悪役令嬢グラッセは婚約破棄を「請求」する!

恋の箱庭

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「待ちなさいよ! グラッセ!」

会場を出て、王城の長い廊下を歩いていたときだった。

背後から、ヒールの音を荒く響かせて誰かが追いかけてくる。

振り返るまでもない。

その足音のリズムの悪さ、そして無駄に体力を消耗する走り方。

「……ミナ様。廊下は走らないでいただけますか? 王城の床材は摩耗しやすい高級木材です。修繕費がかさみます」

私が立ち止まって振り返ると、そこには肩で息をするミナがいた。

ピンク色の髪は乱れ、可愛らしい顔は怒りで赤く染まっている。

「はぁ、はぁ……! よくも、よくもアラン様に恥をかかせてくれたわね!」

「恥? それは心外ですわ。私はただ、未払いの債権について事実確認を行っただけです」

「それが恥だって言ってるの! あんな大勢の前で、一億枚だなんて……。アラン様が可哀想だと思わないの!?」

ミナが叫ぶと、遅れてアラン王子も走ってきた。

「ぐ、グラッセ! 待てと言っているだろう!」

王子もまた、顔を真っ赤にして私を睨みつけている。

やれやれ。

私は懐中時計を取り出し、時間を確認した。

「馬車の迎えまであと三分あります。その間であれば、無料(タダ)でお相手しましょう」

「ふざけるな! さっきの請求書は無効だ! あんな法外な金額、認められるわけがない!」

アラン王子が私の目の前で、先ほど押し付けた羊皮紙の束を破り捨てようとする。

しかし。

「おや、破り捨てても構いませんよ?」

私が涼しい顔で言うと、王子はピタリと動きを止めた。

「な、なんだと?」

「それは原本ではなく『写し』です。原本はすでに王都の商業ギルド、および王立裁判所に提出済みです。今ここでそれを破れば、公文書毀棄(きき)の罪が加算されますが……よろしいですか?」

「う、うぐ……ッ!」

王子は震える手で羊皮紙を握りしめたまま、動けなくなった。

その横で、ミナが再び噛みついてくる。

「ひどい……やっぱりグラッセ様は悪魔だわ! お金、お金、お金! 世の中にはお金よりも大事なものがあるって、学校で習わなかったの!?」

ミナは潤んだ瞳で私を見上げ、両手を組んで祈るようなポーズをとった。

「私とアラン様の間には『真実の愛』があります! どんなにお金がなくたって、愛があれば幸せになれるんです! あなたのその腐った性根には、そんな美しい感情なんて理解できないでしょうけど!」

廊下の曲がり角から、様子を窺っていた野次馬の貴族たちがざわめく。

「……確かに、ミナ様の言うことも一理あるな」

「愛はお金では買えない、か。美しい言葉だ」

周囲の空気が、少しだけミナに傾きかけた。

計算高い女だ。

天然を装っているが、どうすれば自分が悲劇のヒロインに見えるか、よく研究している。

だが、相手が悪かった。

私は一歩、ミナに近づいた。

「ひっ……な、なによ」

「愛があれば幸せ、ですか。素晴らしい心がけですわ。では、その愛があれば、生活必需品は不要ということでよろしいですね?」

「は? なにを……」

私は指をパチンと鳴らした。

「あなたは先ほど、私がお金の話をしたことを『汚い』と仰いました。そして『愛があればいい』とも。――では、証明していただきましょう」

私はミナの顔を覗き込む。

「その顔に塗っているファンデーション。王都で人気の『白薔薇堂』の新作ですね? 一瓶で金貨三枚。私の出資している店の商品ですが、当然、あなたのお財布から出たものではありませんよね?」

「う……」

「唇に塗ったルージュ。南方の希少な虫から抽出した染料を使った特注品。金貨五枚。これもツケ払いのリストに入っています」

「そ、それがどうしたのよ!」

「さらに、あなたのそのサラサラの髪を維持するためのトリートメント。一回につき金貨二枚。週に三回通っている美容院も、私の経営です」

私は電卓を取り出し、素早く叩く。

「化粧品、美容代、香水、エステ代……。あなたが『自分自身』だと思っているその美貌の九割は、私の資本(カネ)によって維持されています。愛だけでその美しさが保てると思っているなら、今すぐすべて洗い流してきなさい」

