尊すぎて「悪役令嬢」を演じて婚約破棄されましたが、お構いなく!

恋の箱庭

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「……はあ、はあ。やっと捕まえた」

クロック領の最北端、別荘の玄関先。

腰を抜かしかけたラヴィニアを腕の中に閉じ込め、俺――フリードリヒは、その温もりを確かめるように強く抱きしめた。

「で、で、で、殿下ぁぁぁ……!?」

腕の中のラヴィニアは、ゆでダコのように真っ赤になり、金魚のように口をパクパクさせている。

「ち、近いです! 毛穴が見えます! いや、殿下に毛穴なんて存在するはずがありませんが、とにかく解像度が高すぎます!」

「……相変わらず、お前の言っていることはよく分からんが」

俺は苦笑しつつ、彼女の髪に頬を寄せた。

「元気そうでよかった。本当に」

ラヴィニアが王都を去ってから、わずか三日。

だが、俺にとっては三年にも等しい時間だった。

彼女がいない世界など、色のない絵画のようなものだ。

俺はラヴィニアの頭越しに、彼女が耕したという畑を見やった。

不格好だが、懸命に土を掘り返した跡がある。

「……こんな辺境で、一人で生きていこうとしていたのか。俺を置いて」

愛おしさと、僅かな怒りが込み上げてくる。

彼女は知らないのだ。

この三日間、俺がどれほどの執念でここへ辿り着いたかを。

          ◇

時計の針を、三日前に戻そう。

ラヴィニアに「婚約破棄」を告げた翌日。

彼女を乗せた馬車が王都を出発したとの報告を受けた瞬間、俺は執務室の扉を蹴破らんばかりの勢いで開け放った。

「アレク!」

「は、はいっ! なんでしょう殿下!」

騎士団長のアレクが、ビクリと肩を跳ねさせて振り返る。

俺は机の上に積み上げられた書類の山を指差し、冷徹に言い放った。

「これより、全ての公務を前倒しで処理する」

「……はい?」

「来月分の予算案、隣国との外交文書、式典のスケジュール調整、陳情の決裁。全てだ」

「す、全てとおっしゃいますと……?」

「向こう一ヶ月分……いや、二ヶ月分の仕事を、今日と明日で終わらせる」

アレクがポカンと口を開け、持っていたファイルを落とした。

「な、何を馬鹿なことを! 二ヶ月分の公務を二日で!? 物理的に不可能です! 死人が出ます!」

「俺がやる。お前たちは資料を運ぶだけでいい」

俺は椅子に座ると、凄まじい速度で羽ペンを走らせ始めた。

ラヴィニアを追いかけるには、王太子としての責務を放置するわけにはいかない。

ならば、彼女がいない間の仕事を先に片付けてしまえばいいだけの話だ。

「で、殿下、目が……目が据わっています!」

「うるさい。次!」

書類を読み、即座に判断を下し、サインをする。

その一連の動作を、呼吸をするように繰り返す。

通常なら側近たちと協議を重ねる案件も、俺の独断と頭脳ですべて最適解を導き出し、即決していく。

「――東部地域の治水工事計画、承認。予算は予備費から充当。次」

「は、はいっ!」

「――貿易関税の撤廃案、却下。修正案をここに書いた。三時間以内に清書しろ。次」

「ええっ、もう修正案を!?」

「――夜会の招待状、全て欠席で返信。理由は『公務多忙』だ。次!」

執務室は戦場と化した。

側近たちが悲鳴を上げながら走り回り、俺のペン先からは火が出るほどの勢いでインクが消費されていく。

休憩? いらない。

睡眠? 移動中に馬車で寝ればいい。

食事? 片手で食べられるサンドイッチを持ってこい。

俺を突き動かしているのは、ただ一つの感情だった。

『ラヴィニアに会いたい』。

ただそれだけだ。

あの夜会で、彼女は泣いていた。

「私を捨ててください」と言いながら、その瞳は俺への思慕に溢れていた。

あいつは勘違いしている。

自分が身を引けば俺が幸せになると、本気で信じているのだ。

その自己評価の低さと、俺への歪んだ信仰心を叩き直さねばならない。

「待っていろ、ラヴィニア。お前がどんなに逃げようと、俺は必ず捕まえる」

執念の炎を燃やしながら、俺は最後の書類にサインを叩きつけた。

「終わったぞ! 馬車を出せ!」

「ひぃぃぃ……ば、化け物……」

アレクがげっそりした顔で呟いたが、俺は無視してマントを翻した。

          ◇

そして、移動もまた過酷を極めた。

王都から北の最果てまでは、通常なら馬車で一週間はかかる距離だ。

だが、俺にそんな悠長な時間はない。

「飛ばせ」

「殿下、これ以上は馬が潰れます!」

「ならば魔法を使え。風属性の加速魔法を馬車にかけるんだ」

「無茶です! 車輪が耐えきれません!」

「壊れたら直せばいい。あるいは俺が走った方が早いか?」

「やめてください! 王太子が荒野を爆走しないでください!」

結局、王家直属の魔導師団を総動員し、馬車に結界と加速魔法を多重展開することで、物理法則を無視した強行軍が可能となった。

道中、山賊が出たらしいが、俺が窓から威圧魔法を一発放ったら、全員泡を吹いて気絶したので問題なかった。

こうして、俺たちは不眠不休で駆け抜け、驚異的なレコードタイムでこの別荘に辿り着いたのである。

全ては、愛しの「元」婚約者を捕獲するために。

          ◇

そして現在。

「……というわけで、俺は公務を片付けて休暇を取ってきた」

俺はラヴィニアに、あくまで涼しい顔で告げた。

「きゅ、休暇……?」

ラヴィニアは俺の胸元で、信じられないものを見るような目をしている。

「そんな……まさか、私のために無理をなさったのですか? お顔色が少しお悪いようですが……」

「気のせいだ。……それよりラヴィニア」

俺は彼女の顎に指をかけ、上向かせた。

至近距離で見つめ合う。

彼女の大きな瞳が揺れている。

「お前が俺を避けるのは勝手だが、俺はお前を諦めるつもりはない」

「ひっ……!」

「婚約破棄? ああ、確かに書類上はそうなっているな。だが、それがどうした?」

俺はニヤリと笑った。

「俺とお前の関係など、紙切れ一枚で切れるような薄っぺらいものではないだろう?」

「そ、それは……私は殿下のファンであり、下僕であり、ATMですので、関係が切れることはありませんが……」

「……ATMの意味は分からんが、まあいい」

俺は彼女の耳元に唇を寄せ、低く囁いた。

「俺はここに滞在する。お前が俺の元へ戻ると言うまで、テコでも動かんぞ」

「ええええええ!?」

ラヴィニアが悲鳴を上げた。

「む、無理です! ここは狭いし、ボロいし、殿下がお泊まりになれるような部屋はありません! それに、食事だって質素なものしか……」

「構わん。お前と同じものを食べ、お前と同じ屋根の下で眠る。……むしろ、それがいい」

王宮の豪華な暮らしなど、彼女がいない空虚さに比べれば無価値だ。

俺はラヴィニアの手を取り、その指先に口付けた。

「覚悟しろ、ラヴィニア。この休暇中、俺はお前に『自分がいかに愛されているか』を徹底的に分からせてやるつもりだ」

「あ、愛……? 殿下が、私を……?」

ラヴィニアの顔から、みるみる湯気が立ち上っていく。

「ふ、不敬です……! 殿下の愛など、私のようなモブが受け止めたら爆発四散します……! キャパオーバーです……!」

「なら、慣れろ」

俺は彼女を横抱き(お姫様抱っこ)にした。

「きゃあああっ!?」

「暴れるな。部屋はどこだ? 案内しろ」

「自分で歩けますぅぅぅ!」

「拒否する」

俺は強引に別荘の中へと足を踏み入れた。

背後でアレクが「ああ、また殿下の暴走が始まった……」と頭を抱えている気配がしたが、知ったことではない。

こうして、俺とラヴィニアの、奇妙な同棲生活(という名の求愛合戦)が幕を開けた。

逃がさない。

絶対に、俺の隣こそがお前の居場所だと認めさせてやる。

俺の腕の中で気絶しかけているラヴィニアを見下ろしながら、俺は新たな作戦を脳内で組み立て始めていた。
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