政略結婚した侯爵様が「義務だから」と抱いてきますが、顔が良すぎて抗えません

日野ひなこ

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第24話 冬の訪れ ①

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 アルセリア王国 王国評議院より令す

 本年11月28日、北辺国境にてノルディア軍の騎兵侵入を確認。
 戦時に準ずる体制に移行し、国境防衛の強化を命ず。

 ラインヴェルク侯爵領においては、同領主クラウス・フォン・ラインヴェルクを王都に招集済。
 代行たる夫人、イレーネ・フォン・ラインヴェルクは領内の秩序維持および兵站協力に従事すべし──





 机のうえに広げられた羊皮紙の文字列を、イレーネはじっと見つめていた。
 冬の空気を裂くようにして早馬で届けられた一通の令状。使者が去ったあとの執務室には、ただ沈黙だけが落ちている。

「……」

 イレーネは目を閉じ、わずかに息を整える。
 重苦しい静けさに包まれた室内の扉の外では、集まった使用人たちがざわめきを湛えている気配があった。皆、使者の手で令状が届けられた時点でただことではないと察しているのだ。

「無用な噂を立てさせてはなりません。領民の不安の種になるわ」

 感情のない一言が、室内の空気をさらに張り詰めさせた。
 イレーネは、控えていたコレットに短く命じる。

「以後、王都や冬営本部からの書簡はすべてこの執務室で開封するわ。私の許しなく、広間や廊下で触れてはなりません」
「……承知しました、奥様」

 頭を下げるコレットの視線が、わずかに揺れている。
 それに気づきながらも、イレーネはそれ以上言葉を重ねることはしなかった。

 令状とともに届けられた書簡──ラインヴェルク家の封蝋が捺された、クラウスからの1通に手を伸ばす。
 微かに震える指先でそっと紙を開くと、すっかり見慣れた愛想のない筆跡が並んでいた。

 ──王都を発ち、近日中に冬営本部に着く。
 兵站のため、領内各地の麦の収穫量と輸送路の報告を至急まとめ、報告せよ。

 書いてあるのは、ただそれだけ。
 イレーネの心を宥めるようなことも、かき乱すようなことも書いていない。王室を動かすほどの自体が起きたというのに、そこにあるのはいつもと変わらぬクラウスの文面だった。
 唇から漏れたため息は、呆れなのか安堵なのか、よくわからなかった。

 イレーネはすぐに顔を上げ、執事長のバルド・ケラーに指示を出した。

「バルド。今から伝令を出すわ」
「……はい」
「まず、領内の収穫量・備蓄・道路の通行状況を至急調べさせて。各地の代官へ、侯爵家からの命として伝えてちょうだい」
「かしこまりました」

 続けてイレーネは、手近な紙に滑らかにペンを走らせた。

「コレットは、こちらをゲルハルト叔父様宛に送って」
「は、はい……! お出ししてきます!」

 ふたりが執務室を後にするまで、イレーネはまっすぐな視線でその背を見送った。
 扉が閉まり、再び静けさが戻ったところで、クラウスからの書簡を折るとそっと机の引き出しへとしまい込む。
 そして深く腰をかけ直し、組んだ指のうえに額を預けた。

 ──どうして、と小さく唇を動かす。
 どうしてあのときの温室で、彼はなにも言ってくれなかったのか。

 ただ一言『国境に問題があった』と伝えてくれれば、イレーネは外の寒さなど気にせずクラウスを見送ったのに。
 もちろんイレーネとて理解はしている。おそらくあの時点では報告があっただけで、自ら確認したわけではない。
 だからこそ、妻相手にも軽々しく不確かな情報を口にしない──それが彼の矜持であり、責任感なのだと。

「……馬鹿だわ、あのひとは」

 誰もいない執務室で、ただひとり呟く。
 少しは旦那らしくなってきたと思っていたが、女心というものがまだわかっていない。こんな大事なことなら、せめてなにを知らずとも見送りぐらいしたかった。
 イレーネは胸にくすぶる感情を吐き出すように、ゆっくりと長く深い息をつき、静かに背筋を正した。

