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一宿一飯の恩③
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かすかに聞こえた衣擦れの音に意識が浮上する。ここはどこだろう。ソファの上?何でこんなところで…。あ、そうか、昨日家に帰ったと思ったら…。
「…起きてたのか?いや、起こしたのか。」
「…あ、あぁいえ!おは、おはよう、ございます。」
「…あぁ。」
隣の部屋から現れた犬の顔を見て、一気に頭が覚醒して体を跳ね起こす。そうだ、私は昨日この人の家に転がり込んだんだった。目覚ましなんかもセットしないまま寝てしまっていた。下手をすれば郡司さんが仕事に行く時も寝過ごす可能性があったのか。さすがにそれはいただけない。気がついてよかった…。
「んじゃ、俺はもう行くけど…。」
「え、嘘!朝ごはんは?」
「俺は朝食べない。…あぁ冷蔵庫の物、好きに使っていいぞ。大したもん入ってないと思うけど。」
「えぇ…。あぁうん、そうする、けど…。」
「…何だよ、何か気になるか?」
「朝ごはん食べたほうがいいよ、一日の最初だっていうのに。警察官って肉体労働でしょ。」
「警察って一口に言っても、そういう部署ばっかじゃないし…、長年朝食べる習慣ないんだよ。」
「…そう。」
「…それじゃ、昨日も言ったけどそっちの部屋には入らないように。」
「もちろん。行ってらっしゃい。」
「…あぁ。」
洗面所で身だしなみを整えていたと思ったら、早々に玄関に向かっていく郡司さんに驚きを隠せない。一日のスタートに朝食が欠かせない私としては、何も口にしないまま仕事に向かうのは論外だ。それに郡司さんは警察官だというではないか。体が資本、肉体労働のイメージだけど…。本人は特に気にしていないのか、長年の習慣だからとそのまま出勤してしまった。私だったら耐えられないだろうな。
何となく壁に掛けられた時計を確認すると、普段自分が仕事に行く時間よりも早い。警察の勤務状況と分からないし、もしかしたら勤務地から少し離れているのかもしれないけど、郡司さんの様子からして普段から大きく変わった行動をしているようには見えなかった。人様の家で特に何をするでもないし、郡司さんからお許しも出ていることだし、朝ごはんを準備させてもらおうかな。
「お疲れ様っした…。」
「おーお疲れ、今日は穏やかでよかったな。」
「緊急通報かと思って出たら、カメの獣人のばあちゃんの日常会話に1時間付き合わされる羽目になった俺を見てそう言ってるんだったら、性格ひん曲がってますよ。」
「なーんだよ、平和でいいじゃないか。年寄りは大事にしろよ。」
「それには同意しますけど…はぁ。」
やっと一日の勤務が終わった。肩を落としつつ自分のデスク周りを片付け始めた俺を見て、勤務が重なっていた狐の獣人の先輩がからからと笑う。もともと釣り目でどこか人をからかって楽しんでいそうな雰囲気のある人だけど、今まさに目を細めて口の端を釣り上げて「面白いです」と言わんばかりの表情をしている。この人にはいくら抗議しようが反抗しようが、のらりくらりとかわされてしまう。嫌いなわけではないのだが、ちょっと苦手だ。
「いいじゃないか、たいそう感謝されてたみたいだし。」
「ここはそういう場所じゃないですから。」
「まぁそう言うなって。ばあさん、話し相手いなくって寂しいんじゃないの?その寂しさから自ら…なんてことになったら、寝覚めも悪いじゃないの。」
「…嫌なこと想像させないでほしいんですが。」
「そういう事件も多いからなぁ。老いも若いも世の中になじめないってのは命取り…いったぁ!?」
「もー稲荷、あんたまた郡司君にちょっかいかけて…。仕事終わってるんだから、早く帰してやんなさいよ。」
「丸尾先輩。」
「いったいなぁ!丸尾、お前そんな極厚のバインダーで叩くなんて、人の頭何だと思ってんの?」
これは長くなるかも、と予感がしてきたところに、稲荷先輩の後ろから近づいてくる人影。何の迷いもなく抱えていた書類の束で稲荷先輩の頭をぶっ叩く。バシンというか、ドンというか、ボスンというか…。とにかく、重量を感じずにはいられない低音を響かせて稲荷先輩は机に沈んだ。恨めしそうに睨みつける稲荷先輩の視線も丸尾先輩は何のその。この先輩は狸の獣人の女性警官だ。少し丸みのある垂れ目と小柄な体格のせいで若く見られがちだが、稲荷先輩と同期とのことで、稲荷先輩の扱いもお手の物だ。配属されてすぐはたいそうお世話になったもんだ。主に稲荷先輩の対応で。
「まったく…。こんなに優秀な頭がどうにかなっちゃったら、どう責任取ってくれんの。」
「本当に優秀なんだったら、後輩いじめることに使わないで世間のためになるように使ってちょうだいな。さ、待たせたね郡司君。お疲れさま、早く帰ってゆっくり休んでね。」
「あ、はい。お先です。」
「えー行っちゃうの、郡司…ぐえっ。」
「優秀な人は私の手伝いしてくださーい。」
「…うぅ。」
ズドンと机に重みのあるものが置かれたような音が背後から聞こえる気がするが、これ以上捕まるわけにもいかないので無視をして更衣室へと向かう。すでに外は暗くなってしまっているような時間帯だが、あの丸尾先輩の抱えていた紙の束の量を考えると、いくら優秀な稲荷先輩でもそれなりの時間拘束されることになるだろう。そんな優秀な稲荷先輩は、本来であれば面倒ごとになりそうなことに巻き込まれる前に回避するところだが…。ま、本人も満更ではないようだし、放っておくのが吉。少なくない時間を一緒に過ごした俺なりの判断を信じて、さっさと帰路についた。
