尊すぎて「悪役令嬢」を演じて婚約破棄されましたが、お構いなく!

恋の箱庭

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「無理……。やっぱり無理よ……!」

結婚式を明日に控えた夜。

実家であるクロック公爵家の自室で、私はベッドの上で頭を抱えてのたうち回っていた。

部屋の中には、明日着る純白のウェディングドレスが飾られている。

それを見るたびに、胃がキュッと縮み、心臓が早鐘を打つ。

世間一般では、結婚式前夜の花嫁が不安になることを『マリッジブルー』と呼ぶらしい。

「でも、私のこれは違うわ! これは……『推し尊いブルー』よ!」

私は叫んで、枕に顔を埋めた。

不安の種類が違うのだ。

「私なんかが良い妻になれるかしら」とか「嫁姑問題は大丈夫かしら」といった人間的な悩みではない。

『明日から、あの尊き神(フリード殿下)と同じ戸籍に入り、同じ空気を吸い、同じ寝具で眠るという冒涜的な行為が、法的に許可されてしまう恐怖』

これに尽きる。

「恐れ多い……! 一介のオタクが、推しの配偶者欄に名を連ねるなんて……! 前世で銀河を救ったとしてもお釣りが来るレベルの奇跡じゃない!」

私はフラフラと立ち上がり、部屋の隅にある『祭壇』に向かった。

そこには、殿下の幼少期の肖像画や、殿下が初めて使ったスプーン(レプリカ)などが飾られている。

「ああ、フリード様……。遠くから拝んでいるだけで幸せだった私が、まさか貴方の『最愛』になるなんて……」

手を合わせ、拝む。

「明日、祭壇に立って貴方の晴れ姿を見たら、私は間違いなく蒸発して消えるわ。……遺骨は拾ってくださいね」

ネガティブな妄想が止まらない。

いっそ、今からでも「体調不良」を理由に延期してもらおうか。

いや、「心臓が爆発しそうなので欠席します」という電報を打つべきか。

私が部屋の中を熊のようにウロウロと歩き回っていると。

コンコン。

窓ガラスを叩く音がした。

「……え?」

ここは三階だ。

鳥か、それとも風で枝が当たったのか。

コンコン、コンコン。

音が続く。

恐る恐るカーテンを開け、窓の鍵を外すと――。

スッ。

音もなく窓が開き、夜風とともに一人の影が侵入してきた。

「よお、ラヴィニア。まだ起きていたか」

「ふ、フリード殿下ァァァ!?」

私は腰を抜かして尻餅をついた。

そこに立っていたのは、私の婚約者にして、明日の新郎であるフリード殿下だった。

しかも、正装ではなく寝巻きのようなラフなシャツ姿で、髪も下ろしている。

「な、ななな、なぜここに!? ここは公爵邸の三階ですよ!?」

「ここにはよく『お忍び』で来ていたからな。登り慣れている」

「不法侵入の常習犯!?」

殿下は悪びれもせず、私の部屋の中を見回した。

「懐かしいな。昔、ここからお前が俺のグッズを隠しているのを見て、ニヤニヤしたものだ」

「見ないで! 私の黒歴史ボックスを開けないで!」

私は慌てて祭壇の前に立ちはだかった。

「それより殿下! 明日は結婚式ですよ! 新郎新婦が式の前夜に会うなんて、マナー違反です! 不吉だと言われていますよ!」

「迷信だ」

殿下は私の前に歩み寄り、しゃがみ込んで視線を合わせた。

「それに……会いたかったんだ。どうしてもな」

「えっ……」

「眠れないんだ。お前の顔を見ないと、落ち着かなくて」

殿下のアイスブルーの瞳が、月明かりの下で揺れている。

その表情は、いつもの自信満々な王太子ではなく、明日への緊張を滲ませた一人の青年のものだった。

「で、殿下も……緊張されているのですか?」

「当たり前だ。明日は俺の人生で一番大事な日だぞ?」

殿下は苦笑して、私の手を取った。

