華々しく己の才能を発揮するという夢は塵と消えつつある。懐かしさに浸りたくてやって来た店は、迫り来る時代の流れに乗れなかったのか、はたまた従業員の何かしらの都合によるものなのか、とっくの昔に閉店している。
現実なんてそんなもんだ。冷たくて残酷で、ちっとも一花に優しくない。
「…………帰ろ」
アホらしくなった一花がそう呟いて踵を返しかけたその時。店の中で物音がしたのを一花は聞いた。
「ん?」
空耳かな? と思って耳を澄ますと、確かに音がする。ガッタンガッタンと家具に何かが激しくぶつかり合うような音。それどころか、人の声もした。くぐもっていて内容までは聞き取れないが、何か悲痛な叫び声のような呻き声のような……。
「えっ、何。事件⁉︎ 事故⁉︎ 病気⁉︎」
店内から聞こえる尋常でない音に、一花はいてもたってもいられなくなった。そっとドアノブに手をかけて回してみる。かちゃりと軽い音がしてノブが回った。
扉を押し開くと、そこでは————
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