「…起きてたのか?いや、起こしたのか。」
「…あ、あぁいえ!おは、おはよう、ございます。」
「…あぁ。」
隣の部屋から現れた犬の顔を見て、一気に頭が覚醒して体を跳ね起こす。そうだ、私は昨日この人の家に転がり込んだんだった。目覚ましなんかもセットしないまま寝てしまっていた。下手をすれば郡司さんが仕事に行く時も寝過ごす可能性があったのか。さすがにそれはいただけない。気がついてよかった…。
「んじゃ、俺はもう行くけど…。」
「え、嘘!朝ごはんは?」
「俺は朝食べない。…あぁ冷蔵庫の物、好きに使っていいぞ。大したもん入ってないと思うけど。」
「えぇ…。あぁうん、そうする、けど…。」
「…何だよ、何か気になるか?」
「朝ごはん食べたほうがいいよ、一日の最初だっていうのに。警察官って肉体労働でしょ。」
「警察って一口に言っても、そういう部署ばっかじゃないし…、長年朝食べる習慣ないんだよ。」
「…そう。」
「…それじゃ、昨日も言ったけどそっちの部屋には入らないように。」
「もちろん。行ってらっしゃい。」
「…あぁ。」
洗面所で身だしなみを整えていたと思ったら、早々に玄関に向かっていく郡司さんに驚きを隠せない。一日のスタートに朝食が欠かせない私としては、何も口にしないまま仕事に向かうのは論外だ。それに郡司さんは警察官だというではないか。体が資本、肉体労働のイメージだけど…。本人は特に気にしていないのか、長年の習慣だからとそのまま出勤してしまった。私だったら耐えられないだろうな。
何となく壁に掛けられた時計を確認すると、普段自分が仕事に行く時間よりも早い。警察の勤務状況と分からないし、もしかしたら勤務地から少し離れているのかもしれないけど、郡司さんの様子からして普段から大きく変わった行動をしているようには見えなかった。人様の家で特に何をするでもないし、郡司さんからお許しも出ていることだし、朝ごはんを準備させてもらおうかな。
「お疲れ様っした…。」
「おーお疲れ、今日は穏やかでよかったな。」
「緊急通報かと思って出たら、カメの獣人のばあちゃんの日常会話に1時間付き合わされる羽目になった俺を見てそう言ってるんだったら、性格ひん曲がってますよ。」
「なーんだよ、平和でいいじゃないか。年寄りは大事にしろよ。」
「それには同意しますけど…はぁ。」
やっと一日の勤務が終わった。肩を落としつつ自分のデスク周りを片付け始めた俺を見て、勤務が重なっていた狐の獣人の先輩がからからと笑う。もともと釣り目でどこか人をからかって楽しんでいそうな雰囲気のある人だけど、今まさに目を細めて口の端を釣り上げて「面白いです」と言わんばかりの表情をしている。この人にはいくら抗議しようが反抗しようが、のらりくらりとかわされてしまう。嫌いなわけではないのだが、ちょっと苦手だ。
「いいじゃないか、たいそう感謝されてたみたいだし。」
「ここはそういう場所じゃないですから。」
「まぁそう言うなって。ばあさん、話し相手いなくって寂しいんじゃないの?その寂しさから自ら…なんてことになったら、寝覚めも悪いじゃないの。」
「…嫌なこと想像させないでほしいんですが。」
「そういう事件も多いからなぁ。老いも若いも世の中になじめないってのは命取り…いったぁ!?」
「もー稲荷、あんたまた郡司君にちょっかいかけて…。仕事終わってるんだから、早く帰してやんなさいよ。」
「丸尾先輩。」
「いったいなぁ!丸尾、お前そんな極厚のバインダーで叩くなんて、人の頭何だと思ってんの?」
これは長くなるかも、と予感がしてきたところに、稲荷先輩の後ろから近づいてくる人影。何の迷いもなく抱えていた書類の束で稲荷先輩の頭をぶっ叩く。バシンというか、ドンというか、ボスンというか…。とにかく、重量を感じずにはいられない低音を響かせて稲荷先輩は机に沈んだ。恨めしそうに睨みつける稲荷先輩の視線も丸尾先輩は何のその。この先輩は狸の獣人の女性警官だ。少し丸みのある垂れ目と小柄な体格のせいで若く見られがちだが、稲荷先輩と同期とのことで、稲荷先輩の扱いもお手の物だ。配属されてすぐはたいそうお世話になったもんだ。主に稲荷先輩の対応で。
「まったく…。こんなに優秀な頭がどうにかなっちゃったら、どう責任取ってくれんの。」
「本当に優秀なんだったら、後輩いじめることに使わないで世間のためになるように使ってちょうだいな。さ、待たせたね郡司君。お疲れさま、早く帰ってゆっくり休んでね。」
「あ、はい。お先です。」
「えー行っちゃうの、郡司…ぐえっ。」
「優秀な人は私の手伝いしてくださーい。」
「…うぅ。」
ズドンと机に重みのあるものが置かれたような音が背後から聞こえる気がするが、これ以上捕まるわけにもいかないので無視をして更衣室へと向かう。すでに外は暗くなってしまっているような時間帯だが、あの丸尾先輩の抱えていた紙の束の量を考えると、いくら優秀な稲荷先輩でもそれなりの時間拘束されることになるだろう。そんな優秀な稲荷先輩は、本来であれば面倒ごとになりそうなことに巻き込まれる前に回避するところだが…。ま、本人も満更ではないようだし、放っておくのが吉。少なくない時間を一緒に過ごした俺なりの判断を信じて、さっさと帰路についた。
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