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バスに乗り込んでからは、会話はなかった。
私はただ、じっとじぶんの足元に広がっていく水溜まりを見下ろしていた。
バスはトンネルを抜け、山道をくだって、どんどん知らない街に入っていく。
バスに揺られて二時間。空は既に真っ暗で、バスに乗る前よりも雨足は弱くなっていた。
車窓の向こうには、初めての街。初めてひとりで、こんな遠くまできた。いや、ひとりではないか。
だいきらいなあの街を、私はずっと飛び出したかった。それなのに、いざ離れてみたら怖くて仕方がない。
――弱いなぁ、私は。
怯える私の手を、今度は椿先輩がぎゅっとして歩き出した。
「海行こっか」
「海?」
椿先輩を見る。
「好きなんですか?」
「べつに。ただ、無言でも波の音があるから気まずくないじゃん? あたしら、べつに友だちでもなんでもないし」
そう言われて思い出す。
そういえば私たちは、友だちではない。歳も違うし、出会ってまだ間もなくて、お互いのことをほとんどなにも知らない。
ただ、同盟を組んでいる。
拠りどころがなくて、心にとてつもなく大きな穴を抱えていて、いつも不安で死にそうな私たち。
『この子の生い立ちも、これまでの状況もぜーんぶ知ってて……』
ふと、椿先輩が学年主任に言った言葉を思い出す。
「……そういえば椿先輩、私のこと知ってたんですね」
「ごめんね、黙ってて」
申し訳なさそうに、椿先輩が微笑む。
「いえ。ちょっと驚いただけです。高校では、まだ噂になってないと思ってたから」
噂はウイルスよりも簡単に広まる。そのことを私はだれより知っていたはずなのに。
私は今、平穏に過ごせている。
そう思い込むことで、どうにかしてじぶんの心を守りたかったのかもしれない。
「大丈夫。なってないよ」
顔を上げる。
「え、じゃあどうして……」
「あたしとあんた、実は中学一緒だったんだよ」
「えっ!?」
驚く私を見て、椿先輩が笑う。
「やっぱり、知らなかったか。オネーサン、ふつうに考えてよ。同じバス使ってる時点で近所でしょ」
「たしかに……」
「といってもね、なんとなく聞いたことあるくらいだったけど。あんたが噂の子だっていうのは知らなかったよ。さっきの学年主任の話でピンときただけ」
「……そうですか」
「……もしかして、お母さんが自殺したのも、その噂の内容が関係してる?」
黙り込んだまま頷く。
「母は、強いひとでした。周りの視線も気にしないようなひとで、私が母のせいでいじめられても鼻で笑ってるような、とにかく世間とは乖離したひとで。……でも、最終的には負けました。心を病んで死を選んだ」
「……そう」
椿先輩は静かに相槌を打つ。もしかしたらだけど、と、椿先輩が静かな声で語り出す。
「お母さんは、強がってたのかもね」
「……強がってた?」
――強かったんじゃなくて?
「娘がじぶんのせいでいじめられてる。それを気にしない母親なんていないよ。でもさ、それを悔いたら、娘の存在自体を否定することになっちゃうから、謝れなかったんじゃないかな。……だから、なんでもないような顔をしていたのかもしれない」
「……そう……なのかな」
……もしかしたら。椿先輩の言うように、母は私のために、ずっと……。
そう考えそうになって、目を伏せた。
今となっては、母が私のことをどう思っていたのかなんて分からない。この先も、一生、知ることはないのだ。
椿先輩が空を仰ぐ。
「遺された私たちは、前を向くしかない。どんなに悔やんだって、過去は変えられないから」
過去は変えられない。死んだひとは戻ってこない。
「たまったもんじゃないけどね」
そう、たまったもんじゃない。だから、私たちは駆け落ちしてきたのだ。あの地獄から。
決意の滲んだその横顔をじっと見つめ、それから私は車窓へ目を向けた。
タイミングよく、トンネルから抜ける。
開けた視界の先にあるのは、きらきらとわずかな光を反射してきらめく大海原だった。
「うわ、海だ……」
思わず呟く。
本当に来てしまった。
私はただ、じっとじぶんの足元に広がっていく水溜まりを見下ろしていた。
バスはトンネルを抜け、山道をくだって、どんどん知らない街に入っていく。
バスに揺られて二時間。空は既に真っ暗で、バスに乗る前よりも雨足は弱くなっていた。
車窓の向こうには、初めての街。初めてひとりで、こんな遠くまできた。いや、ひとりではないか。
だいきらいなあの街を、私はずっと飛び出したかった。それなのに、いざ離れてみたら怖くて仕方がない。
――弱いなぁ、私は。
怯える私の手を、今度は椿先輩がぎゅっとして歩き出した。
「海行こっか」
「海?」
椿先輩を見る。
「好きなんですか?」
「べつに。ただ、無言でも波の音があるから気まずくないじゃん? あたしら、べつに友だちでもなんでもないし」
そう言われて思い出す。
そういえば私たちは、友だちではない。歳も違うし、出会ってまだ間もなくて、お互いのことをほとんどなにも知らない。
ただ、同盟を組んでいる。
拠りどころがなくて、心にとてつもなく大きな穴を抱えていて、いつも不安で死にそうな私たち。
『この子の生い立ちも、これまでの状況もぜーんぶ知ってて……』
ふと、椿先輩が学年主任に言った言葉を思い出す。
「……そういえば椿先輩、私のこと知ってたんですね」
「ごめんね、黙ってて」
申し訳なさそうに、椿先輩が微笑む。
「いえ。ちょっと驚いただけです。高校では、まだ噂になってないと思ってたから」
噂はウイルスよりも簡単に広まる。そのことを私はだれより知っていたはずなのに。
私は今、平穏に過ごせている。
そう思い込むことで、どうにかしてじぶんの心を守りたかったのかもしれない。
「大丈夫。なってないよ」
顔を上げる。
「え、じゃあどうして……」
「あたしとあんた、実は中学一緒だったんだよ」
「えっ!?」
驚く私を見て、椿先輩が笑う。
「やっぱり、知らなかったか。オネーサン、ふつうに考えてよ。同じバス使ってる時点で近所でしょ」
「たしかに……」
「といってもね、なんとなく聞いたことあるくらいだったけど。あんたが噂の子だっていうのは知らなかったよ。さっきの学年主任の話でピンときただけ」
「……そうですか」
「……もしかして、お母さんが自殺したのも、その噂の内容が関係してる?」
黙り込んだまま頷く。
「母は、強いひとでした。周りの視線も気にしないようなひとで、私が母のせいでいじめられても鼻で笑ってるような、とにかく世間とは乖離したひとで。……でも、最終的には負けました。心を病んで死を選んだ」
「……そう」
椿先輩は静かに相槌を打つ。もしかしたらだけど、と、椿先輩が静かな声で語り出す。
「お母さんは、強がってたのかもね」
「……強がってた?」
――強かったんじゃなくて?
「娘がじぶんのせいでいじめられてる。それを気にしない母親なんていないよ。でもさ、それを悔いたら、娘の存在自体を否定することになっちゃうから、謝れなかったんじゃないかな。……だから、なんでもないような顔をしていたのかもしれない」
「……そう……なのかな」
……もしかしたら。椿先輩の言うように、母は私のために、ずっと……。
そう考えそうになって、目を伏せた。
今となっては、母が私のことをどう思っていたのかなんて分からない。この先も、一生、知ることはないのだ。
椿先輩が空を仰ぐ。
「遺された私たちは、前を向くしかない。どんなに悔やんだって、過去は変えられないから」
過去は変えられない。死んだひとは戻ってこない。
「たまったもんじゃないけどね」
そう、たまったもんじゃない。だから、私たちは駆け落ちしてきたのだ。あの地獄から。
決意の滲んだその横顔をじっと見つめ、それから私は車窓へ目を向けた。
タイミングよく、トンネルから抜ける。
開けた視界の先にあるのは、きらきらとわずかな光を反射してきらめく大海原だった。
「うわ、海だ……」
思わず呟く。
本当に来てしまった。
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