4 / 56
四話
しおりを挟む
仕事中は忘れていたものの、終業時刻になったら、彼氏に浮気されてフラれたショックを一気に思い出してしまった。
もう目の腫れは引いているが、心の傷はそう簡単には癒えそうにない。
「はあ……」
溜息をついて、デスク周りを片付ける。
このあとはひとり暮らしのアパートに帰って、彼氏と知らない女が使った自分のベッドにかけていたシーツや布団を洗濯して、彼氏が置いていた荷物を引き渡して、その代わりに渡していた合い鍵を返してもらい……。
憂鬱な作業ばかりで気が滅入る。
そんなとき、落ち込んでいる紗英の神経に爪を立てるかのような、甲高い声が耳に届いた。
「桐島課長、これから飲みに行きません?」
さらさらしたストレートロングを揺らした木村だった。
親しげに悠司の腕に、自らの腕を絡みつけて、胸を押しつけている。
胸の谷間が見えるような際どいインナーは、わざとだろう。男性なら、ついそこに目がいってしまうのではないだろうか。
だが無表情の悠司は木村から顔を背けている。
絡みついている彼女の腕をさりげなくほどくと、彼はこう言った。
「俺はこれから、飲みの予定がある。木村さんはほかの人と行きたまえ」
途端に木村から不平の声が上がった。
「え~? どんな飲み会ですか?」
彼女の問いを無視して、悠司はこちらへやってきた。
帰ろうとしてバッグを手にしていた紗英は思わず硬直する。
え、まさか……私じゃないよね?
悠司と飲みに行く予定など立てているはずがない。
それなのに、まっすぐに紗英の前へ来た悠司は、爽やかな笑みを浮かべて言った。
「それじゃあ、海東さん。約束通り、ふたりで飲みに行こうか」
「は……い……?」
いつ約束したというのか。まったく記憶にない。
悠司の後ろを追いかけてきた木村が、縋りつくように声を上げた。
「海東さんと、ふたりきりで飲むんですか⁉ わたしもご一緒していいですよね。ねえ、海東さん」
「ええと……」
その前に、悠司とふたりきりで飲む約束などしていないのだが。
紗英が戸惑っている間に、悠司は木村へ向かって軽く手を上げた。
「仕事の話だ。木村さん、今日は遠慮してくれ」
そう言われた木村は、ふて腐れたように唇を尖らせつつも、身を引いた。
どうやら仕事の話があるようだ。
今日起こった顧客トラブルのことか、もしくは契約件数についてだろうか。
どちらにしろ、苦手な上司と酒を飲むなんて、楽しいわけがない。
けれど断るわけにもいかなかった。
「では、行こうか。海東さん」
「はい……」
悠司に促され、囚人の気分で紗英は彼についていった。
タクシーに乗って辿り着いたのは、ラグジュアリーホテルだった。
会社員の飲み会といえば居酒屋が定番なので、紗英は目を丸くする。
「あの、ここでいいんですか?」
「そうだよ。最上階のバーが俺のお気に入りでね。その前にレストランで食事しよう」
壮麗な玄関前の車寄せにタクシーが停車すると、ホテルのドアマンが慇懃な礼をした。
悠司が料金を支払うと、音もなくドアが開いたので、紗英は車から降りた。タクシーの料金は経費で落とすだろうから、紗英が財布を出さなくても問題ないだろう。
悠司は車を降りると、紗英の手を取った。
彼の手の熱さに、どきりと鼓動が跳ねる。
「海東さんが回転ドアを通れないと困るからね」
冗談めかして言った彼はお辞儀するドアマンの脇を通り抜け、慣れた態度で回転ドアをくぐる。
悠司に手を引かれた紗英も慌てて歩調を合わせ、回転ドアを通った。
高級ホテルのロビーに入ると、そこには夢の城のような豪奢な空間が広がっていた。
高い天井に煌めくシャンデリアが吊り下げられ、滝に似せた水が流れるオブジェが鎮座している。それらが磨き上げられた床に反射して、キラキラと輝きを放っていた。
ゆったりとしたピアノ演奏が流れるロビーには、着飾った人々が瀟洒なソファに座っていた。
豪勢な空間に圧倒されていると、悠司はロビーの奥にあるコンシェルジュデスクへ向かった。
ホテルコンシェルジュとやり取りを済ませると、すぐに彼は遠くからピアノ演奏を眺めていた紗英のもとへ戻ってくる。
「レストランは六階だ。エレベーターを使おう」
「はい。あの……桐島課長」
ピアノの音に紛れて、先ほどのことを訊ねようとしたが、軽く手を上げた悠司に制される。
「外では名前で呼んでほしい。俺の身分や会社のことは漏らしたくないのでね」
「わかりました。では……悠司さん」
「いいね。俺も、紗英と呼ぶから」
もう目の腫れは引いているが、心の傷はそう簡単には癒えそうにない。
「はあ……」
溜息をついて、デスク周りを片付ける。
このあとはひとり暮らしのアパートに帰って、彼氏と知らない女が使った自分のベッドにかけていたシーツや布団を洗濯して、彼氏が置いていた荷物を引き渡して、その代わりに渡していた合い鍵を返してもらい……。
憂鬱な作業ばかりで気が滅入る。
そんなとき、落ち込んでいる紗英の神経に爪を立てるかのような、甲高い声が耳に届いた。
「桐島課長、これから飲みに行きません?」
さらさらしたストレートロングを揺らした木村だった。
親しげに悠司の腕に、自らの腕を絡みつけて、胸を押しつけている。
胸の谷間が見えるような際どいインナーは、わざとだろう。男性なら、ついそこに目がいってしまうのではないだろうか。
だが無表情の悠司は木村から顔を背けている。
絡みついている彼女の腕をさりげなくほどくと、彼はこう言った。
「俺はこれから、飲みの予定がある。木村さんはほかの人と行きたまえ」
途端に木村から不平の声が上がった。
「え~? どんな飲み会ですか?」
彼女の問いを無視して、悠司はこちらへやってきた。
帰ろうとしてバッグを手にしていた紗英は思わず硬直する。
え、まさか……私じゃないよね?
