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「きゃああああっ! ラヴィニア様、爆発しましたぁ!」
「落ち着いてミナ様! 小麦粉は爆発物じゃないわ!」
白の離宮、最上階のスイートルーム。
かつて静寂に包まれていたその場所は、今や戦場と化していた。
床には白い粉が舞い散り、テーブルの上には得体の知れない粘土状の物体が転がっている。
無理やり運び込ませた簡易オーブンからは、不穏な黒煙が立ち上っていた。
「ゲホッ、ゲホッ……! ミナ様、火加減が強すぎるわ! 炭を作る気!?」
「ごめんなさいぃぃ! 私、手順通りにやったつもりなんですけどぉ!」
ミナ様が泣きながら、真っ黒焦げになった天板を取り出した。
そこに乗っているのは、クッキーと呼ぶにはあまりにも禍々しい、『ダークマター(暗黒物質)』だった。
「……嘘でしょう?」
私は絶句した。
ヒロイン補正とは何だったのか。
ドジっ子属性にも限度がある。
「ごめんなさい……やっぱり私には無理なんです……。殿下に手作りクッキーなんて、100年早かったんです……」
ミナ様がへなへなと座り込み、ダークマターを見つめて絶望している。
私はこめかみを押さえた。
「諦めないで。まだ材料はあるわ」
「でもぉ……」
「いいこと? 殿下の機嫌を直すには、これしかないのよ。貴女の愛(と糖分)で、あの氷の彫像と化した殿下を溶かすの!」
私はエプロンの紐を締め直した。
こうなったら、私が手本を見せるしかない。
「見ていなさい。クッキー作りというのは、科学であり、そして芸術なのよ」
私はボウルを手に取った。
バターを常温に戻し、砂糖を加えて白っぽくなるまで混ぜる。卵を少しずつ加え、最後に粉をさっくりと混ぜ合わせる。
その手つきは、かつて殿下のために血の滲むような練習をした成果だ。
(ああ……懐かしいわ。いつか殿下に食べていただくために、夜な夜な厨房で特訓したあの日々……結局、恥ずかしくて一度も渡せなかったけれど)
切ない思い出を練り込みながら、私は生地をまとめ上げた。
「すごいですラヴィニア様! 魔法みたい!」
「ふふん、これくらい常識よ。さあ、型抜きをするわよ」
私は星型やハート型の型抜きをミナ様に渡した。
「可愛らしく抜いてね。殿下が『おっ』と思うようなデザインにするのよ」
「はいっ!」
ミナ様がおそるおそる型を押し込む。
しかし、なぜか彼女がやると形が崩れ、星型が『アメーバ』に、ハート型が『割れた心臓』になってしまう。
「……なんで?」
「わ、分かりません! 呪いでしょうか!?」
「貴女の手のひらの温度が高すぎるのよ! 一度冷やして!」
悪戦苦闘すること一時間。
なんとかオーブンに入れられる状態のものが数枚できた。
「焼くわよ。今度こそ目を離さないで!」
「はいっ!」
二人はオーブンの前で正座し、ガラス越しに中の様子を凝視した。
チーン。
軽快な音が鳴り響く。
「できた……!」
扉を開けると、甘い香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
「わぁぁ……! 焼けてます! 黒くないです!」
ミナ様が歓声を上げた。
天板の上には、私が作った『完璧な形のクッキー』と、ミナ様が作った『前衛芸術的なクッキー』が並んでいる。
「よかったわねミナ様。これで殿下への貢ぎ物は完成よ!」
「はい! ありがとうございますラヴィニア様! これならきっと殿下も……!」
その時である。
ドォォォン……!
重厚な扉が、何の前触れもなく開け放たれた。
室内の気温が、一瞬で氷点下まで下がった気がした。
「……何をしている」
地獄の底から響いてくるような、低く、冷徹な声。
入り口に立っていたのは、公務を終えて帰還したフリード殿下だった。
しかし、いつもの爽やかな笑顔はない。
眉間には深い皺が刻まれ、その背後には吹雪のようなオーラが見える。
「ひぃっ!?」
ミナ様が悲鳴を上げて私の後ろに隠れた。
(こ、怖い! 本気で怖い! ミナ様の言っていた『氷河期』ってこれのことか!)
