クレイジー&クレイジー

柚木ハルカ

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11.空腹と尊厳

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「……、…………っ」

 カチャリと音が聞こえてきて、反射的に顔を上げていた。ドアが開いて、またワゴンが見えて、神崎が部屋に入ってくる。

「弘樹さん、食事ですよ」

 4回目となる飯を、今までと同じようにフローリングに置かれた。部屋に広がる、美味そうな肉の匂い。今回はハンバーグだ。食べやすいように切られた状態で、綺麗に盛り付けられている。それから卵焼きに、ドレッシングをかけられた野菜サラダ、ホカホカ白米にコーンスープ。

 美味そうだと認識した途端、ぐううぅぅと腹から盛大な音が鳴った。それに対して、神崎は笑いも蔑みもせず、椅子に座ってじっと見てくるだけ。それこそがこちらの行動を制限するのに有効な手段だと、理解しているのだ。

 腹と背中がくっつくのではないかというくらい空腹で、とにかく食いたくて食いたくて仕方無い。こんな美味そうな匂いなのだから、口に入れたらすごく美味いだろう。

 ――俺は絶対に屈しない、死なんて望まない。1日前に、そう誓ったばかりだ。生きていればきっと、突破口が見つかるはず。だから生きるためにも、どれほど屈辱であろうと今は食べなければならない。

 でも、身体は動いてくれなかった。人間としてのプライドが、ベッドを降りて膝を付いて、飯のところまで這いずることを許さない。自分を視線だけで制してくる男の傍に、どうしても寄れない。

 死にそうなほどの空腹と、人としての尊厳がせめぎ合い、訳がわからなくなってくる。

「っ……ぅ、……ひ、…………うぅ」

 わからなくて、とうとう涙が出てしまった。

 置かれた飯を見ないようにうずくまって顔を伏せて、声を出さないようにして、けれどボロボロ泣く。もうここに来て、どれくらい泣いただろう。とっくに枯れてもいいのに、まだ流れていく。

 昨日から泣きすぎて、瞼が腫れて痛い。だがそれ以上に、空腹の気持ち悪さとか手足の痺れで、身体がおかしくなっていた。

 このまま泣き続ければ、水分も枯れていずれ死ぬのだろうか? それならいっそ、今すぐ死ねれば、こんなに苦しくないのに。

 もし、今すぐ死ねるのなら――。

「――弘樹さん」
「っ……」

 名前を、呼ばれた。

 どうして? 今まで飯を出している間は、名を呼ぶことも、声を掛けることすらしてこなかったのに。どうして今回は……?

 そう疑問に感じて、のろのろ顔を上げてしまったのがいけなかった。

「ここまで、おいで」

 柔らかな声色と、優しげな微笑。驚いて目を見開いたからか、神崎はさらに笑みを深くした。

「大丈夫、おかしなことはありませんよ。ここには俺しかいない。他の誰も、貴方を見ていない。だから、ここまでおいで?」

 柔らかな声が心臓を鷲掴んできて、脳を、身体を支配していくようだった。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を向けても、ぐうぅぅぅと鳴る腹を聞いても、彼はただ微笑んで座っているだけ。

 おかしくない、これは、おかしくないのか……。そう思ったら、ぼんやりと神崎を見つめたまま、ベッドを降りていた。布団が足に絡まって、べしゃりと床に転んでしまって。それでも彼は笑わない。

「……おいで、弘樹さん」

 もう一度優しく促されて、コクリと頷く。たった2mほどの距離を、膝を付いたままゆっくり進む。そうして美味そうな飯の前に座ると、もう一度ぐううぅと腹が鳴った。

 食べても良いのだろうか。食べても、神崎は笑わない?

 不安に思って顔を上げると、彼はやはり慈しむような優しい目で、見下ろしてきている。

「……た、食べても、……良いか……?」
「どうぞ」

 促されたら、もうダメだった。すぐにでも食べたくて、おずおずと床に置かれている飯に、顔を近づけていく。良い匂いだ、すごく。食欲をそそる匂い。
 鼻が付かないように注意しながら口を開けて、ハンバーグを1切れ咥えた。落とさないように口の中に入れて、1噛みすれば、ぶわりと咥内に広がる肉の味と、上に掛かっているソースの味。

 あまりにも美味くてもぐもぐ口を動かしていたら、髪を梳くように頭を撫でられた。

「良い子ですね」

 涙が止まらなかった。こんな醜態を晒している俺を、受け入れてくれる優しさが嬉しくて。それと同時に、なんて絶妙な落とし方だと絶望さえ感じた。

 もし昨日のように、無様な姿を嘲笑われていたら、食べることは出来無かった。死にたくない、生きたい……そう思いながらもプライドを捨てきれずに反抗して、本当に餓死していたかもしれない。
 だが2回目、3回目、4回目と持ってきてくれる時間をだんだん早くしてくれて、しかも限界が来ていた時に、優しく声を掛けて促してきた。まるで悪魔の囁きのような誘惑である。

 初めは1口ずつゆっくり噛み締めていたけど、だんだん慣れてくるととにかく空腹を満たしたくなり、顔中が汚れるのも気にせずガツガツ食べた。神崎はずっと見ている。そして時々、気まぐれで頭を撫でてくる。まるでペットだ。ほとんど人間扱いされていない。

 きっともう二度と、神崎の前では箸を持てないのだろう。ここにいる限りずっと、床に顔を付けるようにして飯を食わなくちゃならない。そしてそれを受け入れたのは、紛れもなく俺自身だ。しかも飯が、滅茶苦茶美味い。こんなに美味いなら、食い方くらいなんだって良いと思えてしまう。

 絶妙だ、この男の施してくる行動は。
 緩やかに、優しく……しかし確実に、落とされていく。
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