11 / 27
11
しおりを挟む
「……ねえ、グラッセ。少し話があるんだが」
夜の帳(とばり)が下りたラズベリー公爵邸。
その執務室で、私はシリル公爵と向かい合っていた。
机の上には、先日の「近衛騎士団との契約書(改定版)」や、「鉱山開発計画書」など、金を生む書類が山のように積まれている。
私は羽ペンを走らせながら、顔も上げずに答えた。
「なんでしょう? 追加出資の話なら大歓迎です。それとも、私の執務室の『深夜残業代』の請求についてですか?」
シリルはいつものように紅茶を優雅に飲んでいる……かと思いきや、今日はどこか様子が違った。
カツ、カツ、と足音が近づいてくる。
ふと気づくと、彼が私の椅子のすぐ後ろに立っていた。
「グラッセ」
低く、甘い声が耳元で囁かれる。
「……近いですわ、シリル閣下。パーソナルスペースの侵害は、追加料金が発生しますよ?」
私が振り返ろうとした、その瞬間。
ドンッ!
私の背後の壁――ではなく、椅子の背もたれと机の間に、シリルが腕を突き出した。
いわゆる『壁ドン』ならぬ『椅子ドン』だ。
逃げ場を塞がれた私は、必然的に彼を見上げる形になる。
至近距離にある美貌。
氷のような蒼い瞳が、熱を帯びて私を見下ろしている。
「……シリル閣下?」
「単刀直入に言おう。私はもう、我慢の限界だ」
シリルが顔を近づけてくる。
その吐息がかかるほどの距離で、彼は真剣な眼差しで告げた。
「君を見ていると、どうしようもなく心が昂(たか)ぶるんだ。……君が欲しくてたまらない」
普通の令嬢なら、ここで顔を赤らめて目を閉じる場面だろう。
甘い雰囲気。
薄暗い照明。
絶世の美男子からの求愛。
しかし。
私は冷静に、彼の瞳の奥にある「色」を分析した。
(……この目。どこかで見たことがあるわね)
そう。これは恋する男の目ではない。
市場で極上のマグロを見つけた寿司職人、あるいは伝説の秘宝を見つけたトレジャーハンターの目だ。
私は眉一つ動かさずに問い返した。
「『私が欲しい』とは、具体的に私のどの部分(パーツ)を指していますか? 臓器売買はお断りですよ?」
シリルはフッと笑い、私の顎を指先で持ち上げた。
「君の『脳』だ」
「脳?」
「ああ。君のその、金に対する異常なまでの嗅覚。冷徹な計算能力。そして、国さえも動かす商才……。それが欲しい」
シリルは、愛を囁くように続けた。
「私の国――ノワール帝国に来てくれ。君の才能があれば、帝国の経済はさらに発展する。私の右腕として、いや、私の『頭脳』として、すべての資産運用を任せたい」
「……つまり、ヘッドハンティングですね?」
「言葉を選ばずに言えば『独占契約』だ。君という希代の『錬金術師』を、私だけのものにしたい」
シリルは顔を寄せ、私の唇まであと数センチの距離で止まった。
「どうだ? 私と結婚すれば、帝国の国庫も、私の個人資産も、すべて君が自由に動かせる。……悪い話ではないだろう?」
甘い誘惑。
だが、私はニヤリと口角を上げた。
「なるほど。シリル閣下、あなたはとんだ『人たらし』ですね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「ですが……甘いですわ」
私は彼の手をパチンと払い除け、逆に彼のネクタイをグイッと引っ張った。
「うおっ!?」
不意をつかれたシリルが体勢を崩し、私たちの顔がさら近くなる。
今度は私が攻める番だ。
私は彼の耳元で、悪魔のように囁いた。
「あなたが私の『脳』を欲しがるなら……あら奇遇。私はあなたの『鉱山』が欲しいですわ」
「……は?」
「先日視察したあの鉱山。魔導石の山。あれの権利、半分じゃ足りません。――『全部』よこしなさい」
シリルが目を見開く。
「ぜ、全部だと? あれは私の隠し資産の中でもトップクラスの……」
「あなたが私と結婚したい理由は、私の才能でさらに儲けるためでしょう? なら、先行投資としてそのくらい安いものですわ」
私は彼の胸板に人差し指を突き立てた。
「私を『永久就職』させたいなら、結納金代わりにあの鉱山の権利書と、帝国の通商権、そしてあなたの個人資産の共同運用権……すべて差し出しなさい」
「……君は、強欲すぎる」
「お褒めにあずかり光栄です。さあ、どうします? この商談、乗りますか? それとも降りますか?」
二人の視線がバチバチと交錯する。
愛の告白の現場とは思えない、血で血を洗うような交渉(ネゴシエーション)。
沈黙が流れる。
やがて。
シリルは喉の奥から低い笑い声を漏らし始めた。
「くく……はははッ! 傑作だ! まさか『全部よこせ』と言われるとは!」
彼は私の手を放し、腹を抱えて笑った。
「普通、『あなたのお嫁さんにして』とか『愛して』とか言うだろう! 鉱山をよこせだと!?」
「愛などの不確定なものより、不動産の方が信用できますから」
私は涼しい顔で服を整えた。
シリルはひとしきり笑った後、涙を拭いながら私を見た。
その目は、先ほどまでの「狩人の目」から、心底楽しそうな「同志の目」に変わっていた。
「いいだろう、グラッセ。負けたよ」
「あら、降伏ですか?」
「いや、契約締結だ。――鉱山の権利は君に譲ろう。その代わり、君の人生という『株』の過半数は、私が取得する」
シリルは右手を差し出した。
「どうだ? これで手打ちにしないか?」
私はその手を見つめ、電卓を弾くフリをしてから、ガッチリと握り返した。
「商談成立です。シリル・ヴァン・ノワール『共同経営者(パートナー)』」
「ああ。よろしく頼むよ、グラッセ・ド・ラズベリー『最高財務責任者(ワイフ)』」
私たちは握手を交わした。
ロマンチックなキスも抱擁もない。
あるのは、互いの利益と野望が一致したという、ドライで強固な契約だけ。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「さて、契約が成立したところで、早速ですが残業を再開しましょうか。帝国の税制改革案について、意見があります」
私が椅子に座り直すと、シリルも嬉々として隣に椅子を持ってきた。
「ほう、聞こうか。実は私も、関税の抜け道についていいアイデアがあってな」
こうして。
私たちは夜が明けるまで、愛を語らう代わりに「いかにして効率よく金を稼ぐか」について熱く語り合った。
翌朝、目の下にクマを作った二人を見て、屋敷の使用人たちが「まあ、お熱いこと……」と赤面していたが、大きな誤解である。
私たちが熱くなっていたのは、あくまで『脱税スキーム』と『市場独占計画』についてなのだから。
夜の帳(とばり)が下りたラズベリー公爵邸。
その執務室で、私はシリル公爵と向かい合っていた。
机の上には、先日の「近衛騎士団との契約書(改定版)」や、「鉱山開発計画書」など、金を生む書類が山のように積まれている。
私は羽ペンを走らせながら、顔も上げずに答えた。
「なんでしょう? 追加出資の話なら大歓迎です。それとも、私の執務室の『深夜残業代』の請求についてですか?」
シリルはいつものように紅茶を優雅に飲んでいる……かと思いきや、今日はどこか様子が違った。
カツ、カツ、と足音が近づいてくる。
ふと気づくと、彼が私の椅子のすぐ後ろに立っていた。
「グラッセ」
低く、甘い声が耳元で囁かれる。
「……近いですわ、シリル閣下。パーソナルスペースの侵害は、追加料金が発生しますよ?」
私が振り返ろうとした、その瞬間。
ドンッ!
