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いとおしき・・・・

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 夕闇が街を覆い始めている。遠くの空が赤い。
 高層ビルに囲まれた狭い場所に、五人の男の姿があった。
 光を遮るその場所は、闇の色をさらに濃くしていた。
「ヤクザに払う金はねえ」
 三人の男に囲まれている年配の男が言った。
「別に、我々に払えと言っているわけじゃないでしょ。店に行って、溜まったツケを払ってくれって言っているだけです」
 年配の男の正面に立つ男が言った。
「あの店がヤクザのやっている店だと分かったから、もう行かない。金も払わない」
「我々があの店をやっているわけじゃないし、ちゃんとオーナーもいますから」
「形だけのオーナーがね。どうせ金はあんたらの所に行くんだ」
「店長さんだって困っているんですよ。あんた、常連さんだからって大目に見て、ツケを容認してやっていたのに、裏切られた思いだって。それを聞いて、我々が一肌脱いでやることにしただけですから」
「誰が何と言おうと金は払わん」
「あんた、お金がないわけじゃないんだから。店に払う分くらい簡単に出せるでしょう。このまま黙認していると、他の客に示しがつかないそうでね」
「金はある。だが、ヤクザに払う金はない」
「それじゃ、借金踏み倒すのと一緒でしょ。犯罪でしょ」
「だったら警察に訴えればいい。だがわしは払う気はない」
「もういい」
 不意に、少し離れた場所に立っていた男が口を開いた。
「四つん這いにさせろ」
 年配の男の背後に立っていた二人の組員が男を羽交い絞めにして、地面に這いつくばらせた。コンクリートについた男の手を、もう一人の組員が踏みつける。
「いてっ! こんなことしていいと思ってんのか! 警察に訴えてやるぞ! そうすればお前らの組は終わりだ。それでいいのか!」
 中年の幹部らしい男が、手に持っていた長方形の赤レンガを、男の正面で手を踏みつけている組員に渡した。
「おい、何しやがる」
 年配の男が声を上げた。
 組員は伸ばした小指の上にレンガを振り下ろした。
 指が潰れた。
 男が短い悲鳴を上げて身をよじる。だが、屈強な男たちに押さえつけられて、体を動かすこともできない。
「一週間のうちに店に全額払え。もし払っていなければ、一週間後にはもっと切れ味のいいものを持ってくるからな」
「う、うるせー。誰がてめーらなんかに」
 男は痛みに耐えながら言う。
「もう一本やれ」
 組員がもう一度レンガを振り上げた。
「お、おい、よせ!」
 骨の砕ける鈍い音がした。
 男の呼吸が止まる。そして痙攣するかのように息を吸い込む。
「警察には言うな。言ったら、指じゃない場所を使い物にならなくしてやるからな」
 そう言うと、背広姿の中年のヤクザは、くるりと背を向けて歩き出した。
 若い組員たちも男を離し、後に従う。
 残された男は、激痛にその場を転げまわった。

 組事務所の前で若い組員たちは車を降りた。
「おい、下島」
 車を運転していた中年の男が、車の外に立つレンガを持った組員に声をかけた。
「ちゃんと処分しておけ」
「はい」
 走り出す車を、組員たちは頭を下げて見送った。

 中年の男は組幹部の川口。組織内の荒っぽい仕事、汚い仕事を一手に引き受けて行ってきた。今の組の繁栄も、この男がいたからこそといっても過言ではなかった。
 川口は運転しながら考えていた。
 若いときは対立組織との抗争で多くの人間を痛めつけてきたし、自分自身も危ない目にあってきた。それを潜り抜けてこうして五体満足でいられるのは奇跡的ともいえる、と川口は思った。
 昔、そのあたり一帯を仕切っていた老舗の中村組も、川口のおかげで衰退し、代わりに、かつて中村組の下部組織だった川口の属する吉川組が地域を牛耳っている。今では互いに違う組織に属して、対立関係はそのままだが、中村組の組長は高齢で、しかもアルツハイマーのケがあるといわれている。後継となる強い人間もいずに、中村組が潰れるのも時間の問題かもしれなかった。中村組がなくなれば、上の組織は別の団体を送り込んでくるだろう。そうすればまた、争いの日々が始まるかもしれない。
 今は昔ほど荒っぽい真似はできないし、川口が直接手を下すということもほとんどなくなっていたが、またあの緊張感のある日々が訪れるかもしれない。そう思うと、川口の血が騒いだ。
 川口の運転する車は、そのまま首都高速へと乗り入れた。

 下島は手にしたレンガを見つめた。いたって普通の赤レンガだ。つい先ほど人間の指を二本潰した痕跡は見当たらない。少なくとも自分が見た限りは。
「俺はこいつを処分しに行くからよ。そのまま今日は帰るわ。あと、頼むぜ」
 下島より年下の二人の組員に言ってから、レンガをジャンパーのポケットに入れ、組事務所に寄らずにそのまま歩き出した。ジャンパーの内側にはレンガを入れるための大きなポケットが縫い付けてあった。
「お疲れさんでした」
 若い組員が下島の背中に言った。

 首都高速を降りると、川口の車は近くの地下駐車場へと入っていった。
 薄暗い駐車場に車を止めると、川口は背広を脱ぎ、ネクタイを外した。バッグからサラリーマン風のカツラを取り出し、三分刈りの頭にかぶる。さらに黒縁の伊達メガネを出してかけた。
 辺りを見回し、人気のないのを確認してから車内灯をつけ、小さなバックミラーでカツラとメガネの状態をチェックする。
 車を降り、駐車場を出ると、表通りでタクシーを止めて乗り込んだ。

 下島は自宅マンションに入ると、明かりをつけた。ポケットのレンガはそのままだ。
 押入れの扉を開け、奥から箱を取り出す。中には角の大きく欠けたレンガが入っていた。それを取り出し、ポケットのレンガを箱の中にしまう。
 川口にはレンガを処分するようにと言われていた。処分をするというのは、足が付かないようにするという意味だ。指を潰した傷害事件くらいで、警察がどれほど真剣に調べるかわからない。しかし、警察が入り、レンガを見つけて詳細に調べられれば、それが凶器だということが割れてしまうだろう。川口は用心深い男だから、今日も念を押した。処分するということは、粉々にして川にでも捨ててしまえということだ。
 だが下島にはそれができなかった。指を潰した時の感触がまだ手に残っていた。
 数カ月前に初めて赤いレンガを渡された時、それで相手の顔を殴れということかと思った。だが、川口の指示はもっと残酷だった。
 初めて小指をレンガで潰そうとした時、下島は失敗した。指の半分ほどの所に当たり、指の皮と肉をそぎ落として、レンガは固いコンクリートを打ち付けた。それでレンガの角が欠けた。
 もう一度やり直し、二度目には確実に指の骨を潰すことができた。
 川口は何とも思わなかったかもしれない。だが、下島は川口の前で大きな醜態をさらしてしまったと思った。
 それから下島は似たようなレンガを買ってきて、人目につかない場所でレンガを打つ練習をした。他人にはくだらないことかもしれなかったが、下島にとっては大事なことだった。
 下島は新しいレンガを入れた箱を再び押入れの奥にしまい、欠けたレンガをポケットに入れて立ち上がった。

 その猫カフェには先客が三人いた。若い男が二人に若い女が一人。
 川口はいつもの場所に陣取ると、三毛猫のミケを探した。店に入った時から探していたが、見つからなかった。
 すると、若い女に抱かれているのがミケだと気が付いた。
 川口はミケを諦めて、近くにいた白い猫を抱き上げた。
「よし、お前は普通にシロでいいな? 犬みたいな名前だけど」
 川口は小声で、今抱きかかえた猫に話しかけた。
 白い猫の頭を撫で、ついでに顔を寄せて匂いを嗅ぐ。猫の顔を自分の顔のすぐ前に持ってきて、その小さなピンクの鼻を自分の鼻にこすりつける。
 離れると、白い猫はニャンと鳴いた。
「よし、よし」
 言いながら川口はシロの背を撫で、のど元を撫でてやる。
 するとシロは怒ったようにフーっという声を出した。
 川口はそんな猫は初めてだった。だが、そんな怒ったような、不快そうな声もすごくかわいいと思った。
 気性の穏やかなミケなら、決してそんな態度は取らない。川口はそう思いながら、女に抱かれているミケを見た。
 若い女は両手でミケを抱え上げ、にらめっこをするような態勢でいる。何か心の中で、ミケとしきりに話をしているように見えた。
 不意に女が顔を上げて川口を見た。
 少し見つめあって、川口は視線を落とした。目鼻立ちの整った綺麗な女だった。スタイルもいい。性格が良くて、頭も少しばかり回転が良ければ、店のホステスとして働かせても人気が出るだろうと値踏みした。
 川口はもう一度、白い猫を構った。
 もうシロは不機嫌に喉を鳴らすことはなかった。
 機嫌は直ってしまったらしい。
 フーッという声を聞けなくなって、川口は急に白い猫に対する興味を失った。というよりも、猫よりも女のほうに興味を持ってしまった。
 川口はもう一度、女を見た。
 それに気付いたのか、女も顔を上げ、また目が合った。
 女が『何か?』といった表情をする。
 川口は意味ありげに女に抱かれたミケを見た。
 女は立ち上がって川口の近くに来た。
「この猫、あなたのお気に入り?」
「うん、実はね」
「はい」
 女は大きな目で川口を見て、ミケを差し出した。
 川口はシロを放り出してミケを受け取った。
 女は別の猫を拾い上げ、自分の席に戻った。
 しばらくミケとじゃれていたが、川口は女のことが気になって仕方がなかった。このままではいけないと思い、川口は席を立って店を出た。

 遠くの街を、下島は当てもなく歩いていた。
 初めて人間の指の骨を砕いた時から、下島はその感触の虜になってしまった。買ってきたレンガでごぼうのような固い野菜を潰してみたり、骨付きの鶏肉を潰してみたりした。しかし人間の指の感触には程遠かった。もう一度、人間の指の骨を砕いてみたい。そんな欲求に耐えられずに、下島はレンガをポケットに入れて、夜の街を彷徨った。
 そして、獲物を探した。
 だが、実際に行動に移すことはなかった。馬鹿な真似をすれば組に迷惑がかかる。尊敬する川口に見捨てられることが最も恐ろしかった。
 組の中で一目置かれている川口は、下島が組事務所に出入りするようになってすぐから目をかけて可愛がってくれた。下島は川口のことを尊敬していたし、川口のためなら何でもする覚悟でいた。いつかは川口のようになりたいと思った。
 どうにもならない不思議な欲求を抑えきれずに、レンガをポケットに忍ばせて暗い夜道を歩き回ったが、決して危ないことはしなかった。歩くにしても、組の縄張りから遥かに離れた見知らぬ土地だった。
 今日、川口の持っている赤いレンガを見たとき、ぞくぞくっと体が震えた。レンガを受け取ったときは手が震えそうになり、体の芯が疼いた。ずっと待ちわびていた瞬間だった。
 次はいつになるかわからない。何か月も先になるかもしれない。また新しいレンガを川口から手渡される日を待ちわびて、こうして夜の街を歩き回るしかない。

 色々と忙しくて、一カ月ほど猫カフェに行く時間を取れなかった。久しぶりに猫たちのもとを訪ねた川口は、もう一度あの若い女に会えるのではないかと少しばかり期待していた。
 はたして、その女はいた。
 川口は少し猫と戯れてから、女の近くに行った。
「あんた、よっぽど猫が好きなんだね」
「どうして?」
 女が、前と同じ大きな目で川口を見た。
「この前もいたでしょ。この店によく来るの?」
「二回目です。私もあなたに対して同じことを考えていました」
 女はにこりともせずに言った。
 綺麗な顔立ちだが、あまり愛想はよくないから、客商売には向かないなと川口は思った。
「お気に入りの猫ちゃんは見つかった?」
 川口が尋ねた。
「この黒い猫、かわいい。あなたのお気に入りの三毛猫もかわいいけど」
「この子はすごく性格がいい」
 川口は抱いているミケを見ながら言った。そして続ける。
「この前、あそこにいる白い猫をかまっていたんだけど、フー、フーって怒るんだよ」
「フーフー?」
「よっぽど俺のことが嫌だったんだろうね」
 それから川口は女と猫談議に花を咲かせた。帰り際に女の電話番号を聞き、SNSで友達になった。ついでに次は二人で食事をしてからこの店に来る約束までした。

 人間の手が欲しい。潰せる指を持った人間の手が。
 下島の頭はそのことでいっぱいだった。家にじっとしていられずに、今日も見知らぬ土地を歩いた。ポケットには角の欠けたレンガが入っている。もちろんそれを使おうというつもりはない。
 人通りの絶えた薄暗い通りを歩いている時だった。
 前方から歩いてくる人影を認め、少し見つめてから、下島はすっと脇の建物の陰に身を潜めた。
 似ている。だが、そうでない雰囲気もある。こんな場所で行き会うわけがない。そう下島は思ったが、完全に否定することもできなかった。
 処分したはずのレンガをポケットに入れて歩いている。そんな罪悪感だけで、すでに川口の前に姿をさらす勇気はなかった。
 男が近づいてきて、通り過ぎていった。
 川口はカツラをかぶっていた。一瞬別人かとも思ったが、頭にある髪の毛が自毛でないということは、薄明りの下でもわかった。遠くから見たときに雰囲気が違うと思ったのはカツラのせいだ。
 カツラのほかにメガネもかけている。なぜ川口はそんな恰好をしているのだろう。
 十分距離を置いたと思われるところで、下島は物陰から出て、川口の後を追った。その後ろ姿は間違いなく川口だった。

 川口は頭を冷やすために、夜の道を歩いてきた。
 先のことは考えたくなかった。考えるのが怖かった。二回りも歳の違う女だ。だが、俺はその女を好きになろうとしている。
 この先、どうなっていくのか、全くわからなかったし、どうなりたいといった希望もなかった。
 二週間後に女と会う。会って食事をし、猫と戯れる。それだけだ。それ以上はない。その次に会う時には?
 それはわからない。その次があるのかもわからない。なるようになる。なるようにしかならない。それだけだ。
 川口は夢遊病者のように自分の考えに取りつかれたまま、自分の車の止めてある暗い駐車場へと入っていった。

 下島は川口が地下駐車場へと入っていくのを見つめた。その中まであとをつけていく勇気はない。
 今日の川口は何かおかしい。もちろんカツラやメガネの変装が何を意味しているのか分からない。それよりも、いつも用心深い川口が、今は周りを一向に気にせず、まるで別人のようなのが不思議だった。
 下島は川口がカツラをかぶる理由を考えてみた。
 女だろうか?
 世間に知られてはまずい女と関係を持ち、変装して女に会いに行っているのだろうか? だが、川口が女と会うのに、変装までしてこそこそするような真似をするわけがない。
 川口は独り身だが、愛人らしき女はいる。公にしているわけではないが、隠しているというわけでもない。
 女のためにカツラをかぶり、メガネをかけているとは到底思えない。
 他に理由は?
 近くの中村組の組長がそろそろくたばりそうで、別のよそ者が中村組の縄張りを引き継ぐためにやって来るという噂がある。下島の元まで詳しい情報は流れてこないが、もしかしたら川口はそのことのために変装までして動いているのではないだろうか。
 中村組は昔に比べ弱体化し、細々と生きながらえてきたが、新たにイキのいい組織が来たら、吉川組ものほほんと構えてはいられなくなるかもしれない。川口はその探りを入れるために働いているのか。それなら身分を隠すためにカツラやメガネで変装しなくてはならないというのも説明がつく。
 だが。
 あの変装はあまりにもお粗末だ。いかにも素人がやることだ。命を張ってまでのこととは思えない。しかもさっきまでの不用心さの意味も説明できない。
 物陰で考え込んでいると、駐車場から川口の車が出てきた。
 ちらりと見えた車の中の黒い影は、カツラもメガネもしていない、いつもの川口だった。
 下島は川口の車の赤いテールランプを見送ったあとも、しばらく考え込んでいたが、どうにも答えは見つかりそうになかった。

 日が経つにつれ、川口の変装のことは下島の頭の中で小さくなっていった。それに代わるように、また下島の心の中でめらめらと燃え上がってきたのは、人間の指に対する欲求だった。
 下島は川口の変装について、自分なりの結論を出していた。川口はやはり、他の組の動向を調べるために動いている。ということは、新しい勢力が近いうちに来るということだろう。そうなれば組同士の大きな抗争にまでいかないにしろ、小競り合いくらいはある。川口からレンガを渡される機会も増えるかもしれない。
 そう思うと、下島は期待にぞくぞくした。
 早く中村の老いぼれがおっ死んでしまえばいいのに。

 川口の変装姿を見かけてから二週間ほど経った日だった。
 時間を気にしている。
 下島は川口が今日、また変装して何かの捜索に出るのだろうと思った。ほかの者たちはそんな川口の変化に気付いていないし、下島自身、二週間前の川口を見ていなかったら、そんな川口の様子に気付かなかっただろう。

 食事をする場所は女が決めた。
 川口は近くで、普通のサラリーマンが選びそうな店を思い浮かべることができなかった。
 それほど格式ばってはいないが、少し洒落たレストラン。
 川口はいつもよりも入念にカツラをチェックして、待ち合わせのレストランへと向かった。
 予約はしていない。入口に近い窓際のテーブルの椅子に川口は座った。外はすでに夜のネオンが灯り始めている。
 ほどなく女も現れた。食事のあと猫カフェに行くので、特別な服装というわけではなかったが、今までの普段着っぽい姿とはまた違ったいでたちで、川口はその姿に見とれた。
 料理を注文したあと、二人はお互いに名前を言った。それまで本名を知らなかった。女は二十歳の大学生で、斎藤美紀と名乗った。川口は自分の事をサラリーマンと言い、機密事項を扱う部署にいるので、会社名や場所はまだ言えないと話した。お互い、それ以上プライベートな部分に踏み込もうとはしなかった。
 話題は結局猫のことへと移っていった。
 美紀は自宅では猫を飼っていないようだった。
 川口も飼っていない。将来の夢は、動物の飼えるマンションで猫と暮らすことだった。だが、今は小動物をかわいがる素振りを周りに見せるわけにはいかない。猫を飼うどころか、それらしい小物を身の回りに置くことさえ避けていた。
 川口は美紀との話題を切らさないことや、食事する姿をサラリーマン風に見せることばかりを考えて、料理の味まで気にする余裕はなかった。
 美紀は美しかった。だが、美紀より綺麗な女はいくらでも知っている。なぜ俺はこんなに美紀に惹かれてしまったのだろうかと川口は思った。
 出会った場所のせいだろうか。お互い猫好きなせいか。歳の差を感じさせずにこうやって話ができるせいか。それとも愛想笑いひとつしない美紀の性格に惹かれたのだろうか。
 そのすべてのせいなのだろうと川口は思った。

 食事を終えて店を出ると、二人は猫カフェに向かって歩いた。
「涼しくて気持ちがいい。ちょっとそこの公園に寄っていきません?」
 隣を歩く美紀が言った。
「構わんよ」
 二人は木々の生い茂る大きな公園へと入っていった。
「私、猫が好きなせいか、静かな場所とか、外のこんな暗い場所とか、結構好きだったりするんです」
 街灯がポツンポツンと灯る人気のない公園を二人は歩いた。近くの通りの喧騒が嘘のようだった。
 こんな穏やかな気持ちで外を歩くなんて、今までにあっただろうかと川口は思った。空には星が瞬いているが、そのほとんどをうっそうと茂る木が覆い隠している。
 不意に後ろでカチリという音がした。
 その音の正体に気付き、川口はビクンと体を震わせると、身を沈めながら振り向こうとした。
 美紀はそんな川口の動きを予想していたようだった。
 鈍い音がして、銃弾が川口の胸に突き刺さった。
 倒れた川口が、撃たれた胸に手をやろうとしたが、うまく力が入らなかった。心臓はそれたようだが、どのみち助かりそうもないと悟った。
 美紀も同じ考えのようだった。二発目の狙いを川口の頭に定めていたが、撃つつもりはないようだった。
「てめえ・・・・」
 川口は美紀をにらんだ。暗がりで表情はよく見えない。
 川口の口の中に、どろどろとしたものがこみ上げてきた。
「てめえ、何者だ」
 血を吐き出しながら、何とか言葉を放った。
「私は中村美紀」
 美紀はそれだけを言った。
 中村、中村・・・・。確か中村組の組長には年の離れた娘がいると聞いたことはあったが。
 川口はそれ以上考えることができなかった。
 それきり、川口の意識は閉じられた。
 美紀は川口の死を確認すると、辺りを用心深く見渡した。そして消音機付きの小型拳銃をバッグに入れると、足早にその場を離れた。
 闇の中に溶け込んでいく美紀が頭に手をかける。
 カツラを取ると、はらりと長い髪が背中に広がった。

 美紀が立ち去って、数分が経った。
 黒い影が生垣の間から現れ、川口の死体に駆け寄った。
 下島は血にまみれた川口の頭を揺さぶってみたが、すでに事切れているのは明らかだった。
 下島の目に涙が溢れてきた。
「済みません、俺は、・・・・俺は、女が銃を出した時、足がすくんで声を出すこともできやせんでした。やっぱり俺、川口さんのようにはなれないっす。本当にすみません」
 下島は川口の死体のわきに両膝をつき、両手も地面について涙を流した。
 やがて下島は仰向けに横たわる川口の手を握り、指の一本一本を広げ始めた。
「本当に済みません」
 涙声で言いながら、下島はジャンパーから赤いレンガを取り出した。
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