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しおりを挟むアステラが医療魔術師になったのは、父がきっかけだった。
父は石吐き症という珍しい魔病にかかったが、当時の医療魔術では治せなかった。だからアステラは、医療魔術師になり、ひとりでも多くの魔病に苦しむ人を救いたいと決意した。そして、医学院時代から石吐き症の研究に情熱を燃やしていた。
研究しかなかったアステラが出会ったエミリーは、まるで太陽のような存在だった。
どんなに疲れていても、気が滅入ることがあっても、彼女のお人好しそうな声と無邪気な笑顔に触れたら、たちまちそれが吹き飛び、心に温かな灯がともった。
「なぁ、新人のエミリーちゃん見たか?」
「え、誰?」
「おいおい、聞いてないのか? 特異医療院に入ってきた女子だよ。伯爵令嬢らしいんだけど、めっちゃ可愛い感じの子で。性格良くて、おまけにとんでもなく優秀らしい。彼氏とかいんのかな」
「さすがにいるだろ」
「まぁやっぱ、オリビアさんが俺の一番だけどな」
「それは分かる」
エミリーが特異医療院に入ってから、すぐに彼女は話題になっていた。アステラは人付き合いが得意ではなく、会話をするような相手もいなかったが、あちこちで噂話を耳にした。
食堂にはオリビアの姿もあり、複数の男性に囲まれながら楽しそうに話をしている。オリビアはよくも悪くも目立っている。
アステラは食堂で、いつものようにひとり、噂話に耳を傾けながら昼食を摂っていた。そこに――彼女が現れる。
「この席、座ってもいいですか?」
顔を上げた一瞬、彼女の周りに花吹雪が舞っているように見えた。春の陽だまりに包まれているような優しい雰囲気に目を奪われる。
「どうぞ」
短く答えると、エミリーはアステラの向かいで座り、昼食のトレイをテーブルに置いた。
「は、はじめまして。エミリー・ブラウンと申します。今年から特異医療院で働かせていただきます」
「ご丁寧にどうも」
彼女は緊張が入り交じった、どこかぎこちない笑顔を浮かべている。
「グエン先生って、いつも同じものを食べてますよね。飽きないんですか?」
「このメニューが一番、手間がかからないので」
アステラにとって食事は、栄養補給以上の意味がない。だから毎日、パンと魔法で加工した栄養ペーストだけですませていた。
「効率重視なんですね。勉強になります」
「真似しない方がいいですよ。健康的ではないので」
エミリーは、トマトのパスタをフォークでくるくると回しながら微笑んだ。彼女のトレイには、パスタ以外にも、彩り豊かなサラダにスープ、そしてデザートのケーキがふたつ並んでいる。
「ブラウン先生はよく食べますね」
すると彼女はかあっと顔を赤くし、慌てた様子で「よく食べる女性は……嫌いですか?」と聞いてきた。
エミリーは目を泳がせながら言い訳を続ける。
「こ、この仕事って、忙しいじゃないですか。その分、エネルギーを使うので……食べないと頭も働かないっていうか……」
「いいと思います」
「……よかった」
そう言ってほっと安堵する彼女を、アステラはじっと見つめた。
「私、実は以前、グエン先生に助けてもらったことがあって。もう忘れてると思うんですけど――」
「医療魔術師になれたんですね」
「え……」
「八年ぶりですね」
「覚えてて、くださったんですか……?」
「はい」
そう言って目を潤ませながら微笑む彼女が、アステラが知る少女の面影があった。
「ずっと、先生と同じ仕事をするのが夢でした。ようやく、叶ったんです」
エミリーは鞄をごそごそと漁り始め、中から論文を引っ張り出し、テーブルに広げた。
「先生の論文は全部読んでいて。石吐き症に関する最新の論文、画期的でした。きっとこれから、沢山の人の救いになると思います。私の命を救ってくれたみたいに」
「その後、調子はどうですか?」
「おかげさまで、バッチリです!」
忘れるはずがない。
エミリーは、アステラの父の命を奪った石吐き症を克服した――ひとり目の患者。八年前、大勢の医師に見捨てられた彼女を、最後に担当したのがアステラだった。命を救われた彼女は、医療魔術師になりたいと本気で語っていた。