悠司と飲みに行く予定など立てているはずがない。
それなのに、まっすぐに紗英の前へ来た悠司は、爽やかな笑みを浮かべて言った。
「それじゃあ、海東さん。約束通り、ふたりで飲みに行こうか」
「は……い……?」
いつ約束したというのか。まったく記憶にない。
悠司の後ろを追いかけてきた木村が、縋りつくように声を上げた。
「海東さんと、ふたりきりで飲むんですか⁉ わたしもご一緒していいですよね。ねえ、海東さん」
「ええと……」
その前に、悠司とふたりきりで飲む約束などしていないのだが。
紗英が戸惑っている間に、悠司は木村へ向かって軽く手を上げた。
「仕事の話だ。木村さん、今日は遠慮してくれ」
そう言われた木村は、ふて腐れたように唇を尖らせつつも、身を引いた。
どうやら仕事の話があるようだ。
今日起こった顧客トラブルのことか、もしくは契約件数についてだろうか。
どちらにしろ、苦手な上司と酒を飲むなんて、楽しいわけがない。
けれど断るわけにもいかなかった。
「では、行こうか。海東さん」
「はい……」
悠司に促され、囚人の気分で紗英は彼についていった。
タクシーに乗って辿り着いたのは、ラグジュアリーホテルだった。
会社員の飲み会といえば居酒屋が定番なので、紗英は目を丸くする。
「あの、ここでいいんですか?」
「そうだよ。最上階のバーが俺のお気に入りでね。その前にレストランで食事しよう」
壮麗な玄関前の車寄せにタクシーが停車すると、ホテルのドアマンが慇懃な礼をした。
悠司が料金を支払うと、音もなくドアが開いたので、紗英は車から降りた。タクシーの料金は経費で落とすだろうから、紗英が財布を出さなくても問題ないだろう。
悠司は車を降りると、紗英の手を取った。
彼の手の熱さに、どきりと鼓動が跳ねる。
「海東さんが回転ドアを通れないと困るからね」
冗談めかして言った彼はお辞儀するドアマンの脇を通り抜け、慣れた態度で回転ドアをくぐる。
悠司に手を引かれた紗英も慌てて歩調を合わせ、回転ドアを通った。
高級ホテルのロビーに入ると、そこには夢の城のような豪奢な空間が広がっていた。
高い天井に煌めくシャンデリアが吊り下げられ、滝に似せた水が流れるオブジェが鎮座している。それらが磨き上げられた床に反射して、キラキラと輝きを放っていた。
ゆったりとしたピアノ演奏が流れるロビーには、着飾った人々が瀟洒なソファに座っていた。
豪勢な空間に圧倒されていると、悠司はロビーの奥にあるコンシェルジュデスクへ向かった。
ホテルコンシェルジュとやり取りを済ませると、すぐに彼は遠くからピアノ演奏を眺めていた紗英のもとへ戻ってくる。
「レストランは六階だ。エレベーターを使おう」
「はい。あの……桐島課長」
ピアノの音に紛れて、先ほどのことを訊ねようとしたが、軽く手を上げた悠司に制される。
「外では名前で呼んでほしい。俺の身分や会社のことは漏らしたくないのでね」
「わかりました。では……悠司さん」
「いいね。俺も、紗英と呼ぶから」
4
あなたにおすすめの小説
【R18】純粋無垢なプリンセスは、婚礼した冷徹と噂される美麗国王に三日三晩の初夜で蕩かされるほど溺愛される
奏音 美都
恋愛
数々の困難を乗り越えて、ようやく誓約の儀を交わしたグレートブルタン国のプリンセスであるルチアとシュタート王国、国王のクロード。
けれど、それぞれの執務に追われ、誓約の儀から二ヶ月経っても夫婦の時間を過ごせずにいた。
そんなある日、ルチアの元にクロードから別邸への招待状が届けられる。そこで三日三晩の甘い蕩かされるような初夜を過ごしながら、クロードの過去を知ることになる。
2人の出会いを描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスを野盗から助け出したのは、冷徹と噂される美麗国王でした」https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/443443630
2人の誓約の儀を描いた作品はこちら
「純粋無垢なプリンセスは、冷徹と噂される美麗国王と誓約の儀を結ぶ」
https://www.alphapolis.co.jp/novel/702276663/183445041
羽柴弁護士の愛はいろいろと重すぎるので返品したい。
泉野あおい
恋愛
人の気持ちに重い軽いがあるなんて変だと思ってた。
でも今、確かに思ってる。
―――この愛は、重い。
------------------------------------------
羽柴健人(30)
羽柴法律事務所所長 鳳凰グループ法律顧問
座右の銘『危ない橋ほど渡りたい。』
好き:柊みゆ
嫌い:褒められること
×
柊 みゆ(28)
弱小飲料メーカー→鳳凰グループ・ホウオウ総務部
座右の銘『石橋は叩いて渡りたい。』
好き:走ること
