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変人シェフと美大生②
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おおよそ二時間は黙々と作業が続いた。
一花は一心不乱に壁を磨き続けていた。子供の頃に両親に連れられて訪れていた店をこうして掃除するというのは不思議な気分である。
よほど掃除していなかったのか、壁紙の隙間に埃がこびりついて力一杯こすらないと落ちてくれない。余計な事を考えず、一花はひたすらに汚れを落とす事だけに集中していた。
「おーっす、一花、桃子。そろそろひと段落つけようぜ」
「大分綺麗になってるな」
ゴシゴシゴシゴシこすり続けていると扉が開いて流歌と圭人が入ってくる。それが頭の隅でわかっていて尚、一花は壁紙だけを見つめていた。この隙間に詰まった強固な黒ずみを落としたい。
「桃子。疲れてないか? 大丈夫か?」
「圭人君。平気だよ。圭人君と流歌君はどう?」
「俺たちは全く問題ないぜ。なっ、流歌?」
「よく言うぜ。さっきまでへばって道路で横になってたじゃねえか」
「おまえっ、それは言わない約束だろ!」
「一花も、休憩しとこう」
「うん」
壁の汚れが落ちたところで一花は流歌を振り返る。
「わっ、床がピカピカ」
「えへへ。ワックスがけは明日かな?」
桃子は満足そうに自身が手がけた掃除箇所を見て言う。来ていたスカートがシワシワになっていたが、全く問題にしていなかった。
「外に出してたテーブルと椅子、引っ込めるか」
「ついでに洗っておいたぞ」
「さすが流歌と圭人。ありがとう」
「つか何かすげえいい匂いしない?」
流歌に言われて一花は気がついた。
————厨房からとてつもなくいい匂いが漂ってきていることに。これはベーコンを焼く香りだ。半分見えない厨房では、進藤が何やら作業をしている音が聞こえてくる。ボウルとスプーンがぶつかり合う音、火を使う気配。
現実に引き戻された一花は、一気に空腹を感じた。そういえば朝起きてから祖母が用意してくれた焼きそばを食べた以外、今日はほとんど何も口にしていない。
「えっ、お腹空いた」
本能の赴くままに一花が厨房に向かうと、そこでは別人のように背筋を伸ばしてきびきびと動く進藤の後ろ姿があった。様々な食材がバットに乗せられて整然と作業台の上に並び、調理の順番を待っている。一花に最も近い場所にはすでに完成しているサラダが四つ、置かれている。
「進藤さん」
「ん」
一花が話しかけると進藤が首を回してこちらを見た。常に眉がハの字に垂れ下がっている情けない表情とは一転し、至極真剣な表情をしている。
「掃除、ひと段落つきました」
「ありがとう。こっちも丁度準備できたところだ」
言って進藤はコンロの火を止めると、腰に巻いた黒いエプロンで手を拭ってから後ろに置いてあるガラスの戸棚を開けた。
「皆、二十歳過ぎてるかな? 白ワインはどうだろう。最近仕入れたものなんだけど、スッキリしてて飲みやすいんだ」
「全員二十歳は過ぎてますけど……賄いでワインですか?」
「うん。料理との相性があるからね。是非。ワインセラーに入れていたから程よく冷えてるよ」
言って進藤は慣れた手つきでワインのコルクを抜いた。
「おっ、ワイン」
待ちきれなくなったのか流歌が厨房を覗き込んで来た。ワインを見て顔を輝かせる。
「進藤さんの奢り?」
「そう。肉体労働をした後には冷えたワインが美味いだろう」
「お、おー。お洒落だなぁ」
「すぐに持っていくから座っててくれ」
進藤に促されるままに四人は椅子に座る。進藤はまずワイングラスを持って来て四人の前に差し出し、そこに先ほど栓を抜いたワインを注ぎいれた。トクトクトクと音がして、グラスの中を透明な白ワインが満たしていった。
「進藤さんの分は?」
「今日の僕は料理人兼給仕に集中するよ。僕に出来ることはそのくらいだから」
グラスが四つしかないので一花が聞くと、彼は笑って首を横に振る。
「え、ダメですよ。友好を深めるためにも一緒に食べましょうよ」
「だが……」
「じゃ、せめて乾杯だけでも」
