婚約破棄と自由なセカンドライフを望みます。

恋の箱庭

文字の大きさ
8 / 28

8

「……閣下。私の庭園は、いつから国際会議場になったのですか?」


ミュークオは、特製のアイマスクを額に上げ、不機嫌そうに隣の椅子を睨んだ。
そこには、カイルだけでなく、見たこともないほどキッチリとした服装の男が座っていた。
男は分厚い眼鏡の奥で、鋭い計算機のような視線をミュークオに向けている。


「やあ、ミュークオ。起こして済まない。彼は隣国メルカント通商共和国の特使、ヴァレリウス伯爵だ。君の『泥団子経済再建案』を聞きつけて、ぜひ面会したいと朝の五時から門前で待機していてね」


カイルが苦笑いしながら紹介する。
ヴァレリウスは、ミュークオが挨拶をするよりも早く、手元の書類を叩いた。


「ミュークオ嬢。貴女のやり方は、あまりにも非効率で感情的だ。皇太子を泥まみれにするなど、一時的な民衆の娯楽に過ぎない。我が国なら、国民の労働時間を一律三割増やし、睡眠時間を四時間に制限することで、GDPを十五%即座に向上させる提案ができますぞ」


ミュークオは、その言葉を聞いた瞬間、ティーカップを置く手が止まった。
彼女の周囲の空気が、スッと絶対零度まで下がる。


「……睡眠時間を、四時間に制限?」


「いかにも! 寝ている時間は一銭の利益も生み出さない無駄な空白だ。人間は動いてこそ価値がある。貴女のような『お昼寝』を推奨する怠惰な指導者がいるから、この国の再建は遅れるのです」


ヴァレリウスは勝ち誇ったように鼻を鳴らした。
ミュークオは、静かにアイマスクをテーブルに置くと、カイルに冷たい視線を送った。


「閣下。この方を今すぐ国外追放になさるか、あるいは私がここで『効率的な論破』を完遂するまで、一切の口出しを禁じていただけますか?」


「おっと……。ヴァレリウス卿、逃げるなら今ですよ。彼女の『睡眠』を侮辱するのは、竜の逆鱗に触れるより質が悪い」


カイルが肩をすくめて椅子を引く。
ミュークオは、ヴァレリウスの目を真っ直ぐに見据えた。


「伯爵。貴方の国では、機械が壊れたらどうなさるの?」


「……直ちに修理するか、廃棄して新しいものを買いますが?」


「では、なぜ人間にはそれを適用しないのかしら。四時間睡眠を続けた労働者の脳は、酒に酔った状態と同等の判断力しか持ち合わせません。つまり、貴方は『酔っ払いの集団』に国を運営させていることになりますわ。それは果たして、効率的と言えるのかしら?」


「なっ……我が国の労働者は、強靭な精神力で……!」


「精神力で生産性は上がりませんわ。データを見なさい。適切な睡眠をとった労働者と、不足している労働者のミス発生率の差は、実に三倍。そのミスを修正するための『無駄な残業代』と『納期遅延の損失』を計算したことがありますの?」


ミュークオは、カイルの机から勝手に奪い取っていた隣国の経済統計資料を、ヴァレリウスの鼻先に突きつけた。


「貴国の昨年度の労働災害件数。そして、若手官僚の離職率。これらすべてが、貴方の言う『効率主義』の敗北を証明していますわ。……ゴミ山の上で王様気取りをするのが、貴方の国の経営学ですの?」


「ぐ……う……。だが、寝ていても金は稼げない!」


「稼げますわよ。……閣下、例のブツを」


カイルが合図すると、アンナが持ってきたのは、ミュークオがプロデュースした「最高級アロマ枕」と「安眠用オーガニックハーブティー」のセットだった。


「これは、私が『有給休暇』の合間に開発した新製品です。ターゲットは、日々の激務で疲れ果てた王侯貴族と豪商たち。彼らは『質の高い一時間の眠り』のためなら、金貨十枚など惜しまずに払いますわ」


ミュークオは、ヴァレリウスの眼鏡を指でコツンと叩いた。


「馬車馬のように働かせて銅貨を稼ぐのと、極上の眠りを売って金貨を稼ぐの。どちらが『効率的』か、小学生でも分かりますわよね? 伯爵、貴方の理論は、三周遅れの骨董品ですわ」


ヴァレリウスは、真っ青な顔でガタガタと震え出した。
自分が信じてきた「労働教」が、一介の(自称無職の)令嬢によって、完膚なきまでに破壊されたのだ。


「……この、悪魔のような女め……! 睡眠こそが正義だとでも言うのか!」


「ええ。安眠を妨げる者は、経済の敵。……さあ、伯爵。これ以上私の貴重な休息時間を奪うのであれば、貴国の全取引先に『睡眠不足による判断ミスのおそれあり』との注意喚起を、私のネットワークで一斉送信いたしますが?」