殿下は部屋の中を見渡した。
床に散らばった小麦粉。
積み上げられたボウル。
そして、甘ったるい匂い。
「……ここは牢獄のはずだが。いつから調理実習室になったんだ?」
殿下がコツコツと歩み寄ってくる。
その一歩ごとに、私の寿命が縮まる音がする。
「お、お帰りなさいませ殿下! お早かったですわね!」
私は引きつった笑顔で出迎えた。
「ああ。……で? これは何だ」
殿下はテーブルの上のクッキーを冷ややかな目で見下ろした。
「説明しろ、ラヴィニア。反省の色が見えないどころか、友人を引き込んでお菓子パーティーとは。随分と余裕があるようだな」
「ち、違います! これは!」
まずい。
このままだと、さらに殿下の機嫌を損ねてしまう。
ミナ様が震えて声を出せない今、私がフォローしなければ!
「こ、これは、殿下のために焼いたのです!」
私は叫んだ。
「殿下がお疲れだと聞いて、少しでも癒やされていただこうと……その、ミナ様と一緒に作ったんです!」
「……俺のために?」
殿下の足が止まった。
「は、はい! そうです! ねえ、ミナ様!」
私は背後のミナ様をつついた。
ミナ様はおずおずと顔を出し、消え入りそうな声で言った。
「そ、そうです……。殿下に、食べていただきたくて……」
「……ふん」
殿下は鼻を鳴らし、ミナ様が作った方のクッキー(形が崩れているやつ)を指先でつまみ上げた。
「こんな不格好なものを、俺に食えというのか?」
「っ……!」
ミナ様がショックで泣きそうになっている。
酷い! いくら不機嫌だからって、乙女の純情を踏みにじるなんて!
私はカッとなった。
「殿下! 失礼すぎます! 見た目は悪いかもしれませんが、味は美味しいはずです! 食べてみてから文句を仰ってください!」
「……ほう」
殿下のアイスブルーの瞳が、私に向いた。
「随分と自信があるようだな」
殿下はそのクッキーを口に放り込んだ。
カリッ。
租借音が響く。
私とミナ様は固唾を飲んで見守った。
殿下は無表情のまま咀嚼し、そしてごくりと飲み込んだ。
「……甘い」
「え?」
「砂糖の分量を間違えているな。それに焼きムラがある。……だが」
殿下の表情が、ふっと緩んだ。
「懐かしい味がするな」
「えっ……」
「これは、お前が作ったのか? ラヴィニア」
殿下が私を見た。
その目から、険しい色が消えている。
「え、あ、いえ、それはミナ様が成形を……」
「味の話だ」
殿下はもう一枚、今度は私が作った綺麗な形のクッキーを手に取った。
「この配合、この焼き加減。……昔、俺がお前に『どんな菓子が好きか』と聞かれて答えた通りの味だ」
「っ!?」
心臓が跳ねた。
覚えていたの?
あれはもう、五年も前のことよ?
『僕はバターが多めで、少し固めのクッキーが好きだな』
何気ない会話で言っていたことを、私がメモして、レシピを研究していたことを。
「……ば、バレましたか」
私は観念してうなだれた。
「はい、生地を作ったのは私です。ミナ様には型抜きを手伝っていただきました」
「そうか」
殿下はクッキーを口に入れ、愛おしそうに目を閉じた。
「美味い」
その一言。
そして、殿下の顔に浮かんだのは、見たこともないほど柔らかく、幸せそうな笑顔だった。
「……!」
部屋の温度が一気に上がった。
吹雪が止み、春が来た。
花が咲き乱れる幻覚が見える。
「殿下……笑って……」
ミナ様が呆然と呟いた。
「すごい……さっきまでの魔王みたいな顔が嘘みたい……」
殿下は目を開けると、私に向かって手を差し出した。
「こっちへ来い、ラヴィニア」
「は、はい」
私が近づくと、殿下は私の手を取り、粉で汚れた指先をハンカチで丁寧に拭った。
「わざわざ俺のために焼いてくれたのか?」
「……はい。殿下が不機嫌で、国が氷河期になりそうだと聞いたので」
「誰だそんなことを言ったのは。アレクか?」
「いえ、ミナ様です」
「……チッ」
殿下はミナ様を一瞥したが、機嫌が良いのか怒ることはなかった。
「悪かったな、ミナ嬢。少し八つ当たりが過ぎたようだ」
「い、いいえぇぇ! 滅相もございません! 笑顔の殿下が見られて光栄ですぅぅ!」
ミナ様は涙を流しながら高速で首を振った。
「ラヴィニア。これは全部俺が貰っていいんだな?」
「ええ、もちろん。毒見はしていませんが」
「お前が作ったものなら、毒でも構わん」
殿下は皿ごとクッキーを確保すると、私を抱き寄せた。
「ミナ嬢、ご苦労だった。下がっていいぞ」
「は、はいっ! 失礼いたします!」
ミナ様は「あとは若いお二人で!」と言わんばかりのウインクを残し、逃げるように部屋を出て行った。
ちょ、待って!
私を一人にしないで!
残されたのは、粉まみれの私と、機嫌を直した(むしろ別のスイッチが入った)殿下。
「さて、ラヴィニア」
殿下は私の腰を抱いたまま、耳元で囁いた。
「最高の貢ぎ物だった。……だが、俺はまだお腹が空いているんだ」
「え? クッキーはまだたくさんありますよ?」
「クッキーだけじゃ足りない」
殿下の瞳が、妖しく光った。
「もっと甘いものが欲しい」
「あ、甘いもの? あいにく砂糖は使い切ってしまいまして……」
「ここにあるだろう」
殿下の指が、私の唇に触れた。
「!?!?!?」
ボンッ!
私の頭が沸騰した。
「で、ででで、殿下!? 何を仰って!? 不敬です! いや私が不敬? とにかく駄目です!」
「なぜ駄目だ? 俺の機嫌を直したかったんだろう?」
「直りましたよね!? 今すごく笑顔ですよね!?」
「まだだ。あと少し足りない」
殿下は甘えるように、私の肩に頭を乗せた。
「……キスしてくれたら、完全に直るんだが」
「~~~~ッ!!」
無理。
推しにそんなこと言われて、断れるオタクがいるだろうか。
いや、いない。
でも、そんなことをしたら私が死ぬ。尊死する。
「む、無理です……! クッキーで我慢してください!」
私は必死に殿下の口にクッキーを押し込んだ。
「んぐっ」
「美味しいですよね! はい、もう一枚!」
「……ラヴィニア、お前な」
殿下は苦笑しながらも、私の手からクッキーを食べ続けた。
その様子はまるで、餌付けされる大型犬のようだった。
とりあえず、氷河期は回避された。
だが、殿下の私に対する『餌付け認定』と『独占欲』は、この一件でさらに強固なものになってしまったのだった。
「落ち着いてミナ様! 小麦粉は爆発物じゃないわ!」
白の離宮、最上階のスイートルーム。
かつて静寂に包まれていたその場所は、今や戦場と化していた。
床には白い粉が舞い散り、テーブルの上には得体の知れない粘土状の物体が転がっている。
無理やり運び込ませた簡易オーブンからは、不穏な黒煙が立ち上っていた。
「ゲホッ、ゲホッ……! ミナ様、火加減が強すぎるわ! 炭を作る気!?」
「ごめんなさいぃぃ! 私、手順通りにやったつもりなんですけどぉ!」
ミナ様が泣きながら、真っ黒焦げになった天板を取り出した。
そこに乗っているのは、クッキーと呼ぶにはあまりにも禍々しい、『ダークマター(暗黒物質)』だった。
「……嘘でしょう?」
私は絶句した。
ヒロイン補正とは何だったのか。
ドジっ子属性にも限度がある。
「ごめんなさい……やっぱり私には無理なんです……。殿下に手作りクッキーなんて、100年早かったんです……」
ミナ様がへなへなと座り込み、ダークマターを見つめて絶望している。
私はこめかみを押さえた。
「諦めないで。まだ材料はあるわ」
「でもぉ……」
「いいこと? 殿下の機嫌を直すには、これしかないのよ。貴女の愛(と糖分)で、あの氷の彫像と化した殿下を溶かすの!」
私はエプロンの紐を締め直した。
こうなったら、私が手本を見せるしかない。
「見ていなさい。クッキー作りというのは、科学であり、そして芸術なのよ」
私はボウルを手に取った。
バターを常温に戻し、砂糖を加えて白っぽくなるまで混ぜる。卵を少しずつ加え、最後に粉をさっくりと混ぜ合わせる。
その手つきは、かつて殿下のために血の滲むような練習をした成果だ。
(ああ……懐かしいわ。いつか殿下に食べていただくために、夜な夜な厨房で特訓したあの日々……結局、恥ずかしくて一度も渡せなかったけれど)
切ない思い出を練り込みながら、私は生地をまとめ上げた。
「すごいですラヴィニア様! 魔法みたい!」
「ふふん、これくらい常識よ。さあ、型抜きをするわよ」
私は星型やハート型の型抜きをミナ様に渡した。
「可愛らしく抜いてね。殿下が『おっ』と思うようなデザインにするのよ」
「はいっ!」
ミナ様がおそるおそる型を押し込む。
しかし、なぜか彼女がやると形が崩れ、星型が『アメーバ』に、ハート型が『割れた心臓』になってしまう。
「……なんで?」
「わ、分かりません! 呪いでしょうか!?」
