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38.監獄要塞
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住み込みの棺職人から、不審者が入り込んだとロベルに報告がきたのは、女が王都に向け出立した数日後のことだった。
作業小屋の裏にある、今は使われていない遺体安置所内から出てきた人物を確かめ、ロベルは険しい表情で腕組みをした。
遺体安置所の階段を上がってきた人物は、外で待ち伏せしていたロベルに気づき、露骨にしまったといった顔になったが、すぐに開き直った。
「金をどこにやったのよ。あの干からびた男は、私の二度目の夫でしょう?」
地下から地上に出てきたヴィーナは、ロベルを睨みつけた。
「お前の娘を壊した悪魔の金がそんなに欲しいのか?」
ロベルはすごむような声音で問いかけ、ヴィーナを見据える。
聖職者のくせに人殺しのロベルをヴィーナは胡散臭そうに見返した。
「あんただって、金は欲しいでしょう?まさか、あんたが使い込んだ?」
「使い込むか……そうした金の使い道は決まっている」
「どういうことよ?」
「私からしたら、お前もあの悪魔たちとそう変わらない。お前は自分可愛さに悪魔たちに加担した。本当にそんな金が欲しいかね?」
淡々とした口調は、低く物騒な響きに変わっていく。
老人とは思えないただならぬ殺気を秘めたロベルを前に、ヴィーナはたじろいだ。
閉めた鉄の扉の上に座り込み、大きく足を組む。それからここにはない景色を見ているかのように虚空を睨みつけた。
「あの子の馬車を見たわ。見たこともない立派な服を着て、きらきらした宝石まで身に着けていた。窓越しだったけど、あの悪魔よりずっと顔の良い男を隣に置いて、天使みたいに笑っていた。もう子供じゃないはずなのに……あの頃のあの子みたいに……」
言葉を切り、悔しそうにヴィーナは拳で膝を叩いた。
「あの子を羨み、もっと憎たらしくなるのかと思った。嫌いになって、殺したくなるのかと思ったのよ。それなのに、涙が出て止まらなくなった。
私はこんなに不幸で、あの子はあんなに幸せそうなのに、少しも憎い気持ちが湧いてこなかった。
こんなの、私じゃない。私はもっと酷い女よ。母親なんてなる気もないのに。
昔を思い出して、最悪な気分になったわ。私は最低な女でいたいのよ」
ひっそりと息を殺して聞いていたロベルは、ヴィーナに聞こえないように呟いた。
「命拾いしたな……」
ヴィーナはよく聞こえず不審な顔をした。
「何よ。私に文句があるわけ?」
「安心しろ。お前は最低の女で、救いようのない女だ。それに人殺しだ。逆立ちしてもまともな人間にはなれない。お前は生きている限り永遠にエリンを苦しめる存在にしかならない。
お前に出来ることは、ただただ祈ることだけだ。奇跡が起こり救われることを祈るしかないな」
かっとしてヴィーナは唾を地面に吐き出した。
「祈って救われるなら誰だって救われているわよ!くだらない!くそ坊主」
悪態をつきながらも、ヴィーナはロベルの正体を口に出したりはしなかった。
ロベルは十年以上前から人殺しで、今度も十人以上の悪党を残忍なやり方で闇に葬った。
ロベルを脅せば金になるかもしれないとヴィーナの心に過ったが、そこまでは踏み切れない。蜘蛛の糸のような良心が、かろうじてそこに境界線を引いている。
「あの子の仕送りがあるでしょう?ちょっとは回してよ」
ため息をつき、ロベルは小銭をぽけっとから出してヴィーナの方に放り投げた。
目を輝かせ、ヴィーナは地面に飛びつき、小銭を拾って自分の財布に入れる。
「エリンに許されようなどと死んでも思うなよ」
最後に忠告すると、ロベルはヴィーナに背を向け、教会に続く小道を戻り始める。
春先に芽吹いた雑草は、すでに足首ほどの丈まで伸び、ロベルが踏みしめて進むたびに、小さな虫たちが慌てたように逃げ出した。
木立の合間を風が抜け、やわらかな春の日差しがこぼれ落ちる。
血に染まった地面も、飛び散った肉片も全ては自然が飲み込み、虫たちがどこかに運び去ってしまった。
自然豊かなのどかな道を抜け、ロベルは裏口から教会に入った。
自室に戻ると、寝台の裏に回り、聖母の描かれたタペストリーの裏に手をまわす。
壁の一部を押すと、音もなく壁がぱっくりと割れた。
タペストリーの裏側に潜り込み、ロベルはそこに現れた階段を下り始めた。
壁に嵌めこまれた聖石が光り出し、その足元を照らし出す。
ゆるやかな下りの階段は教会の真下に続いており、その突き当りに大きな穴が現れた。
底はそこから大人の背丈三人分ほど下にあり、底を見下ろすための通路はあるが、下に続く階段や通路はなかった。
その穴の側面がほのかに光りだし、底を照らし出した。
土を掘って平らにしただけの穴底には、太陽光を必要としないカビや白いキノコが生えている。
養分はとっくに白骨化している人間の遺体だった。
そのいくつかは、まだ鎖に繋がれたままの状態だ。
まるで集団墓地のような有様だったが、そこには魅力的な物もあった。
鈍く光る金貨や宝石、高価な装飾品、悪党なら目の色を変えて飛びつくようなお宝が無造作に転がっている。
壁際に、その中にあっては比較的新しい遺体が鎖に繋がれてぶら下がっていた。
カビとキノコが表面を完全に覆い、その下が骨なのか、それともまだ肉が残っているのかわからない。
そこは、かつてこの地に建っていた監獄要塞の処刑場だった。
もう百年近くも昔、悪人たちはここに運ばれ、拷問を受け、そして処刑された。
死を前にした罪人たちのために教会が隣接しており、神官たちは地下牢に通い罪人たちと向き合った。
当時は階段もあり、処刑場に続く回廊の先には無数の牢屋があった。
死刑を待つ罪人たちは風呂や食事の機会もほとんど与えられず、処刑を待つ間に命を落とすものも多かった。
そんな彼らから没収されたお宝は中央の処刑場に集められ、彼らは腹をすかせたまま宝を前に殺されていった。
要塞の移転が決まり、この地には教会だけが残った。
要塞のあった敷地のほとんどは墓地になり、棺桶職人や墓守といった少数の人々が小屋を建てて住み着いた。
この町で生まれ育った者達でさえ、その当時のことを深く知る者はいない。
処刑場は地下にあり、市井の人々が目にする機会はなかった。
要塞が消えて百年近くが経ち、事情を知る人々もほとんどがこの世を去っている。
ただ、悪党と呼ばれる人々の間には噂が残った。
まれに、その処刑場の床に敷き詰められた宝を前に、情報を売って死を免れる悪党がいたのだ。
悪党たちは、その処刑場の宝を目に焼き付け、国を追放された。
結果、処刑場に宝があるという噂は隣国の悪党たちにのみ語り継がれたのだ。
ロベルは当時のことを思い出しながら、冷やかにその穴の底を眺めた。
昔は怒りや憎しみが沸き上がり、平静ではいられなかったが、今はひっそりとした感情だけが心の中に横たわる。
ここに連れてこられた最後の罪人は、隣国の悪党だった。
誘拐や強盗、違法な薬の売買など、悪事の限りを尽くしていた男で、国をまたぐことでそれらの罪を逃れていた。
国境を抜けるには賄賂が必要であり、その抜け道を守る警備兵に悪党は自分の息子を渡していた。
大人達に慰み者にされた少年は、そのうち本当に娼館に売られ、そこで殺人をおかした。
人を殺し、女を犯し、数えきれないぐらいの罪を犯した。
少年に善悪を教えた大人はいなかった。
子供から年寄りまで、少年は気分で殺し、暴力で欲しい物はすべてを手に入れた。
その少年を殺せるものはいなかった。
オーブ国から入ってくる悪党の情報を国に売っていたからだ。
罪の軽減と引き換えに、父親の一味が犯した悪事を全て暴露した。
しかし取引材料も尽きたある日、少年は殺人をおかし、ついに捕らえられた。
監獄要塞の地下に連れて来られた少年は牢に入れられ、神官の訪問を受けた。
処刑の日まで、神官は罪人の懺悔を聞き、祈りの言葉を伝える。
少年の牢には教会の神官長がやってきた。
「お前は地獄に落ちるだろう。どんな祈りも、懺悔も無駄に終わる。救いが欲しいか?」
その言葉は、愛も知らず地獄で生きてきた少年の心には届かなかった。
「この世界以上の地獄があるなら見てみたいな。俺に救いをくれるやつがいるのなら、そいつをまず殺してやる。そいつは俺がここに来るまでの間、昼寝をして、飯でもくっていたのか?そんなやつ、喉を噛み切ってやる」
濁った眼をした少年に、神官長は少年の罪状を告げた。
「子供まで犯したな?」
幼少時代から、汚い大人たちに体を汚されてきた少年はせせら笑った。
「俺を犯したやつにも同じ質問をするのか?」
「多くの罪のない人々を殺した」
「子供が犯され、人殺しが起きても見て見ぬふりをする連中だ。罪がないとは知らなかった」
「お前に、食事を恵もうとした女性を手に掛けた」
「俺よりましな人間だと威張ろうとしたからだ!」
「お前は自分がしてきたことに後悔はないのか?」
淡々と神官長は尋ね、少年はきっぱりと「ない」と答えた。
「俺を自由にしてくれたら、俺は目についた人間を片っ端から殺してやる」
憎しみと怒りに満ちたその言葉を、神官長は黙って聞いていた。
何度か訪問を重ね、処刑の日が近づいたある日、神官長は少年に尋ねた。
「最後に、望みはあるか?」
少年は即答した。
「父親を殺したい」
この道に少年を引きずり込んだ諸悪の根源だった。
オーブ国にいるその悪党を殺すことが、どうしても出来なかったのだ。
親殺しは大罪であり、少年のこれまで犯してきた罪よりも重いとされていた。
しかし果たして本当にそうだろうか。
神官長は少年に尋ねた。
「もし父親を殺せば、お前の心は救われるのか?」
オーブ国にいる悪党を捕まえるのは至難の業だ。
「もし、お前の願いを叶えたら、その見返りに何を差し出せる?」
神官長の問いに、少年は嫌な顔をした。
「これから死ぬ人間の望みをかなえるのに、見返りを求めるのか?けちくさいな。神様はただで願い事をかなえるものだろう?」
「ただで人を救うか。お前がそれを信じるのか?」
少年は黙った。同情も憐れみもなく、救いもない。
取引として神官長は少年に話しを持ち掛けた。
「私はお前らのような悪党に傷つけられた多くの女性達を保護し、この上の施設で立ち直るまで面倒をみている。
私は悪人たちに祈りの言葉を伝え、罪を告白し、懺悔するように促す。
しかし、それが傷を受けた女性達の救いになったことは一度もない。
被害が減ることも、悪人が消えることもない。私がお前の願いを叶えたら、お前は、悔い改めることが出来るのか?」
「くいあらためる?俺は生きてきたように生きる。憎い人間を殺したいと思うだけだ」
神官長は憎悪に染まる少年の顔を見返し、会話をやめた。
しかし神官長は国境を超えることの出来る王国のとある組織に少年の父親を捕まえて欲しいと依頼した。
数日後、丘の上の監獄要塞に少年の父親が連れてこられた。
父親は少年が入っている牢の向かいに入れられた。
暗い穴を見おろしながら、当時のことを思い出していたロベルは苦い溜息をついた。
死期を間近に、ロベルはこの処刑場であり監獄だった場所を残すべきかどうか考えていた。
その話を知る者もロベル一人であり、誰かに語り継ぐ気もなかった。
ヴィーナを投げ込んで終わりにするべきかと思ったが、ヴィーナは幸運なことに、ここには少しだけ相応しくない。
もっと悪人であれば最後を飾るのにふさわしい罪人になれた。
歩けなくなる前に、どうするべきか決めなければならない。
ロベルはそう考えたが、またその日も決断を先延ばしにした。
禍々しい死の気配が立ち昇るその地下通路をロベルは引き返し、その背後で壁に埋め込まれていた光が、闇に吸い込まれるように消えていった。
作業小屋の裏にある、今は使われていない遺体安置所内から出てきた人物を確かめ、ロベルは険しい表情で腕組みをした。
遺体安置所の階段を上がってきた人物は、外で待ち伏せしていたロベルに気づき、露骨にしまったといった顔になったが、すぐに開き直った。
「金をどこにやったのよ。あの干からびた男は、私の二度目の夫でしょう?」
地下から地上に出てきたヴィーナは、ロベルを睨みつけた。
「お前の娘を壊した悪魔の金がそんなに欲しいのか?」
ロベルはすごむような声音で問いかけ、ヴィーナを見据える。
聖職者のくせに人殺しのロベルをヴィーナは胡散臭そうに見返した。
「あんただって、金は欲しいでしょう?まさか、あんたが使い込んだ?」
「使い込むか……そうした金の使い道は決まっている」
「どういうことよ?」
「私からしたら、お前もあの悪魔たちとそう変わらない。お前は自分可愛さに悪魔たちに加担した。本当にそんな金が欲しいかね?」
淡々とした口調は、低く物騒な響きに変わっていく。
老人とは思えないただならぬ殺気を秘めたロベルを前に、ヴィーナはたじろいだ。
閉めた鉄の扉の上に座り込み、大きく足を組む。それからここにはない景色を見ているかのように虚空を睨みつけた。
「あの子の馬車を見たわ。見たこともない立派な服を着て、きらきらした宝石まで身に着けていた。窓越しだったけど、あの悪魔よりずっと顔の良い男を隣に置いて、天使みたいに笑っていた。もう子供じゃないはずなのに……あの頃のあの子みたいに……」
言葉を切り、悔しそうにヴィーナは拳で膝を叩いた。
「あの子を羨み、もっと憎たらしくなるのかと思った。嫌いになって、殺したくなるのかと思ったのよ。それなのに、涙が出て止まらなくなった。
私はこんなに不幸で、あの子はあんなに幸せそうなのに、少しも憎い気持ちが湧いてこなかった。
こんなの、私じゃない。私はもっと酷い女よ。母親なんてなる気もないのに。
昔を思い出して、最悪な気分になったわ。私は最低な女でいたいのよ」
ひっそりと息を殺して聞いていたロベルは、ヴィーナに聞こえないように呟いた。
「命拾いしたな……」
ヴィーナはよく聞こえず不審な顔をした。
「何よ。私に文句があるわけ?」
「安心しろ。お前は最低の女で、救いようのない女だ。それに人殺しだ。逆立ちしてもまともな人間にはなれない。お前は生きている限り永遠にエリンを苦しめる存在にしかならない。
お前に出来ることは、ただただ祈ることだけだ。奇跡が起こり救われることを祈るしかないな」
かっとしてヴィーナは唾を地面に吐き出した。
「祈って救われるなら誰だって救われているわよ!くだらない!くそ坊主」
悪態をつきながらも、ヴィーナはロベルの正体を口に出したりはしなかった。
ロベルは十年以上前から人殺しで、今度も十人以上の悪党を残忍なやり方で闇に葬った。
ロベルを脅せば金になるかもしれないとヴィーナの心に過ったが、そこまでは踏み切れない。蜘蛛の糸のような良心が、かろうじてそこに境界線を引いている。
「あの子の仕送りがあるでしょう?ちょっとは回してよ」
ため息をつき、ロベルは小銭をぽけっとから出してヴィーナの方に放り投げた。
目を輝かせ、ヴィーナは地面に飛びつき、小銭を拾って自分の財布に入れる。
「エリンに許されようなどと死んでも思うなよ」
最後に忠告すると、ロベルはヴィーナに背を向け、教会に続く小道を戻り始める。
春先に芽吹いた雑草は、すでに足首ほどの丈まで伸び、ロベルが踏みしめて進むたびに、小さな虫たちが慌てたように逃げ出した。
木立の合間を風が抜け、やわらかな春の日差しがこぼれ落ちる。
血に染まった地面も、飛び散った肉片も全ては自然が飲み込み、虫たちがどこかに運び去ってしまった。
自然豊かなのどかな道を抜け、ロベルは裏口から教会に入った。
自室に戻ると、寝台の裏に回り、聖母の描かれたタペストリーの裏に手をまわす。
壁の一部を押すと、音もなく壁がぱっくりと割れた。
タペストリーの裏側に潜り込み、ロベルはそこに現れた階段を下り始めた。
壁に嵌めこまれた聖石が光り出し、その足元を照らし出す。
ゆるやかな下りの階段は教会の真下に続いており、その突き当りに大きな穴が現れた。
底はそこから大人の背丈三人分ほど下にあり、底を見下ろすための通路はあるが、下に続く階段や通路はなかった。
その穴の側面がほのかに光りだし、底を照らし出した。
土を掘って平らにしただけの穴底には、太陽光を必要としないカビや白いキノコが生えている。
養分はとっくに白骨化している人間の遺体だった。
そのいくつかは、まだ鎖に繋がれたままの状態だ。
まるで集団墓地のような有様だったが、そこには魅力的な物もあった。
鈍く光る金貨や宝石、高価な装飾品、悪党なら目の色を変えて飛びつくようなお宝が無造作に転がっている。
壁際に、その中にあっては比較的新しい遺体が鎖に繋がれてぶら下がっていた。
カビとキノコが表面を完全に覆い、その下が骨なのか、それともまだ肉が残っているのかわからない。
そこは、かつてこの地に建っていた監獄要塞の処刑場だった。
もう百年近くも昔、悪人たちはここに運ばれ、拷問を受け、そして処刑された。
死を前にした罪人たちのために教会が隣接しており、神官たちは地下牢に通い罪人たちと向き合った。
当時は階段もあり、処刑場に続く回廊の先には無数の牢屋があった。
死刑を待つ罪人たちは風呂や食事の機会もほとんど与えられず、処刑を待つ間に命を落とすものも多かった。
そんな彼らから没収されたお宝は中央の処刑場に集められ、彼らは腹をすかせたまま宝を前に殺されていった。
要塞の移転が決まり、この地には教会だけが残った。
要塞のあった敷地のほとんどは墓地になり、棺桶職人や墓守といった少数の人々が小屋を建てて住み着いた。
この町で生まれ育った者達でさえ、その当時のことを深く知る者はいない。
処刑場は地下にあり、市井の人々が目にする機会はなかった。
要塞が消えて百年近くが経ち、事情を知る人々もほとんどがこの世を去っている。
ただ、悪党と呼ばれる人々の間には噂が残った。
まれに、その処刑場の床に敷き詰められた宝を前に、情報を売って死を免れる悪党がいたのだ。
悪党たちは、その処刑場の宝を目に焼き付け、国を追放された。
結果、処刑場に宝があるという噂は隣国の悪党たちにのみ語り継がれたのだ。
ロベルは当時のことを思い出しながら、冷やかにその穴の底を眺めた。
昔は怒りや憎しみが沸き上がり、平静ではいられなかったが、今はひっそりとした感情だけが心の中に横たわる。
ここに連れてこられた最後の罪人は、隣国の悪党だった。
誘拐や強盗、違法な薬の売買など、悪事の限りを尽くしていた男で、国をまたぐことでそれらの罪を逃れていた。
国境を抜けるには賄賂が必要であり、その抜け道を守る警備兵に悪党は自分の息子を渡していた。
大人達に慰み者にされた少年は、そのうち本当に娼館に売られ、そこで殺人をおかした。
人を殺し、女を犯し、数えきれないぐらいの罪を犯した。
少年に善悪を教えた大人はいなかった。
子供から年寄りまで、少年は気分で殺し、暴力で欲しい物はすべてを手に入れた。
その少年を殺せるものはいなかった。
オーブ国から入ってくる悪党の情報を国に売っていたからだ。
罪の軽減と引き換えに、父親の一味が犯した悪事を全て暴露した。
しかし取引材料も尽きたある日、少年は殺人をおかし、ついに捕らえられた。
監獄要塞の地下に連れて来られた少年は牢に入れられ、神官の訪問を受けた。
処刑の日まで、神官は罪人の懺悔を聞き、祈りの言葉を伝える。
少年の牢には教会の神官長がやってきた。
「お前は地獄に落ちるだろう。どんな祈りも、懺悔も無駄に終わる。救いが欲しいか?」
その言葉は、愛も知らず地獄で生きてきた少年の心には届かなかった。
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濁った眼をした少年に、神官長は少年の罪状を告げた。
「子供まで犯したな?」
幼少時代から、汚い大人たちに体を汚されてきた少年はせせら笑った。
「俺を犯したやつにも同じ質問をするのか?」
「多くの罪のない人々を殺した」
「子供が犯され、人殺しが起きても見て見ぬふりをする連中だ。罪がないとは知らなかった」
「お前に、食事を恵もうとした女性を手に掛けた」
「俺よりましな人間だと威張ろうとしたからだ!」
「お前は自分がしてきたことに後悔はないのか?」
淡々と神官長は尋ね、少年はきっぱりと「ない」と答えた。
「俺を自由にしてくれたら、俺は目についた人間を片っ端から殺してやる」
憎しみと怒りに満ちたその言葉を、神官長は黙って聞いていた。
何度か訪問を重ね、処刑の日が近づいたある日、神官長は少年に尋ねた。
「最後に、望みはあるか?」
少年は即答した。
「父親を殺したい」
この道に少年を引きずり込んだ諸悪の根源だった。
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親殺しは大罪であり、少年のこれまで犯してきた罪よりも重いとされていた。
しかし果たして本当にそうだろうか。
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「もし父親を殺せば、お前の心は救われるのか?」
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「もし、お前の願いを叶えたら、その見返りに何を差し出せる?」
神官長の問いに、少年は嫌な顔をした。
「これから死ぬ人間の望みをかなえるのに、見返りを求めるのか?けちくさいな。神様はただで願い事をかなえるものだろう?」
「ただで人を救うか。お前がそれを信じるのか?」
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取引として神官長は少年に話しを持ち掛けた。
「私はお前らのような悪党に傷つけられた多くの女性達を保護し、この上の施設で立ち直るまで面倒をみている。
私は悪人たちに祈りの言葉を伝え、罪を告白し、懺悔するように促す。
しかし、それが傷を受けた女性達の救いになったことは一度もない。
被害が減ることも、悪人が消えることもない。私がお前の願いを叶えたら、お前は、悔い改めることが出来るのか?」
「くいあらためる?俺は生きてきたように生きる。憎い人間を殺したいと思うだけだ」
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しかし神官長は国境を超えることの出来る王国のとある組織に少年の父親を捕まえて欲しいと依頼した。
数日後、丘の上の監獄要塞に少年の父親が連れてこられた。
父親は少年が入っている牢の向かいに入れられた。
暗い穴を見おろしながら、当時のことを思い出していたロベルは苦い溜息をついた。
死期を間近に、ロベルはこの処刑場であり監獄だった場所を残すべきかどうか考えていた。
その話を知る者もロベル一人であり、誰かに語り継ぐ気もなかった。
ヴィーナを投げ込んで終わりにするべきかと思ったが、ヴィーナは幸運なことに、ここには少しだけ相応しくない。
もっと悪人であれば最後を飾るのにふさわしい罪人になれた。
歩けなくなる前に、どうするべきか決めなければならない。
ロベルはそう考えたが、またその日も決断を先延ばしにした。
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