悪役令嬢グラッセは婚約破棄を「請求」する!

恋の箱庭

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「……ねえ、グラッセ。少し話があるんだが」

夜の帳(とばり)が下りたラズベリー公爵邸。

その執務室で、私はシリル公爵と向かい合っていた。

机の上には、先日の「近衛騎士団との契約書(改定版)」や、「鉱山開発計画書」など、金を生む書類が山のように積まれている。

私は羽ペンを走らせながら、顔も上げずに答えた。

「なんでしょう? 追加出資の話なら大歓迎です。それとも、私の執務室の『深夜残業代』の請求についてですか?」

シリルはいつものように紅茶を優雅に飲んでいる……かと思いきや、今日はどこか様子が違った。

カツ、カツ、と足音が近づいてくる。

ふと気づくと、彼が私の椅子のすぐ後ろに立っていた。

「グラッセ」

低く、甘い声が耳元で囁かれる。

「……近いですわ、シリル閣下。パーソナルスペースの侵害は、追加料金が発生しますよ?」

私が振り返ろうとした、その瞬間。

ドンッ!

私の背後の壁――ではなく、椅子の背もたれと机の間に、シリルが腕を突き出した。

いわゆる『壁ドン』ならぬ『椅子ドン』だ。

逃げ場を塞がれた私は、必然的に彼を見上げる形になる。

至近距離にある美貌。

氷のような蒼い瞳が、熱を帯びて私を見下ろしている。

「……シリル閣下?」

「単刀直入に言おう。私はもう、我慢の限界だ」

シリルが顔を近づけてくる。

その吐息がかかるほどの距離で、彼は真剣な眼差しで告げた。

「君を見ていると、どうしようもなく心が昂(たか)ぶるんだ。……君が欲しくてたまらない」

普通の令嬢なら、ここで顔を赤らめて目を閉じる場面だろう。

甘い雰囲気。

薄暗い照明。

絶世の美男子からの求愛。

しかし。

私は冷静に、彼の瞳の奥にある「色」を分析した。

(……この目。どこかで見たことがあるわね)

そう。これは恋する男の目ではない。

市場で極上のマグロを見つけた寿司職人、あるいは伝説の秘宝を見つけたトレジャーハンターの目だ。

私は眉一つ動かさずに問い返した。

「『私が欲しい』とは、具体的に私のどの部分(パーツ)を指していますか? 臓器売買はお断りですよ?」

シリルはフッと笑い、私の顎を指先で持ち上げた。

「君の『脳』だ」

「脳?」

「ああ。君のその、金に対する異常なまでの嗅覚。冷徹な計算能力。そして、国さえも動かす商才……。それが欲しい」

シリルは、愛を囁くように続けた。

「私の国――ノワール帝国に来てくれ。君の才能があれば、帝国の経済はさらに発展する。私の右腕として、いや、私の『頭脳』として、すべての資産運用を任せたい」

「……つまり、ヘッドハンティングですね?」

「言葉を選ばずに言えば『独占契約』だ。君という希代の『錬金術師』を、私だけのものにしたい」

シリルは顔を寄せ、私の唇まであと数センチの距離で止まった。

「どうだ? 私と結婚すれば、帝国の国庫も、私の個人資産も、すべて君が自由に動かせる。……悪い話ではないだろう?」

甘い誘惑。

だが、私はニヤリと口角を上げた。

「なるほど。シリル閣下、あなたはとんだ『人たらし』ですね」

「褒め言葉として受け取っておこう」

「ですが……甘いですわ」

私は彼の手をパチンと払い除け、逆に彼のネクタイをグイッと引っ張った。

「うおっ!?」

不意をつかれたシリルが体勢を崩し、私たちの顔がさら近くなる。

今度は私が攻める番だ。

私は彼の耳元で、悪魔のように囁いた。

「あなたが私の『脳』を欲しがるなら……あら奇遇。私はあなたの『鉱山』が欲しいですわ」

「……は?」

「先日視察したあの鉱山。魔導石の山。あれの権利、半分じゃ足りません。――『全部』よこしなさい」

シリルが目を見開く。

「ぜ、全部だと? あれは私の隠し資産の中でもトップクラスの……」

「あなたが私と結婚したい理由は、私の才能でさらに儲けるためでしょう? なら、先行投資としてそのくらい安いものですわ」

私は彼の胸板に人差し指を突き立てた。

「私を『永久就職』させたいなら、結納金代わりにあの鉱山の権利書と、帝国の通商権、そしてあなたの個人資産の共同運用権……すべて差し出しなさい」

「……君は、強欲すぎる」

「お褒めにあずかり光栄です。さあ、どうします? この商談、乗りますか? それとも降りますか?」

二人の視線がバチバチと交錯する。

愛の告白の現場とは思えない、血で血を洗うような交渉(ネゴシエーション)。

沈黙が流れる。

やがて。

シリルは喉の奥から低い笑い声を漏らし始めた。

「くく……はははッ! 傑作だ! まさか『全部よこせ』と言われるとは!」

彼は私の手を放し、腹を抱えて笑った。

「普通、『あなたのお嫁さんにして』とか『愛して』とか言うだろう! 鉱山をよこせだと!?」

「愛などの不確定なものより、不動産の方が信用できますから」

私は涼しい顔で服を整えた。

シリルはひとしきり笑った後、涙を拭いながら私を見た。

その目は、先ほどまでの「狩人の目」から、心底楽しそうな「同志の目」に変わっていた。

「いいだろう、グラッセ。負けたよ」

「あら、降伏ですか?」

「いや、契約締結だ。――鉱山の権利は君に譲ろう。その代わり、君の人生という『株』の過半数は、私が取得する」

シリルは右手を差し出した。

「どうだ? これで手打ちにしないか?」

私はその手を見つめ、電卓を弾くフリをしてから、ガッチリと握り返した。

「商談成立です。シリル・ヴァン・ノワール『共同経営者(パートナー)』」

「ああ。よろしく頼むよ、グラッセ・ド・ラズベリー『最高財務責任者(ワイフ)』」

私たちは握手を交わした。

ロマンチックなキスも抱擁もない。

あるのは、互いの利益と野望が一致したという、ドライで強固な契約だけ。

だが、不思議と嫌な気分ではなかった。

「さて、契約が成立したところで、早速ですが残業を再開しましょうか。帝国の税制改革案について、意見があります」

私が椅子に座り直すと、シリルも嬉々として隣に椅子を持ってきた。

「ほう、聞こうか。実は私も、関税の抜け道についていいアイデアがあってな」

こうして。

私たちは夜が明けるまで、愛を語らう代わりに「いかにして効率よく金を稼ぐか」について熱く語り合った。

翌朝、目の下にクマを作った二人を見て、屋敷の使用人たちが「まあ、お熱いこと……」と赤面していたが、大きな誤解である。

私たちが熱くなっていたのは、あくまで『脱税スキーム』と『市場独占計画』についてなのだから。
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