私の背後の壁――ではなく、椅子の背もたれと机の間に、シリルが腕を突き出した。
いわゆる『壁ドン』ならぬ『椅子ドン』だ。
逃げ場を塞がれた私は、必然的に彼を見上げる形になる。
至近距離にある美貌。
氷のような蒼い瞳が、熱を帯びて私を見下ろしている。
「……シリル閣下?」
「単刀直入に言おう。私はもう、我慢の限界だ」
シリルが顔を近づけてくる。
その吐息がかかるほどの距離で、彼は真剣な眼差しで告げた。
「君を見ていると、どうしようもなく心が昂(たか)ぶるんだ。……君が欲しくてたまらない」
普通の令嬢なら、ここで顔を赤らめて目を閉じる場面だろう。
甘い雰囲気。
薄暗い照明。
絶世の美男子からの求愛。
しかし。
私は冷静に、彼の瞳の奥にある「色」を分析した。
(……この目。どこかで見たことがあるわね)
そう。これは恋する男の目ではない。
市場で極上のマグロを見つけた寿司職人、あるいは伝説の秘宝を見つけたトレジャーハンターの目だ。
私は眉一つ動かさずに問い返した。
「『私が欲しい』とは、具体的に私のどの部分(パーツ)を指していますか? 臓器売買はお断りですよ?」
シリルはフッと笑い、私の顎を指先で持ち上げた。
「君の『脳』だ」
「脳?」
「ああ。君のその、金に対する異常なまでの嗅覚。冷徹な計算能力。そして、国さえも動かす商才……。それが欲しい」
シリルは、愛を囁くように続けた。
「私の国――ノワール帝国に来てくれ。君の才能があれば、帝国の経済はさらに発展する。私の右腕として、いや、私の『頭脳』として、すべての資産運用を任せたい」
「……つまり、ヘッドハンティングですね?」
「言葉を選ばずに言えば『独占契約』だ。君という希代の『錬金術師』を、私だけのものにしたい」
シリルは顔を寄せ、私の唇まであと数センチの距離で止まった。
「どうだ? 私と結婚すれば、帝国の国庫も、私の個人資産も、すべて君が自由に動かせる。……悪い話ではないだろう?」
甘い誘惑。
だが、私はニヤリと口角を上げた。
「なるほど。シリル閣下、あなたはとんだ『人たらし』ですね」
「褒め言葉として受け取っておこう」
「ですが……甘いですわ」
私は彼の手をパチンと払い除け、逆に彼のネクタイをグイッと引っ張った。
「うおっ!?」
不意をつかれたシリルが体勢を崩し、私たちの顔がさら近くなる。
今度は私が攻める番だ。
私は彼の耳元で、悪魔のように囁いた。
「あなたが私の『脳』を欲しがるなら……あら奇遇。私はあなたの『鉱山』が欲しいですわ」
「……は?」
「先日視察したあの鉱山。魔導石の山。あれの権利、半分じゃ足りません。――『全部』よこしなさい」
シリルが目を見開く。
「ぜ、全部だと? あれは私の隠し資産の中でもトップクラスの……」
「あなたが私と結婚したい理由は、私の才能でさらに儲けるためでしょう? なら、先行投資としてそのくらい安いものですわ」
私は彼の胸板に人差し指を突き立てた。
「私を『永久就職』させたいなら、結納金代わりにあの鉱山の権利書と、帝国の通商権、そしてあなたの個人資産の共同運用権……すべて差し出しなさい」
「……君は、強欲すぎる」
「お褒めにあずかり光栄です。さあ、どうします? この商談、乗りますか? それとも降りますか?」
二人の視線がバチバチと交錯する。
愛の告白の現場とは思えない、血で血を洗うような交渉(ネゴシエーション)。
沈黙が流れる。
やがて。
シリルは喉の奥から低い笑い声を漏らし始めた。
「くく……はははッ! 傑作だ! まさか『全部よこせ』と言われるとは!」
彼は私の手を放し、腹を抱えて笑った。
「普通、『あなたのお嫁さんにして』とか『愛して』とか言うだろう! 鉱山をよこせだと!?」
「愛などの不確定なものより、不動産の方が信用できますから」
私は涼しい顔で服を整えた。
シリルはひとしきり笑った後、涙を拭いながら私を見た。
その目は、先ほどまでの「狩人の目」から、心底楽しそうな「同志の目」に変わっていた。
「いいだろう、グラッセ。負けたよ」
「あら、降伏ですか?」
「いや、契約締結だ。――鉱山の権利は君に譲ろう。その代わり、君の人生という『株』の過半数は、私が取得する」
シリルは右手を差し出した。
「どうだ? これで手打ちにしないか?」
私はその手を見つめ、電卓を弾くフリをしてから、ガッチリと握り返した。
「商談成立です。シリル・ヴァン・ノワール『共同経営者(パートナー)』」
「ああ。よろしく頼むよ、グラッセ・ド・ラズベリー『最高財務責任者(ワイフ)』」
私たちは握手を交わした。
ロマンチックなキスも抱擁もない。
あるのは、互いの利益と野望が一致したという、ドライで強固な契約だけ。
だが、不思議と嫌な気分ではなかった。