「愛する女を、一生俺のものにする日だ。……もしお前が『やっぱり嫌だ』と言って逃げ出したらどうしようかと、気が気じゃなかった」

「に、逃げませんよ! 覚悟は決めましたから!」

「そうか。……なら安心だ」

殿下はホッとしたように息を吐き、そのまま私の肩に頭を預けてきた。

「……少しだけ、充電させてくれ」

「ひゃっ!?」

重みと、体温と、良い匂いが同時に襲ってくる。

殿下のサラサラした髪が、私の首筋に触れてくすぐったい。

「(ううっ……心臓に悪い……! けど……)」

不思議と、さっきまでのパニックは消え失せていた。

目の前にいるのは、雲の上の『神様』ではなく、私を求めて夜這い(?)してくる寂しがり屋の『人間』なのだと実感できたからかもしれない。

「……ラヴィニア」

「はい」

「明日の式、もしお前が緊張で倒れたら、俺が支えると言ったな」

「はい。頼りにしています」

「だが、俺が緊張でガチガチになっていたら……お前が笑わせてくれ」

殿下が顔を上げ、少し照れくさそうに言った。

「お前のその、突拍子もない言動や、オタク特有の早口を聞くと……俺はいつも肩の力が抜けるんだ」

「ええっ? 褒めてますかそれ?」

「褒めている。……お前はおれの精神安定剤(トランキライザー)だ」

殿下は私の頬を撫でた。

「だから、完璧な花嫁になろうなんて思わなくていい。いつもの、変で、騒がしくて、愛らしいお前のままでいてくれ」

「……変は余計です」

私は唇を尖らせたが、胸の奥がじんわりと温かくなった。

そうか。

無理に背伸びをする必要はないんだ。

殿下が好きになったのは、『高潔な令嬢ラヴィニア』ではなく、『推し活に全力なラヴィニア』なのだから。

「分かりました。……明日は、全力で殿下を愛でに行きます」

「愛でる?」

「はい! タキシード姿の殿下を最前列でガン見して、『尊い!』って心の中で叫びながら、幸せを噛み締めます!」

「ふっ……それは楽しみだ」

殿下は楽しそうに笑い、立ち上がった。

「落ち着いたか?」

「はい、おかげさまで。殿下の顔を見たら、ブルーな気持ちが吹っ飛びました」

「それはよかった。……じゃあ、仕上げだ」

「へ?」

殿下が私の腕を引き、勢いよく抱き寄せた。

「んっ!?」

唇が重なる。

挨拶代わりのキスではない。

深く、熱く、そして長い口付け。

「んん……っ、ぷはっ!」

私が酸欠で目を回しかけると、殿下はようやく唇を離した。

「……明日の予行演習だ」

殿下は悪戯っぽくウィンクした。

「本番はもっと長くするから、息を止める練習をしておけよ」

「お、鬼畜ぅぅぅ!」

「おやすみ、俺のラヴィニア。……また明日、祭壇の前で」

殿下はヒラリと窓枠に飛び乗り、夜闇の中へと消えていった。

残された私は、その場にヘナヘナと座り込んだ。

「……はぁ、はぁ……」

心臓がうるさい。

顔が熱い。

でも、さっきまでの「逃げ出したい」という恐怖はもうなかった。

あるのは、「早く明日にならないかな」という、くすぐったいような期待感だけ。

「……もう。ズルいわよ、フリード様」

私は唇に指を当て、一人ごちた。

「あんなことされたら……もっと好きになっちゃうじゃない」

窓の外には、満月が輝いている。

明日はきっと、晴れるだろう。

私の、そして私たちの、新しい物語の始まりの日。

「よし! 寝よう! 目の下にクマを作ったら、推しへの冒涜だわ!」

私はベッドにダイブし、布団を頭までかぶった。

瞼の裏には、先ほどの殿下の優しい笑顔が焼き付いている。

「おやすみなさい、フリード様……」

幸せな眠りが、私を包み込んでいった。
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