「ひっ……! し、失礼したぁ!」


ヴァレリウスは、転がるようにして庭園から逃げ出していった。
その様子を眺めながら、ミュークオは大きく欠伸をした。


「……ふぅ。これでようやく、静かになりましたわ」


「お見事。これでまた一つ、君の『安眠ブランド』にハクがついたね。メルカント共和国も、これからは君の枕を輸入せざるを得なくなるだろう」


カイルが感心したように、彼女の肩にブランケットをかけた。


「当然ですわ。……ところで閣下。今の論破代、特急料金も含めて、金貨二十枚ほど私の口座に振り込んでおいてくださいね」


「……プロポーズの返事の代わりに、請求書が届くとはね。君らしいよ、ミュークオ」


カイルが苦笑いしながら彼女の額にキスをする。
ミュークオは「……それは、ボーナスとして受け取っておきますわ」と呟き、今度こそ幸せな深い眠りへと落ちていった。


一方その頃。
王都の広場では、レオポルド皇太子が「効率主義万歳!」と叫ぶ民衆から、本日二千個目となる泥団子を顔面に受けていた。
「ミュークオーー! 俺、もう寝たいよーーー!」
彼の叫びが、虚しく王都の空に響いていた。
感想 0

あなたにおすすめの小説

悪役令嬢にされたので婚約破棄を受け入れたら、なぜか全員困っています

かきんとう
恋愛
 王城の大広間は、いつも以上に華やいでいた。  磨き上げられた床は燭台の光を反射し、色とりどりのドレスが揺れるたびに、まるで花畑が動いているかのように見える。貴族たちの笑い声、楽団の優雅な旋律、そして、ひそやかな噂話が、空気を満たしていた。  その中心に、私は立っていた。  ――今日、この瞬間のために。 「エレノア・フォン・リーベルト嬢」  高らかに呼ばれた私の名に、ざわめきがぴたりと止む。

刺繍妻

拓海のり
恋愛
男爵令嬢メアリーは魔力も無くて、十五歳で寄り親の侯爵家に侍女見習いとして奉公に上がった。二十歳まで務めた後、同じ寄り子の子爵家に嫁に行ったが。九千字ぐらいのお話です。

すみっこ婚約破棄同盟〜王子様による婚約破棄のすみっこで〜

まりー
恋愛
   ある夜会で王子とその側近達の婚約破棄が行われた。腕に恋人をぶら下げて。所謂、王道断罪劇である。  でもこのお話の主役は麗しのヒロインでも、キラキラ王子でも、学園一の秀才や騎士団期待のホープでもない。これは王道のすみっこで行われた、弱小貴族と商人の子息たちの婚約破棄のお話である。 _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ _ 「もう俺ら、恋なんてしない!」と言う小学生の息子の話を参考に書きました。登場人物の男子たちの頭は小学生レベルだと思って読んでください。    

断罪される令嬢は、悪魔の顔を持った天使だった

Blue
恋愛
 王立学園で行われる学園舞踏会。そこで意気揚々と舞台に上がり、この国の王子が声を張り上げた。 「私はここで宣言する!アリアンナ・ヴォルテーラ公爵令嬢との婚約を、この場を持って破棄する!!」 シンと静まる会場。しかし次の瞬間、予期せぬ反応が返ってきた。 アリアンナの周辺の目線で話しは進みます。

「通訳など辞書で足りる」と追放された令嬢——三国会談で、婚約者は一言も話せなくなった

歩人
ファンタジー
宮廷通訳官エレノーラは五つの言語を操り、婚約者クラウスの外交を陰で支えてきた。 だがクラウスは言った。「通訳など辞書で足りる。お前は要らない」 追放されたエレノーラは隣国で新たな道を歩み始める。 一方、クラウスは三国会談の場で辞書片手に立ち往生。 誤訳が外交問題に発展し、窮地に陥ったその場に、隣国の通訳官として現れたのは——。 「その言葉は、もう翻訳できません」

4人の女

猫枕
恋愛
カトリーヌ・スタール侯爵令嬢、セリーヌ・ラルミナ伯爵令嬢、イネス・フーリエ伯爵令嬢、ミレーユ・リオンヌ子爵令息夫人。 うららかな春の日の午後、4人の見目麗しき女性達の優雅なティータイム。 このご婦人方には共通点がある。 かつて4人共が、ある一人の男性の妻であった。 『氷の貴公子』の異名を持つ男。 ジルベール・タレーラン公爵令息。 絶対的権力と富を有するタレーラン公爵家の唯一の後継者で絶世の美貌を持つ男。 しかしてその本性は冷酷無慈悲の女嫌い。 この国きっての選りすぐりの4人のご令嬢達は揃いも揃ってタレーラン家を叩き出された仲間なのだ。 こうやって集まるのはこれで2回目なのだが、やはり、話は自然と共通の話題、あの男のことになるわけで・・・。

成功条件は、まさかの婚約破棄!?

たぬきち25番
恋愛
「アリエッタ、あなたとの婚約を破棄する……」 王太子のアルベルト殿下は、そう告げた。 王妃教育に懸命に取り組んでいたアリエッタだったが、 それを聞いた彼女は……? ※他サイト様にも公開始めました!

義妹がやらかして申し訳ありません!

荒瀬ヤヒロ
恋愛
公爵令息エリオットはある日、男爵家の義姉妹の会話を耳にする。 何かを企んでいるらしい義妹。義妹をたしなめる義姉。 何をやらかすつもりか知らないが、泳がせてみて楽しもうと考えるが、男爵家の義妹は誰も予想できなかった行動に出て――― 義妹の脅迫!義姉の土下座!そして冴え渡るタックル! 果たしてエリオットは王太子とその婚約者、そして義妹を諫めようとする男爵令嬢を守ることができるのか?