 ──あのとき、クラウスは確かに言った。
 家のことを頼む、と。

 ならば、自分がすべきことはひとつしかない。
 侯爵夫人として、この家を守り抜くこと。
 それこそが、今のイレーネが果たすべき唯一の責務だった。





  * * * * *





 兄の訃報が届いたのは、伯爵領に珍しく雪が積もった冬の日だった。

 それは、3年前。停戦直前のこと。
 戦況はすでに落ち着いており、兄が赴いたのも半ば演習同然の後方支援部隊だった。
 だからこそ、伯爵家当主である齢40を超えた父ではなく、後継である兄が戦地に立っていた。
 本来、危険のない配置のはずだった。けれど兄は帰ってこなかった。
 あのときも──出征する兄をちゃんと見送ったのか、イレーネは覚えていない。

 覚えているのは、雪の中、伯爵邸へと近づいてきた数名の軍人。
 窓越しに見つめた、その白黒の景色だけだった。





 窓の外に降り積もる雪を見つめながら、イレーネはふと自分の手が止まっていたことに気がついた。
 広げたままの書類には、署名欄だけが空白のまま残されている。握ったペンは冷たく、指先は凍りついたように静止している。

 クラウスが侯爵邸を発ってから、およそ1ヶ月。
 その間、イレーネは当主代行として、ただひたすらに務めを果たし続けてきた。

 領内備蓄の管理、輸送馬車の調達と確認、各地から上がる報告書の集約、雪害による輸送遅延への対処。そして王都や近隣の領地からの使者の対応。
 日々の政務は尽きることがなかったが、それが却ってイレーネの救いにもなっていた。なにもすることがなければ、この白い景色にばかり囚われてしまいそうだったから。

「──奥様、ラインヴェルク男爵より書簡が届いております」

 横からかけられた声に、イレーネはふと我に返った。
 面をあげれば、コレットが書簡を手に控えている。
 いつの間に入室したのか、と思ったが、彼女が無作法をするはずがない。おそらく、無意識のうちにノックの音に返事をしていたのだろう。
 さきほど手が止まっていたことといい、思いのほか意識が散漫になっているのかもしれない。

「ありがとう、コレット」

 丁寧に受け取った封筒を開き、手早く中に目を通す。
 そして、すぐに返信を書き上げると、封をしてコレットへ手渡した。

「10日後、ゲルハルト様が領地の状況を確認しにお越しになるそうよ。受け入れの準備をお願い」
「は、はい。あの、奥様……」
「なあに?」
「……いえ、なんでもありません」

 コレットは言葉を濁したあと、明るい笑みを浮かべた。

「そういえば今朝、庭師の方が温室のハーブを分けてくれたんです。美味しいハーブティーを淹れてきますね!」

 一礼を残して笑顔のまま踵を返した健気な侍女を見送り、イレーネは小さく息をつく。近頃は、こうしてため息をついてばかりだ。
 コレットは明らかに、休むことなく働き続けるイレーネを案じている。
 けれどそれを表に出すことなく、主人の立場をきちんと弁えて振舞ってくれているのだ。そのことが胸に沁みるようにありがたく、そして少しだけ申し訳なくもあった。

 窓の外に目をやっても、もう何日も変わらない雪の景色。
 ただ白く、深く、すべてを覆うように降り積もっていく。
 これでは気が晴れるどころか、むしろ国境を守る砦や、クラウスが身を置く冬営本部の状況ばかりが気にかかる。

 少なくともこの1ヶ月、クラウスとの書簡のやり取りは途切れていない。大きく状況が変化したり彼の身になにかが起きたりはしていないのだろうが、ただ待つだけの時間は不安ばかりが募っていく。

 ──そういえば。

 コレットの言葉で、近頃は温室へ運んでいなかったことを思い出す。
 あそこなら、少しは気分転換になるかもしれない──そう考えたイレーネは、簡単な書置きをして椅子から立ち上がる。


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