あめふりバス停の優しい傘

朱宮あめ

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 雨の中、傘も差さずに私は走っていた。
 しばらく走って、走って、いつものバス停まで来たところで足を止める。
 ハッハッと、薄く開いた唇の隙間から息が漏れる。
「ちょっともう、なに? めっちゃ走るじゃん」
「わっ! あ、あっ……すみません!」
 手を離して我に返る。今日は我に返ってばっかりだ。いや、我を忘れてばかりなのか。
「だからそれ。もう! すぐ謝らなくていいってば」
 指摘され、口を噤む。
 椿先輩はつくづく私の悪いクセに敏感だ。
「もう、びしょびしょ」
「傘、置いてきちゃったから……」
 紺色の制服は、雨のせいでさらに濃く染まっている。
 タオルで水滴を拭いながら、スマホ画面を開いて時間を確認した。
 時刻は午後五時五十三分。
 五時のバスは行ってしまったばかり。次のバスが来るまで、あと五十二分もある。ここへ来てようやく、バスが一時間に一本しかなかったことを思い出す。
 ――どうしよう。
 バスが来るまでまだ時間はたっぷり過ぎるほどある。
 バス停の前で立ち尽くしていると、椿先輩に袖を引かれた。
「ほら、座ろ」
「あ……はい」
 その手に従い、ベンチに座る。
「……あの、椿先輩。すみません。巻き込んでしまって」
 謝るなら今しかないと、私は椿先輩に頭を下げた。
「べつに、あんたが巻き込んだわけじゃないでしょ。あたしが勝手にやったことだから」
 そういえば、あのとき椿先輩は空き教室にいた。もしかして、私が学年主任に怒られていることに気付いてきてくれたのだろうか。わざわざ?
「……あの、椿先輩……あのとき、空き教室にいましたよね」
「あーまぁね」
 椿先輩はほんの少し気まずそうに目を泳がせて、笑った。
「どうして、来てくれたんですか」
 私の問いに、椿先輩は黙り込む。しばらく沈黙してから、不意にぽそりと言った。
「あんたがいなくなっちゃいそうで怖かった」
 どきりとした。
「ってのは、冗談。……ま、強いて言うなら、手が届くからだよ」
「手?」
 顔を上げて、椿先輩を見る。
 今、手と言ったのだろうか。雨音でよく聞こえなかった。
「……あいつらのことは助けられなかったけど、あんた……しずくには、あたしの手がまだ届くから」
 その苦しげな顔を見て、彼女がどうしていつもあの空き教室にいるのかが、唐突に理解できた。
 椿先輩はずっと、亡くなった仲間たちを助けられなかったことを後悔していたのだ。椿先輩はまだ、事故の日から立ち止まったままでいるのだ……。
 心臓を掴まれたように苦しくなる。
「……ありがとうございました。私……椿先輩のおかげで、」
 私の声を、椿先輩が優しく遮る。
「いいよ。わざわざいやなこと思い出そうとしなくて」
 ふっと、不甲斐ない声が漏れそうになってぐっとこらえて頷く。
「……はい」
 俯くと、長い前髪が私の視界を暗くした。
 やっぱり、この感じは落ち着く。
 椿先輩のおかげで助かった。とても。
 でも、彼女を救ってくれるひとは、どこにいるんだろう。
 ――……私に、なにかできないかな。
 ぎゅっとじぶんの手首を握る。
『手が届くから』
 椿先輩の言葉が頭の中で響いた。
 手がある。私にも。椿先輩と同じ、手が。
 坂の向こうから、バスのエンジン音がする。バスのライトが、濡れた車道を明るく照らした。じゃっとアスファルトに溜まった水が弾かれる音がする。
 それを見て、私は立ち上がった。
「椿先輩、」
 椿先輩が顔を上げて私を見る。私は彼女の透けるように白い顔を見下ろして、言った。
「駆け落ち……しませんか」
「…………は?」
 ぽかんとする椿先輩の腕を掴んで、私は再び向こう側のバス停まで走り出す。
「ちょっ……なに、いきなり!」
「前、言ってくれたじゃないですか。駆け落ちしないかって」
「う、うん……それは言ったけど」
 向かいのバス停につき、足を止めて椿先輩を振り返る。椿先輩は、ぱちぱちと長いまつ毛を揺らして瞬きをしていた。
「しましょう、駆け落ち!」
「……マジで?」
「マジです」
 真顔の椿先輩に、私も真顔で返す。すると、椿先輩ぷはっと空気を吐くように笑った。
「いいね! 行くか!」
 そのひとことを合図に、私たちは反対方向のバスに乗り込んだ。
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