一花が押すと、進藤は目を泳がせた後に小さく頷く。
「一杯だけ、御相伴に預かろうか」
「そう来ないと」
言って進藤は厨房にとんぼ返りすると自分用のグラスを持って来て、そこにワインを注ぐ。進藤は中腰でグラスを掲げ、何か言おうとし、それから首をかしげる。
「えー……こう言う時はなんと言うんだろうか」
「何でもいいんじゃ無いですか? お疲れ様、とかこれからよろしく、とか」
「じ、じゃあ、今日は……お疲れ様でした。明日からもよろしくお願いします」
「はいはいーっ、乾杯!」
進藤のしどろもどろな掛け声の後一花が乾杯の合図をすると、残りの三人も「乾杯!」と言ってグラスをぶつける。カツンといい音がした後に四人は白ワインをグッと飲んだ。
疲れた体に染み渡るように、程よく冷えた白ワインのフルーティな味わいが喉の奥を通っていく。一花は思わず叫んだ。
「んーっ最高!」
「本当だねぇ、一花ちゃん!」
「なんか大人って感じだな!」
「桃子とワインが飲めるなんて、俺は幸せ者だ」
各々が感想を述べていると、一人進藤だけがまだワインに口をつけていない事に気がついた。進藤はなぜか信じられないものを見るかのような顔つきで四人を凝視しており、動きは完全に止まっている。
「進藤さん、どうしたんですか?」
「君たち……か、乾杯で……グラスをぶつけたな?」
「え……何かダメでしたか」
「ダメに決まっているだろう!」
進藤は力一杯そう言うと、顔を青ざめたままに腰を浮かせテーブル上に前のめりになった。
「いいかい君たち。ワイングラスで乾杯をする時は、グラス同士をぶつけてはいけないんだ! 胸の高さまでグラスを掲げ、目線を合わせて『乾杯』と言えばいい。グラスは薄くて繊細な作りをしているから、ビールジョッキのようにぶつけ合ったら割れてしまう可能性があるんだ!」
唐突にまくし立てた進藤を四人はぽかんと見つめた。それから互いに言い訳めいたことを言い始める。
「あー、そう言えばそうだったような?」
「でも俺らやっと二十歳になったばかりの学生だぞ。テーブルマナーなんぞ知らないっつーか」
「場の雰囲気とかその場のノリで、ついつい乾杯しちゃったよね」
「いつもは焼き鳥屋とかチェーンの居酒屋だもんな」
「ダメだダメだっ‼︎」
一花は一心不乱に壁を磨き続けていた。子供の頃に両親に連れられて訪れていた店をこうして掃除するというのは不思議な気分である。
よほど掃除していなかったのか、壁紙の隙間に埃がこびりついて力一杯こすらないと落ちてくれない。余計な事を考えず、一花はひたすらに汚れを落とす事だけに集中していた。
「おーっす、一花、桃子。そろそろひと段落つけようぜ」
「大分綺麗になってるな」
ゴシゴシゴシゴシこすり続けていると扉が開いて流歌と圭人が入ってくる。それが頭の隅でわかっていて尚、一花は壁紙だけを見つめていた。この隙間に詰まった強固な黒ずみを落としたい。
「桃子。疲れてないか? 大丈夫か?」
「圭人君。平気だよ。圭人君と流歌君はどう?」
「俺たちは全く問題ないぜ。なっ、流歌?」
「よく言うぜ。さっきまでへばって道路で横になってたじゃねえか」
「おまえっ、それは言わない約束だろ!」
「一花も、休憩しとこう」
「うん」
壁の汚れが落ちたところで一花は流歌を振り返る。
「わっ、床がピカピカ」
「えへへ。ワックスがけは明日かな?」
桃子は満足そうに自身が手がけた掃除箇所を見て言う。来ていたスカートがシワシワになっていたが、全く問題にしていなかった。
「外に出してたテーブルと椅子、引っ込めるか」
「ついでに洗っておいたぞ」
「さすが流歌と圭人。ありがとう」
「つか何かすげえいい匂いしない?」
流歌に言われて一花は気がついた。
————厨房からとてつもなくいい匂いが漂ってきていることに。これはベーコンを焼く香りだ。半分見えない厨房では、進藤が何やら作業をしている音が聞こえてくる。ボウルとスプーンがぶつかり合う音、火を使う気配。
現実に引き戻された一花は、一気に空腹を感じた。そういえば朝起きてから祖母が用意してくれた焼きそばを食べた以外、今日はほとんど何も口にしていない。
「えっ、お腹空いた」