「こうして先生と一緒に働けて……本当に、本当に幸せです。これからよろしくお願いします……!」
そう言って目を細めるエミリーは、太陽のように眩しく見えた。
自分は誰かに尊敬されるような立派な人間ではないけれど、憧れをそのまま映したようなキラキラした彼女の瞳から、目を逸らせなかった。
アステラはスプーンを置き、トレイを手に立ち上がる。そして、エミリーを見下ろしてそっと言った。
「植物園、いつ行きますか」
「……!」
ずっと、忘れていなかった。
もし、エミリーが医療魔術師になれたら、植物園デートしてほしいとお願いされたことも。あのころのエミリーは子どもだったが、今はもう、立派な大人だ。
そして、アステラ自身も密かに、成長した彼女が自分の前に現れる日を待ちわびていたことは内緒だ。
◇◇◇
その日を境に、遠慮がちなエミリーは時々だったが、アステラに話しかけてくるようになった。患者の治療方針の相談から、好きな食べ物、日常のたわいもない内容まで。
本来なら、平民出身の自分にとって伯爵家の令嬢は縁のない相手だ。それにアステラは、医療魔術師として腕を磨くことには熱心でも、他人への興味はあまりなかった。だが、エミリーは特別だった。
アステラは口下手なので、エミリーの話に相槌を打つだけだったが、ころころと表情を変えながら楽しそうに話すエミリーに、自然と癒されていた。
ただ義務のように淡々とこなすだけだった毎日を、彼女は優しく彩ってくれた。誰かはも気に留めてもらえなかった自分が、彼女と話すとふっと地に足がついたような、現実に引き戻されたような感覚になる。
「付き合ってくれませんか」
そう口にしたのは、アステラだった。
貴族位はないし、自分がエミリーにふさわしいと人間とは思えなかった。それでも、他の男よりも大切にする自信だけはあったし、誰にも渡したくなかった。数ある選択肢の中で、アステラを選んでほしかった。
食堂で初めて話しかけられてから、半年が経っていた。
場所は、アステラの家。ソファに並んで座っていたときのことだ。
「どこにですか?」
エミリーは、きょとんと首を傾げる。
「僕の恋人になってください」
「へっ……え、えっ……?」
エミリーはびっくりし、あたふたと戸惑ったあと、ぼろぼろと涙を零しながら声を震わせた。
「本当に? 私でいいんですか……?」
「本当です」
「私、こんなとこまで追いかけてきて重いかなって……気持ち悪いって思われてたらどうしようって、ずっと不安で……っ。話しかけて迷惑じゃないかなって怖かったんです」
不安を吐き出して泣くエミリーが、あまりにもいじらしくて愛おしくて、堪えていなければ口から心臓が飛び出してしまいそうだった。
「迷惑と思ったことなんて、一度もありません」
「よかったぁ」
へにゃりと笑う彼女の頬に、思わず手を伸ばす。手を添え、親指の腹で涙を拭った。壊れ物を使うかのように、きわめて優しく、慎重な手つきで。
アステラは少しだけ身体を傾け、顔を近づけて囁く。
「返事を、聞かせてくれますか」
「もちろん、喜んで。私を先生の恋人にしてください」
そう言って目を閉じるエミリー。ふたりは、どちらからともなく唇を重ねた。
唇を離したあと、うっとりとした表情で、「先生」と呼ぶエミリー。その柔らかな唇を、そっと指で撫でながら囁きかける。
「名前で呼んでください」
「はい。あ、アス……テラ、さん」
視線をあちこちに彷徨わせ、恥ずかしそうに名前を口にするエミリーがかわいくて、嗜虐心に駆られる。
「もう一度」
「え、でも……は、恥ずかしいです……」
それでも彼女は、熱を帯びたまなざしでこちらをまっすぐ見つめて、血色の良い唇で紡いだ。
「アステラさん、好き、大好きです。八年前から、ずっと」
「僕もです。大切にします」
しかし――
そんなふたりの幸せな記憶は、エミリーからはすっかり抜け落ちてしまった。
今のエミリーは、アステラに関連する全ての記憶――つまり、石吐き症になったことも、医療魔術師を目指したきっかけも、ふたりが重ねてきた何気ない日々も、残っていない。
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