「……っ!?」

ミナがハッと息を呑み、思わず自分の頬を押さえた。

「嫌よ……! これがないと、私……」

「おや? 愛があればすっぴんでも愛されるのでは? それとも、アラン殿下の愛は、化粧という『課金』が切れた瞬間に終わる程度のものなのですか?」

私が視線を王子に向けると、王子は気まずそうに目を逸らした。

図星か。

「あ、愛はあるさ! だが、その……王族のパートナーとして、身だしなみは必要不可欠で……」

「その身だしなみの代金を払っていないのが問題だと言っているのです。――衛兵!」

私は廊下に立っていた近衛兵たちに声をかけた。

ガシャン、と鎧の音を立てて二人の衛兵が近づいてくる。

ミナが勝ち誇ったように笑った。

「そうよ! 衛兵さん、この無礼な女を捕まえて! 王子に対する不敬罪よ!」

王子も威厳を取り戻したように胸を張る。

「そうだ。グラッセを捕らえろ。この場からつまみ出せ!」

しかし。

衛兵たちは動かなかった。

それどころか、私に向かってビシッと敬礼をしたのだ。

「グラッセ様! 本日はどのようなご用件でしょうか!」

「なっ……!?」

アラン王子とミナが口をあんぐりと開ける。

「き、貴様ら! 王子の命令が聞こえないのか!?」

衛兵の一人が、申し訳なさそうに王子を見た。

「申し訳ございません、殿下。しかし、我々の装備……この鎧も、剣も、すべてラズベリー公爵家からの寄贈品でして」

「は?」

もう一人の衛兵が続く。

「それに、先日の給与遅配の際、給料を立て替えてくださったのもグラッセ様なのです。我々にとって、グラッセ様は命の恩人……いえ、生活の恩人でありまして」

「そ、そんな……」

ミナが青ざめた顔で後ずさりをする。

私は扇を口元に当てて、優雅に微笑んだ。

「おわかりいただけましたか? この王城で働く者の多くは、すでに王家よりも私に忠誠を誓っています。……いえ、正確には『私の財布』に、ですが」

ミナの足がガクガクと震え始めた。

先ほどまでの計算高い表情は消え失せ、底知れぬ恐怖を見ているような目だ。

権力や暴力ではない。

逃げ場のない、圧倒的な経済力による包囲網。

それが彼女を追い詰めているのだ。

「ぐ、グラッセ……お前、国を乗っ取る気か……?」

アラン王子が掠れた声で呟く。

「まさか。そんな維持費のかかる面倒なもの、頼まれてもいりませんわ。私が欲しいのは、貸した金と利息。それだけです」

その時、窓の外に黒塗りの馬車が到着したのが見えた。

私の家の馬車だ。

ただし、車体には大きく『ラズベリー商会・高価買取実施中!』という広告のペイントが施されているが。

「おっと、時間です。三分経ちましたので、これ以上の会話は延長料金が発生します」

「……っ」

二人が言葉を詰まらせる。

「では、明日の朝、屋敷に伺います。くれぐれも、夜逃げなどなさらぬよう。――国境の検問所も、私の息がかかっておりますから」

最後に釘を刺し、私は二人に背を向けた。

「ひぃっ……!」

背後でミナの短い悲鳴が聞こえたが、私は振り返らなかった。

カツ、カツ、カツ。

廊下を歩きながら、私は手帳を開く。

「さて、次は実家(おとうさま)ね。あの狸親父、家の金を使い込んで裏帳簿を作っているのはお見通しよ」

王子の婚約破棄騒動など、私にとっては巨大なビジネスチャンスの幕開けに過ぎない。

震えるヒロインと、呆然とする王子を置き去りにして、私は戦場(じっか)へと向かう馬車に乗り込んだ。

「御者、出してちょうだい。急いで。――タイム・イズ・マネーよ!」

馬車の車輪が回り出す。

私の新たな、そして多忙な一日が始まろうとしていた。
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