苦手:羽柴健人
------------------------------------------
【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜
来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、
疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。
無愛想で冷静な上司・東條崇雅。
その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、
仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。
けれど――
そこから、彼の態度は変わり始めた。
苦手な仕事から外され、
負担を減らされ、
静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。
「辞めるのは認めない」
そんな言葉すらないのに、
無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。
これは愛?
それともただの執着?
じれじれと、甘く、不器用に。
二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。
無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。
※この物語はフィクションです。
登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。
ハイスぺ幼馴染の執着過剰愛~30までに相手がいなかったら、結婚しようと言ったから~
cheeery
恋愛
パイロットのエリート幼馴染とワケあって同棲することになった私。
同棲はかれこれもう7年目。
お互いにいい人がいたら解消しようと約束しているのだけど……。
合コンは撃沈。連絡さえ来ない始末。
焦るものの、幼なじみ隼人との生活は、なんの不満もなく……っというよりも、至極の生活だった。
何かあったら話も聞いてくれるし、なぐさめてくれる。
美味しい料理に、髪を乾かしてくれたり、買い物に連れ出してくれたり……しかも家賃はいらないと受け取ってもくれない。
私……こんなに甘えっぱなしでいいのかな?
そしてわたしの30歳の誕生日。
「美羽、お誕生日おめでとう。結婚しようか」
「なに言ってるの?」
優しかったはずの隼人が豹変。
「30になってお互いに相手がいなかったら、結婚しようって美羽が言ったんだよね?」
彼の秘密を知ったら、もう逃げることは出来ない。
「絶対に逃がさないよ?」
人狼な幼妻は夫が変態で困り果てている
井中かわず
恋愛
古い魔法契約によって強制的に結ばれたマリアとシュヤンの14歳年の離れた夫婦。それでも、シュヤンはマリアを愛していた。
それはもう深く愛していた。
変質的、偏執的、なんとも形容しがたいほどの狂気の愛情を注ぐシュヤン。異常さを感じながらも、なんだかんだでシュヤンが好きなマリア。
これもひとつの夫婦愛の形…なのかもしれない。
全3章、1日1章更新、完結済
※特に物語と言う物語はありません
※オチもありません
※ただひたすら時系列に沿って変態したりイチャイチャしたりする話が続きます。
※主人公の1人(夫)が気持ち悪いです。
身代りの花嫁は25歳年上の海軍士官に溺愛される
絵麻
恋愛
桐島花は父が病没後、継母義妹に虐げられて、使用人同然の生活を送っていた。
父の財産も尽きかけた頃、義妹に縁談が舞い込むが継母は花を嫁がせた。
理由は多額の結納金を手に入れるため。
相手は二十五歳も歳上の、海軍の大佐だという。
放り出すように、嫁がされた花を待っていたものは。
地味で冴えないと卑下された日々、花の真の力が時東邸で活かされる。
Melty romance 〜甘S彼氏の執着愛〜
yuzu
恋愛
人数合わせで強引に参加させられた合コンに現れたのは、高校生の頃に少しだけ付き合って別れた元カレの佐野充希。適当にその場をやり過ごして帰るつもりだった堀沢真乃は充希に捕まりキスされて……
「オレを好きになるまで離してやんない。」
黒瀬部長は部下を溺愛したい
桐生桜
恋愛
イケメン上司の黒瀬部長は営業部のエース。
人にも自分にも厳しくちょっぴり怖い……けど!
好きな人にはとことん尽くして甘やかしたい、愛でたい……の溺愛体質。
部下である白石莉央はその溺愛を一心に受け、とことん愛される。
スパダリ鬼上司×新人OLのイチャラブストーリーを一話ショートに。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる