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とある密室での殺人

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 陽太の部屋は、駅近くにある高層マンションの四階にあった。
 エレベーターから出た時、莉子は眉をひそめた。
 陽太の部屋と、廊下を隔てた反対側の部屋の前に何人もの人がいる。
 四階は1LDKの部屋がずらりと並んでいるはずなのに、部屋の前に積み上げられた荷物は、その部屋の容量を楽々オーバーしているのではないかと思えるほどだった。引っ越し業者の人数も荷物の量に比例しているのか、普通よりも多いように見えた。
 だが、バッグから陽太の部屋の鍵を取り出して、ドアを開けようとする頃には、莉子の頭の中からそのことは消えていた。

 莉子が陽太の部屋に入ってから一時間ほど経った。
 悲鳴を上げながら莉子が部屋から出てきた。
「誰か、誰か警察に連絡を!」
 そう叫ぶと、莉子は腰の抜けたように廊下にへなへなと座り込んだ。
 向かいの部屋の引っ越し作業はまだ続いていた。
 数人の男が莉子の出てきた部屋に入った。
 狭い部屋の中央で、若い男が頭から血を流して倒れていた。
 天井を見る目はカッと見開かれたままで、動く気配はない。死んでいるのは明らかだった。
 警察はすぐにやってきた。

「お気持ちは察しますが、もう一度心を落ち着けて、その時の様子を話してもらえますか?」
 髪の毛を短く刈り揃えた中年の刑事が莉子に言った。
「はい」
 莉子はそっとひとつ深呼吸をした。
「ここには二時半ころ来ました。鍵を開けて部屋に入ると陽太が血を流して倒れていました。私はびっくりして陽太のところに駆け寄りました。陽太は少しも動かないし、息もしていないし、目を見開いたままだし、死んでいると分かりました。そう分かったとたんに、スーッと頭の中が冷たくなっていくような感じになって・・・・」
「気を失ったわけですな」
 刑事が言った。
「そう思います。ほんの一瞬だったか、長い間だったかわかりません。気が付いて私は救急車を呼ぶか、警察を呼ばなければと思いました。でも、確か廊下に何人も人がいたことを思い出し、その人たちに頼んだ方がいいと思って部屋の外に出ました」
「あなたがこの部屋に来ておこなったことは、それが全てということですね?」
「そう・・・・だと思います」
 莉子と刑事は陽太の部屋から出た廊下で話をしていた。刑事は髪の毛の短い男と、もう一人背の高い男もいたが、話をするのは毛の短い方だ。
 テープで仕切られた廊下の向こうには野次馬が何人もいて、こちらを見ている。
「まだ検視は済んでいませんが、私が見ただけでも、彼は死んでから一時間と少ししか経っていないと分かります。あなたがここに来たのも一時間半くらい前でしたね?」
「そうです。でも、私が来た時にはもう、陽太は死んでいたんです」
 莉子は訴えるように言った。

「彼は頭を、何か尖ったもので何度も殴られています。後ろから一回、前から何度か。恐らく彼は後ろから一度殴られ、振り向いたところをもう一度殴られたのでしょう。抵抗できなくなったところにさらに何度か」
 莉子は両耳を手で覆い、首を振った。
「失礼」
 刑事はそう言って莉子の気持ちが落ち着くのを待った。待っている間、もう一度被害者の部屋の様子を思い出してみた。
 殺された男はマメで綺麗好きだったらしく、部屋はよく掃除され、無駄な物もほとんど無かった。
 壁にはその小さな部屋には不釣り合いなほどの大画面のテレビが掛けてある。
 窓際には引き出しのない大きな机があり、ノートパソコンとタブレットが置いてあった。机の上にはその他にスマホや書類、筆記具がある。
 机の隣には天井近くまである棚があり、ファイルの類のほかに、何かのフィギュアやミニチュアの車などこまごましたものが並んでいた。
 その隣にも天井に届きそうなほどの大きな本棚があり、大小さまざまな本がぎっしり入っている。ざっと眺めてみたが、難しそうな本ばかりで、刑事にとって興味がありそうな物はなかった。
 その隣には奥行きのあまりない文庫本専用の本棚があった。文庫本のほうはどうやら小説ばかりのようだった。その小さな本棚の隣には、入りきらなかった文庫本が一列、高く平積みされている。
 反対側には一人用のベッド。
 それだけで部屋はほとんど一杯で、あとは人が移動する空間が残っているくらいだった。
 クローゼット中にはいくつもの服が吊るされ、下には半透明のプラスチックケースが置かれている。その中も着るものだった。
 トイレも風呂場もキッチンも綺麗にしてあり、手入れは行き届いていた。特にキッチンはめったに使うことがないらしく、簡単な調理器具と食器があるくらいだった。
 被害者の頭の傷は尖ったもので殴られたとはいえ、鋭利なものではなく、机の角で叩かれたような傷に見えた。
 ぱっと見、そのような凶器は部屋の中に見つけられなかった。

「あなたが彼の姿を発見したとき、彼を襲った凶器みたいなものは近くにありませんでしたか?」
 いくらか気分が落ち着いたらしい莉子は首を振った。
「私は部屋に入ってすぐに気を失ったらしくて、中のものには何も手を付けていません。なので、今無いのなら、その時も無かったと思います」
「そうですか」
 刑事は言った。
 窓にはカーテンが引かれ、外からの目撃者は期待できない。逆に周りにも高層ビルが立ち並んでいるので、凶器を窓から処分するといったこともできそうになかった。
「私はあなたが彼を殺したのだと確信しています」
 部屋の中を動き回る鑑識課の署員たちを見ながら刑事が言った。
「私?」
 莉子は驚いて刑事を見た。
「あなたが何を使ってどのように彼を殺したか、私の考えを言います。それが合っていたら、罪を認め、真実を話してくれますか?」
 刑事は優しく言った。

 刑事の話を聞き終えた莉子は素直に罪を認めた。
「それでは警察署に行って、詳しい話を聞かせてください」
 刑事にうながされ、莉子たちはその場をあとにした。

 刑事が最初に目をつけたのは、本棚に並ぶ文庫本だった。
 所々にわずかな隙間がある。
 一冊の本を取り出してみると、表紙に折れた痕があった。他にも数冊、表紙や裏表紙に折れた痕があるものがあった。どこか高いところからばらばらと落とされたような折り目だった。
 それを見て、刑事は真相がわかった。

 莉子は部屋に入るとすぐに文庫本の本棚の前に行き、本を取り出すふりをして本棚をひっくり返す。陽太という被害者の男は慌てて駆け寄ってきて、本を拾いだしただろう。
 莉子は被害者に気付かれないよう、倒れて空になった本棚を抱え上げ、背後に回ると、本棚の角で狙いを定めて被害者の頭に振り下ろす。
 非力な女だし、大きい割に軽い本棚だから、致命傷にはならない。驚いて振り向いた被害者にさらに本棚を振り下ろす。そして弱った被害者にとどめを刺すためにさらに、さらに二度、三度と本棚の角で頭を打ち付けた。
 被害者が死んだのを確認した後、莉子は本棚にあった文庫本を元のようにきちんと片付ける。血の付いた物は細かくしてトイレに流した。もちろん被害者を殴った本棚の血はきれいにぬぐい取った。
 莉子は被害者を殺してすぐに人を呼べば、自分が殺したことがばれてしまうが、一時間ほど時間を置けば自分が殺したのではないという言い訳が通ると思っていた。
 莉子の供述は刑事の考えとほぼ一致した。

 別れを切り出したのは莉子のほうからだった。
 几帳面で神経質な陽太と違って、もっとワイルドで明るい蓮と知り合うと、莉子はたちまち彼に惹かれた。
 別れたいと告げると、陽太は頑としてそれを拒み、二人の過去を持ち出してひどい嫌がらせをするようになった。
 そのうちに莉子は陽太を殺してしまうしか方法はないと思うようになった。本棚を凶器に使おうと思い付いたのは殺害の数日前だった。
 凶器さえ見つかなければ捕まりはしない。そう考えたのは莉子の浅はかさだった。


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