名も知らぬ人

原口源太郎

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 川原家の二階にある一室が晴菜のアトリエになっている。
 何枚もの絵に囲まれた晴菜は白く大きなキャンバスに向かい、木炭で下書きをしている。
 周りにあるのは色付けされた海と空のスケッチ。その中に一枚、海を眺めている男の姿を描いたものが紛れている。

 同じころ、書斎では義広が眼鏡をかけて本を読んでいた。
 ドアをノックする音がする。
 美紀が盆に紅茶を載せて入ってきた。
 机に紅茶と菓子を置き、部屋を出ていこうとする美紀に義広が声をかける。
「美紀」
「はい」
「晴菜の見合いの件なのだが」
「はい」
「色々考えてみた」
「私は無理にさせる必要はないと思います。本人にその気がないのですから」
「でも、こんなにいい話はもう二度とないだろう。何とかして見合いをさせたい」
「そうかもしれませんけど」
「それで私はどうすればいいのだろうか。怒ってみせるのは逆効果かな?」
「怒るって、どのように?」
「こう、机をバンと叩いて、晴菜! お前のために言っているんだ、断ることは許さん!」
 義広はわざとらしく芝居をしてみせる。
「駄目です。余計に反発するだけです」
「そうだろうなあ。それじゃ、泣きはどうだ? 八王子の祖父が病気で余命いくばくもない。せめて死ぬ前にひ孫の顔を見たいと言っている、なんてのは」
「嘘はいけません。特にそんなすぐにばれる嘘なんて。晴菜が本当のことを知ったらどうすると思います?」
「なら、言うことを聞かないなら、お前の好きにさせておくわけにはいかない。アトリエは使用禁止、小遣いもなし、車も取り上げると脅す」
「親子の関係を止めるつもりなら、それでもいいでしょうね」
 美紀が冷めた目で言う。
「それは冗談として、逆に凄く高価な時計を買ってやるとか。あるいはバッグとか服。あるいは宝石の類。そんなものを買ってやるからお見合いをしてくれと」
「駄目です。物につられるような子でないのはあなたも知っているでしょ? それより、晴菜ときちんとお話をすべきだと思います。好きな人がいると言ったけれど、それはどんな人か訊いてみるとか、お見合いの相手はどこのどんな人かを伝えるとか、その方が大事なことでしょ?」
「うむ。そうだな」
 義広は紅茶を一口飲み、読みかけの本をぱたんと閉じる。

 男と晴菜は並んで座り、夕方の海を眺めている。
「ぐうたら社員。今日は真面目に仕事してきたの?」
「俺はいつだって真面目にやってる。毎日全力を出して頑張ってるよ」
「そう? ま、詳しくは訊かない」
「詳しく話したくもない。好きに想像するのは勝手だろうけれど」
「そうね。働いている姿なんて想像できない。ところで、次はいつ仕事をサボるつもり?」
「は?」
「どこかドライブに行こうよ」
「この前、休んでリフレッシュしたばかりだから、しばらくは休むつもりはないな」
「じゃ、会社が休みの日は?」
「今度の土曜日なら空いているけど」
「決まり。じゃ、あなたの名前を教えて。電話番号も」
「何で。ドライブと関係があるの?」
「大あり。急な用事が入って行けなくなるとか、何か連絡を取らなきゃならない事があるかもしれない」
「十分なり二十分なり待って来なければ、相手に急な用事でもできたんだなって思って帰るだけさ」
「冷たい人」
 晴菜は寂しそうに視線を落とす。
 黙り込む二人。
 晴菜は座ったまま男に近づき、寄り添うようにして頭を男の肩に乗せる。
「もしあなたがどこか遠くに行くことになったとしても、私には何も言ってくれないんでしょうね」
 男は膝を抱えてただ波を見ている。
「私は待ちぼうけ。どこの誰ともわからないし、会えもしない人のために毎日ここに来る」
 男は右の人差し指で左の掌に何か文字を書き始める。
「毎日毎日待って、海を眺めている」
「そんなことはない。もし会えなくなるのなら、必ず言っていく。黙っていなくなったりはしない」
 晴菜は男にもたれたまま、その腕を抱く。その時、男が掌に文字を書いているのに気が付く。
「何しているの?」
 男は慌てたように両手を離す。
「何でもない、癖みたいなもの」
「面白い癖。文字を書いていたの?」
「そう。気分が高まって緊張したりすると、無意識のうちに掌に文字を書いてる」
「なんて書いていたの?」
「ん?」
 男は黙り込む。
「ねえねえ」
 晴菜は男の腕を強く抱いて答えをせがむ。
「L、O、V、E」
「エル、オー、ブイ、イー? ラブ?」
「口に出して言うなよ」
「何でラブなの?」
「知らない」
「ねえ、ねえ、教えて」
「別にたいした意味はないよ。昔好きだった女がよく自分の掌に書いていた。何となく自分にも移っちまった」
「へええ。相手の女の人って、どんな人だったの?」
「ちょっと待て。俺に色々訊くな。話したくないことは今まで言ったことも含めて、たくさんある。話したいと思ったことは自分から話す。その他のことは話さない。わかった?」
「OK、分かった。じゃ、ひとつだけ。今度の土曜日は私に付き合ってくれるんでしょ?」
「いいですよ、お嬢様」
「車は私のでいい?」
「もちろん。私は車を持っておりません。あなた様の愛車にご一緒させていただきます」
 男はお姫様に仕える家来のように冗談めかして言った。
 晴菜は笑顔を見せて立ち上がる。
「さーて、どこに行こうかな」
 晴菜は暗くなりつつある海を見ながら背伸びをした。

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