本能の赴くままに一花が厨房に向かうと、そこでは別人のように背筋を伸ばしてきびきびと動く進藤の後ろ姿があった。様々な食材がバットに乗せられて整然と作業台の上に並び、調理の順番を待っている。一花に最も近い場所にはすでに完成しているサラダが四つ、置かれている。
「進藤さん」
「ん」
一花が話しかけると進藤が首を回してこちらを見た。常に眉がハの字に垂れ下がっている情けない表情とは一転し、至極真剣な表情をしている。
「掃除、ひと段落つきました」
「ありがとう。こっちも丁度準備できたところだ」
言って進藤はコンロの火を止めると、腰に巻いた黒いエプロンで手を拭ってから後ろに置いてあるガラスの戸棚を開けた。
「皆、二十歳過ぎてるかな? 白ワインはどうだろう。最近仕入れたものなんだけど、スッキリしてて飲みやすいんだ」
「全員二十歳は過ぎてますけど……賄いでワインですか?」
「うん。料理との相性があるからね。是非。ワインセラーに入れていたから程よく冷えてるよ」
言って進藤は慣れた手つきでワインのコルクを抜いた。
「おっ、ワイン」
待ちきれなくなったのか流歌が厨房を覗き込んで来た。ワインを見て顔を輝かせる。
「進藤さんの奢り?」
「そう。肉体労働をした後には冷えたワインが美味いだろう」
「お、おー。お洒落だなぁ」
「すぐに持っていくから座っててくれ」
進藤に促されるままに四人は椅子に座る。進藤はまずワイングラスを持って来て四人の前に差し出し、そこに先ほど栓を抜いたワインを注ぎいれた。トクトクトクと音がして、グラスの中を透明な白ワインが満たしていった。
「進藤さんの分は?」
「今日の僕は料理人兼給仕に集中するよ。僕に出来ることはそのくらいだから」
グラスが四つしかないので一花が聞くと、彼は笑って首を横に振る。
「え、ダメですよ。友好を深めるためにも一緒に食べましょうよ」
「だが……」
「じゃ、せめて乾杯だけでも」
一花が押すと、進藤は目を泳がせた後に小さく頷く。
「一杯だけ、御相伴に預かろうか」
「そう来ないと」
言って進藤は厨房にとんぼ返りすると自分用のグラスを持って来て、そこにワインを注ぐ。進藤は中腰でグラスを掲げ、何か言おうとし、それから首をかしげる。
「えー……こう言う時はなんと言うんだろうか」
「何でもいいんじゃ無いですか? お疲れ様、とかこれからよろしく、とか」
「じ、じゃあ、今日は……お疲れ様でした。明日からもよろしくお願いします」
「はいはいーっ、乾杯!」
進藤のしどろもどろな掛け声の後一花が乾杯の合図をすると、残りの三人も「乾杯!」と言ってグラスをぶつける。カツンといい音がした後に四人は白ワインをグッと飲んだ。
疲れた体に染み渡るように、程よく冷えた白ワインのフルーティな味わいが喉の奥を通っていく。一花は思わず叫んだ。
「んーっ最高!」
「本当だねぇ、一花ちゃん!」
「なんか大人って感じだな!」
「桃子とワインが飲めるなんて、俺は幸せ者だ」
各々が感想を述べていると、一人進藤だけがまだワインに口をつけていない事に気がついた。進藤はなぜか信じられないものを見るかのような顔つきで四人を凝視しており、動きは完全に止まっている。
「進藤さん、どうしたんですか?」
「君たち……か、乾杯で……グラスをぶつけたな?」
「え……何かダメでしたか」
「ダメに決まっているだろう!」
進藤は力一杯そう言うと、顔を青ざめたままに腰を浮かせテーブル上に前のめりになった。
「いいかい君たち。ワイングラスで乾杯をする時は、グラス同士をぶつけてはいけないんだ! 胸の高さまでグラスを掲げ、目線を合わせて『乾杯』と言えばいい。グラスは薄くて繊細な作りをしているから、ビールジョッキのようにぶつけ合ったら割れてしまう可能性があるんだ!」
唐突にまくし立てた進藤を四人はぽかんと見つめた。それから互いに言い訳めいたことを言い始める。
「あー、そう言えばそうだったような?」
「でも俺らやっと二十歳になったばかりの学生だぞ。テーブルマナーなんぞ知らないっつーか」
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