「貴女の手のひらの温度が高すぎるのよ! 一度冷やして!」
悪戦苦闘すること一時間。
なんとかオーブンに入れられる状態のものが数枚できた。
「焼くわよ。今度こそ目を離さないで!」
「はいっ!」
二人はオーブンの前で正座し、ガラス越しに中の様子を凝視した。
チーン。
軽快な音が鳴り響く。
「できた……!」
扉を開けると、甘い香ばしい匂いが部屋いっぱいに広がった。
「わぁぁ……! 焼けてます! 黒くないです!」
ミナ様が歓声を上げた。
天板の上には、私が作った『完璧な形のクッキー』と、ミナ様が作った『前衛芸術的なクッキー』が並んでいる。
「よかったわねミナ様。これで殿下への貢ぎ物は完成よ!」
「はい! ありがとうございますラヴィニア様! これならきっと殿下も……!」
その時である。
ドォォォン……!
重厚な扉が、何の前触れもなく開け放たれた。
室内の気温が、一瞬で氷点下まで下がった気がした。
「……何をしている」
地獄の底から響いてくるような、低く、冷徹な声。
入り口に立っていたのは、公務を終えて帰還したフリード殿下だった。
しかし、いつもの爽やかな笑顔はない。
眉間には深い皺が刻まれ、その背後には吹雪のようなオーラが見える。
「ひぃっ!?」
ミナ様が悲鳴を上げて私の後ろに隠れた。
(こ、怖い! 本気で怖い! ミナ様の言っていた『氷河期』ってこれのことか!)
殿下は部屋の中を見渡した。
床に散らばった小麦粉。
積み上げられたボウル。
そして、甘ったるい匂い。
「……ここは牢獄のはずだが。いつから調理実習室になったんだ?」
殿下がコツコツと歩み寄ってくる。
その一歩ごとに、私の寿命が縮まる音がする。
「お、お帰りなさいませ殿下! お早かったですわね!」
私は引きつった笑顔で出迎えた。
「ああ。……で? これは何だ」
殿下はテーブルの上のクッキーを冷ややかな目で見下ろした。
「説明しろ、ラヴィニア。反省の色が見えないどころか、友人を引き込んでお菓子パーティーとは。随分と余裕があるようだな」
「ち、違います! これは!」
まずい。
このままだと、さらに殿下の機嫌を損ねてしまう。
ミナ様が震えて声を出せない今、私がフォローしなければ!
「こ、これは、殿下のために焼いたのです!」
私は叫んだ。
「殿下がお疲れだと聞いて、少しでも癒やされていただこうと……その、ミナ様と一緒に作ったんです!」
「……俺のために?」
殿下の足が止まった。
「は、はい! そうです! ねえ、ミナ様!」
私は背後のミナ様をつついた。
ミナ様はおずおずと顔を出し、消え入りそうな声で言った。
「そ、そうです……。殿下に、食べていただきたくて……」
「……ふん」
殿下は鼻を鳴らし、ミナ様が作った方のクッキー(形が崩れているやつ)を指先でつまみ上げた。
「こんな不格好なものを、俺に食えというのか?」
「っ……!」
ミナ様がショックで泣きそうになっている。
酷い! いくら不機嫌だからって、乙女の純情を踏みにじるなんて!
私はカッとなった。
「殿下! 失礼すぎます! 見た目は悪いかもしれませんが、味は美味しいはずです! 食べてみてから文句を仰ってください!」
「……ほう」
殿下のアイスブルーの瞳が、私に向いた。
「随分と自信があるようだな」
殿下はそのクッキーを口に放り込んだ。
カリッ。
租借音が響く。
私とミナ様は固唾を飲んで見守った。
殿下は無表情のまま咀嚼し、そしてごくりと飲み込んだ。
「……甘い」
「え?」
「砂糖の分量を間違えているな。それに焼きムラがある。……だが」
殿下の表情が、ふっと緩んだ。
「懐かしい味がするな」
「えっ……」
「これは、お前が作ったのか? ラヴィニア」
殿下が私を見た。
その目から、険しい色が消えている。
「え、あ、いえ、それはミナ様が成形を……」
「味の話だ」
殿下はもう一枚、今度は私が作った綺麗な形のクッキーを手に取った。
「この配合、この焼き加減。……昔、俺がお前に『どんな菓子が好きか』と聞かれて答えた通りの味だ」
「っ!?」
心臓が跳ねた。
覚えていたの?