「さて、契約が成立したところで、早速ですが残業を再開しましょうか。帝国の税制改革案について、意見があります」
私が椅子に座り直すと、シリルも嬉々として隣に椅子を持ってきた。
「ほう、聞こうか。実は私も、関税の抜け道についていいアイデアがあってな」
こうして。
私たちは夜が明けるまで、愛を語らう代わりに「いかにして効率よく金を稼ぐか」について熱く語り合った。
翌朝、目の下にクマを作った二人を見て、屋敷の使用人たちが「まあ、お熱いこと……」と赤面していたが、大きな誤解である。
私たちが熱くなっていたのは、あくまで『脱税スキーム』と『市場独占計画』についてなのだから。
0
あなたにおすすめの小説
親切なミザリー
みるみる
恋愛
第一王子アポロの婚約者ミザリーは、「親切なミザリー」としてまわりから慕われていました。
ところが、子爵家令嬢のアリスと偶然出会ってしまったアポロはアリスを好きになってしまい、ミザリーを蔑ろにするようになりました。アポロだけでなく、アポロのまわりの友人達もアリスを慕うようになりました。
ミザリーはアリスに嫉妬し、様々な嫌がらせをアリスにする様になりました。
こうしてミザリーは、いつしか親切なミザリーから悪女ミザリーへと変貌したのでした。
‥ですが、ミザリーの突然の死後、何故か再びミザリーの評価は上がり、「親切なミザリー」として人々に慕われるようになり、ミザリーが死後海に投げ落とされたという崖の上には沢山の花が、毎日絶やされる事なく人々により捧げられ続けるのでした。
※不定期更新です。
恋人に夢中な婚約者に一泡吹かせてやりたかっただけ
棗
恋愛
伯爵令嬢ラフレーズ=ベリーシュは、王国の王太子ヒンメルの婚約者。
王家の忠臣と名高い父を持ち、更に隣国の姫を母に持つが故に結ばれた完全なる政略結婚。
長年の片思い相手であり、婚約者であるヒンメルの隣には常に恋人の公爵令嬢がいる。
婚約者には愛を示さず、恋人に夢中な彼にいつか捨てられるくらいなら、こちらも恋人を作って一泡吹かせてやろうと友達の羊の精霊メリー君の妙案を受けて実行することに。
ラフレーズが恋人役を頼んだのは、人外の魔術師・魔王公爵と名高い王国最強の男――クイーン=ホーエンハイム。
濡れた色香を放つクイーンからの、本気か嘘かも分からない行動に涙目になっていると恋人に夢中だった王太子が……。
※小説家になろう・カクヨム様にも公開しています
聖女に負けた侯爵令嬢 (よくある婚約解消もののおはなし)
蒼あかり
恋愛
ティアナは女王主催の茶会で、婚約者である王子クリストファーから婚約解消を告げられる。そして、彼の隣には聖女であるローズの姿が。
聖女として国民に、そしてクリストファーから愛されるローズ。クリストファーとともに並ぶ聖女ローズは美しく眩しいほどだ。そんな二人を見せつけられ、いつしかティアナの中に諦めにも似た思いが込み上げる。
愛する人のために王子妃として支える覚悟を持ってきたのに、それが叶わぬのならその立場を辞したいと願うのに、それが叶う事はない。
いつしか公爵家のアシュトンをも巻き込み、泥沼の様相に……。
ラストは賛否両論あると思います。納得できない方もいらっしゃると思います。
それでも最後まで読んでいただけるとありがたいです。
心より感謝いたします。愛を込めて、ありがとうございました。
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
さよなら私の愛しい人
ペン子
恋愛
由緒正しき大店の一人娘ミラは、結婚して3年となる夫エドモンに毛嫌いされている。二人は親によって決められた政略結婚だったが、ミラは彼を愛してしまったのだ。邪険に扱われる事に慣れてしまったある日、エドモンの口にした一言によって、崩壊寸前の心はいとも簡単に砕け散った。「お前のような役立たずは、死んでしまえ」そしてミラは、自らの最期に向けて動き出していく。
※5月30日無事完結しました。応援ありがとうございます!
※小説家になろう様にも別名義で掲載してます。
裏切りの先にあるもの
マツユキ
恋愛
侯爵令嬢のセシルには幼い頃に王家が決めた婚約者がいた。
結婚式の日取りも決まり数か月後の挙式を楽しみにしていたセシル。ある日姉の部屋を訪ねると婚約者であるはずの人が姉と口づけをかわしている所に遭遇する。傷つくセシルだったが新たな出会いがセシルを幸せへと導いていく。
悪役令嬢の涙
拓海のり
恋愛
公爵令嬢グレイスは婚約者である王太子エドマンドに卒業パーティで婚約破棄される。王子の側には、癒しの魔法を使え聖女ではないかと噂される子爵家に引き取られたメアリ―がいた。13000字の短編です。他サイトにも投稿します。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる