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愛おしい君
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それから五日後に君はいなくなった。
仕事から帰った時、玄関にいくつかあったはずの君の靴がなくて変だと思った。靴箱を開けてみると、君の靴は一足もなかった。
僕は胸騒ぎを覚えて部屋に行った。
君の物は全てなくなっていた。
ダイニングのテーブルの上に紙が置いてあった。
『ごめんなさい。もう会うことはできません。今まで有難うございました』
短い文章だけが書かれていた。
紙の上には見覚えのある小さな箱。開けてみると数日前に君にプレゼントしたダイヤの指輪が入っていた。
あてもなく僕は街を彷徨い歩いた。
君の勤めていた店に行ってみたけれど、もう辞めてしまってどこに行ったのかわからないとのことだった。
昔、君が住んでいたアパートにも行ってみた。当然ながらそこには別の人が暮らしていた。
なぜ君は突然、僕のところからいなくなってしまったのだろう。
もしかしたら、以前見かけた若い男のところに行ってしまったのだろうか。
そうだとしたら、遠くに行ってしまったのではないだろう。
僕は休みのたびに君の姿を捜して歩き回った。
再会は突然だった。
君を捜すことに疲れ果てた僕は小さな公園に立ち寄った。そのころには君と会うことはないだろうと半ば諦めかけていた。
君は柔らかい日差しを受けてベンチに座っていた。
ベンチの横にベビーカーがある。
そして君の目の前には、まだよちよち歩きの小さな子供。
近づく僕に気が付いて君が顔をあげた。
はっと驚いた顔になる。
僕は黙って横に腰かけた。
「ごめんなさい」
君が俯いて言う。
「謝らなくていいよ。でも、理由は聞かせてほしかったな」
僕の目の前で小さな子供が転ぶように座り込んだ。
腰を浮かしかけた君が再びベンチに座る。
「娘たちは私があなたとお付き合いをすることに反対でした」
君が悲しそうにゆっくりと話し始めた。
君と付き合いだした頃に、君には一人娘がいて結婚をしていることを聞いていた。君が若いときに旦那さんと死に別れたことも。
「あなたとのお付き合いを一番反対していたのが娘の旦那さんでした。若いけど世間体をとても気にする人でした」
「いつかスーパーで見た人?」
「はい。あの人は一人で食品を買いに行くような人ではありませんでした。娘に何かあったのかなとは思ったのですが、あなたと一緒に暮らすようになって娘とは連絡を取っていなかったのでそのままにしておいたのです」
「それじゃ、僕に先に帰っててくれと言った時のが」
「そう。娘です。娘は私が知っている頃よりやつれていました。どうしたのだろうと、とても気になりました」
「それで娘さんと話をした?」
「はい。私のことで夫婦の関係がぎくしゃくして、結局別れました。子供は娘が引き取り、働きながら育てていると言って孫の顔を見せてくれました。私のせいで娘たちの幸せを奪ってしまった知り、とても後悔しました。娘は旦那さんとは合わない人だったから、遅かれ早かれいずれはそうなったと言ってくれました。でも、私は娘と孫に償いをしなければならないと思いました」
僕はただ黙って話を聞いていた。足元では小さな子供が何か興味ありげに地面をなぞっている。
「それにこの子。孫の顔を見たとたんにいとおしくなって、ずっとそばにいてやりたいと思ってしまったのです。娘はあなたのことを受け入れてはくれないでしょうし、あなたはまだ若い。私よりもっと若くて綺麗な子とやり直せるかもしれない。どうすればいいのか色々と考えた末、何も言わずに黙ってあなたのもとを去るのが一番いい方法だと思ったのです。本当にごめんなさい」
聞きなれた君の声は、いつしか涙声になっていた。
「謝らないで。素直に話してくれてよかった。この子は女の子?」
「いえ、男の子。よく女の子と間違われるんです」
君の視線に気が付いた子供が両手をあげて抱っこをねだった。
君は立ち上がり、そっと子供を抱き上げた。
「今、幸せ?」
「はい・・・・あなたといた時と同じくらいに」
君の言葉を聞いて僕は立ち上がった。
「そうか。よかった。じゃ、僕はこれで。もう会うことはないかな」
君は子供を抱いたまま、深々と頭を下げた。
僕は軽く会釈をすると君に背を向けて歩き出した。
君は僕の姿が見えなくなるまでずっと頭を下げたままでいるのだろう。
終わり
仕事から帰った時、玄関にいくつかあったはずの君の靴がなくて変だと思った。靴箱を開けてみると、君の靴は一足もなかった。
僕は胸騒ぎを覚えて部屋に行った。
君の物は全てなくなっていた。
ダイニングのテーブルの上に紙が置いてあった。
『ごめんなさい。もう会うことはできません。今まで有難うございました』
短い文章だけが書かれていた。
紙の上には見覚えのある小さな箱。開けてみると数日前に君にプレゼントしたダイヤの指輪が入っていた。
あてもなく僕は街を彷徨い歩いた。
君の勤めていた店に行ってみたけれど、もう辞めてしまってどこに行ったのかわからないとのことだった。
昔、君が住んでいたアパートにも行ってみた。当然ながらそこには別の人が暮らしていた。
なぜ君は突然、僕のところからいなくなってしまったのだろう。
もしかしたら、以前見かけた若い男のところに行ってしまったのだろうか。
そうだとしたら、遠くに行ってしまったのではないだろう。
僕は休みのたびに君の姿を捜して歩き回った。
再会は突然だった。
君を捜すことに疲れ果てた僕は小さな公園に立ち寄った。そのころには君と会うことはないだろうと半ば諦めかけていた。
君は柔らかい日差しを受けてベンチに座っていた。
ベンチの横にベビーカーがある。
そして君の目の前には、まだよちよち歩きの小さな子供。
近づく僕に気が付いて君が顔をあげた。
はっと驚いた顔になる。
僕は黙って横に腰かけた。
「ごめんなさい」
君が俯いて言う。
「謝らなくていいよ。でも、理由は聞かせてほしかったな」
僕の目の前で小さな子供が転ぶように座り込んだ。
腰を浮かしかけた君が再びベンチに座る。
「娘たちは私があなたとお付き合いをすることに反対でした」
君が悲しそうにゆっくりと話し始めた。
君と付き合いだした頃に、君には一人娘がいて結婚をしていることを聞いていた。君が若いときに旦那さんと死に別れたことも。
「あなたとのお付き合いを一番反対していたのが娘の旦那さんでした。若いけど世間体をとても気にする人でした」
「いつかスーパーで見た人?」
「はい。あの人は一人で食品を買いに行くような人ではありませんでした。娘に何かあったのかなとは思ったのですが、あなたと一緒に暮らすようになって娘とは連絡を取っていなかったのでそのままにしておいたのです」
「それじゃ、僕に先に帰っててくれと言った時のが」
「そう。娘です。娘は私が知っている頃よりやつれていました。どうしたのだろうと、とても気になりました」
「それで娘さんと話をした?」
「はい。私のことで夫婦の関係がぎくしゃくして、結局別れました。子供は娘が引き取り、働きながら育てていると言って孫の顔を見せてくれました。私のせいで娘たちの幸せを奪ってしまった知り、とても後悔しました。娘は旦那さんとは合わない人だったから、遅かれ早かれいずれはそうなったと言ってくれました。でも、私は娘と孫に償いをしなければならないと思いました」
僕はただ黙って話を聞いていた。足元では小さな子供が何か興味ありげに地面をなぞっている。
「それにこの子。孫の顔を見たとたんにいとおしくなって、ずっとそばにいてやりたいと思ってしまったのです。娘はあなたのことを受け入れてはくれないでしょうし、あなたはまだ若い。私よりもっと若くて綺麗な子とやり直せるかもしれない。どうすればいいのか色々と考えた末、何も言わずに黙ってあなたのもとを去るのが一番いい方法だと思ったのです。本当にごめんなさい」
聞きなれた君の声は、いつしか涙声になっていた。
「謝らないで。素直に話してくれてよかった。この子は女の子?」
「いえ、男の子。よく女の子と間違われるんです」
君の視線に気が付いた子供が両手をあげて抱っこをねだった。
君は立ち上がり、そっと子供を抱き上げた。
「今、幸せ?」
「はい・・・・あなたといた時と同じくらいに」
君の言葉を聞いて僕は立ち上がった。
「そうか。よかった。じゃ、僕はこれで。もう会うことはないかな」
君は子供を抱いたまま、深々と頭を下げた。
僕は軽く会釈をすると君に背を向けて歩き出した。
君は僕の姿が見えなくなるまでずっと頭を下げたままでいるのだろう。
終わり
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