あれはもう、五年も前のことよ?
『僕はバターが多めで、少し固めのクッキーが好きだな』
何気ない会話で言っていたことを、私がメモして、レシピを研究していたことを。
「……ば、バレましたか」
私は観念してうなだれた。
「はい、生地を作ったのは私です。ミナ様には型抜きを手伝っていただきました」
「そうか」
殿下はクッキーを口に入れ、愛おしそうに目を閉じた。
「美味い」
その一言。
そして、殿下の顔に浮かんだのは、見たこともないほど柔らかく、幸せそうな笑顔だった。
「……!」
部屋の温度が一気に上がった。
吹雪が止み、春が来た。
花が咲き乱れる幻覚が見える。
「殿下……笑って……」
ミナ様が呆然と呟いた。
「すごい……さっきまでの魔王みたいな顔が嘘みたい……」
殿下は目を開けると、私に向かって手を差し出した。
「こっちへ来い、ラヴィニア」
「は、はい」
私が近づくと、殿下は私の手を取り、粉で汚れた指先をハンカチで丁寧に拭った。
「わざわざ俺のために焼いてくれたのか?」
「……はい。殿下が不機嫌で、国が氷河期になりそうだと聞いたので」
「誰だそんなことを言ったのは。アレクか?」
「いえ、ミナ様です」
「……チッ」
殿下はミナ様を一瞥したが、機嫌が良いのか怒ることはなかった。
「悪かったな、ミナ嬢。少し八つ当たりが過ぎたようだ」
「い、いいえぇぇ! 滅相もございません! 笑顔の殿下が見られて光栄ですぅぅ!」
ミナ様は涙を流しながら高速で首を振った。
「ラヴィニア。これは全部俺が貰っていいんだな?」
「ええ、もちろん。毒見はしていませんが」
「お前が作ったものなら、毒でも構わん」
殿下は皿ごとクッキーを確保すると、私を抱き寄せた。
「ミナ嬢、ご苦労だった。下がっていいぞ」
「は、はいっ! 失礼いたします!」
ミナ様は「あとは若いお二人で!」と言わんばかりのウインクを残し、逃げるように部屋を出て行った。
ちょ、待って!
私を一人にしないで!
残されたのは、粉まみれの私と、機嫌を直した(むしろ別のスイッチが入った)殿下。
「さて、ラヴィニア」
殿下は私の腰を抱いたまま、耳元で囁いた。
「最高の貢ぎ物だった。……だが、俺はまだお腹が空いているんだ」
「え? クッキーはまだたくさんありますよ?」
「クッキーだけじゃ足りない」
殿下の瞳が、妖しく光った。
「もっと甘いものが欲しい」
「あ、甘いもの? あいにく砂糖は使い切ってしまいまして……」
「ここにあるだろう」
殿下の指が、私の唇に触れた。
「!?!?!?」
ボンッ!
私の頭が沸騰した。
「で、ででで、殿下!? 何を仰って!? 不敬です! いや私が不敬? とにかく駄目です!」
「なぜ駄目だ? 俺の機嫌を直したかったんだろう?」
「直りましたよね!? 今すごく笑顔ですよね!?」
「まだだ。あと少し足りない」
殿下は甘えるように、私の肩に頭を乗せた。
「……キスしてくれたら、完全に直るんだが」
「~~~~ッ!!」
無理。
推しにそんなこと言われて、断れるオタクがいるだろうか。
いや、いない。
でも、そんなことをしたら私が死ぬ。尊死する。
「む、無理です……! クッキーで我慢してください!」
私は必死に殿下の口にクッキーを押し込んだ。
「んぐっ」
「美味しいですよね! はい、もう一枚!」
「……ラヴィニア、お前な」
殿下は苦笑しながらも、私の手からクッキーを食べ続けた。
その様子はまるで、餌付けされる大型犬のようだった。
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