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努力家クラリネット
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「おはよう」
静かな教室にひとつ、声が響いた。
「少し肌寒いね」
何に語りかけているのだろう。声の主…、深緑のジャージを羽織った少年はカーテンを開ける。ジャージの寸法は彼の体には少し合っておらず、やや大きめであった。
カーテンを開けると、窓に淡い光が降ってきた。少年の焦茶色の髪がきらめく。そして同じく淡い焦茶色の瞳も輝いていた。少年はしばらく太陽を眺めたあと、沢山並べられた椅子のひとつに腰掛けた。どうやら彼は吹奏楽部らしい。少年の座る椅子の前には真っ黒な譜面台と楽譜が置いてあった。椅子の隣には黒い鞄のような何かがあった。少年はその何かに視線を落とした。少年は美しくそれに微笑んだ。
「おまたせ」
やっとわかった。少年が話しかけていたのは、この鞄に、その中に入っていたものなのだと。
少年は鞄を開け、その中に入った小さな箱を取り出し、膝に置いた。少年がその箱を開けると、中から黒い楽器のようなものが顔を出した。それは銀色の、ボタンのようなものがたくさん付いているものだった。少年は慣れた手つきでそれを組み立てた。これは楽器であった。主に高音域を担当する、華々しい楽器…。
クラリネットだ。木管楽器に分類される楽器で、漆黒のボディに沢山のキィがついており、その楽器からは丸みを帯びた、優しい音がする。その音を出すには沢山の努力と時間が必要であるが、この少年はいったいどのような音を出すのだろうか。
少年は箱の中から薄い板のようなものを取り出した。リードと呼ばれるものだ。木管楽器はこのリードを振動させて音を鳴らす。少年はリードを少しばかり口にくわえ、その後マウスピースと呼ばれる所にリードを当て、リガチャーで固定した。そして息を入れた。マウスピースだけだが、柔らかい音がする。
しばしマウスピースで音出しをした後、楽器の本体にマウスピースを装着させた。
息を入れる。少年が楽器全体で音を鳴らした瞬間、柔らかな空気が辺りを包み込んだ。少年の丸みを帯びた華奢で、優しく、澄みきった音が教室全体に響く。少年はこの域にたどり着くまで、どのくらいの努力と時間を要したのだろう。ただ、少年は満足いかないような顔をしていた。
「今日はうまくいかない日だね」
と、楽器に苦笑いをする。
「昨日より全然下手だ」
「ごめんね、うまく吹いてあげられなくて」
そう言う少年は少し悲しそうだった。
「だから今日は少し下手でも許して欲しいな…」
楽器を思う優しい少年は楽器に向かって小さく微笑んだ。
楽器は幸せそうだった。
奏者に大切にされる楽器は、大切にされるだけいい音が鳴るようになる。
それは、このクラリネットも例外ではない。
少年は楽器を愛する心を持っていた。そして並外れた努力の結晶も持っていた。
一音一音に忠実に。それはまるで音と対話しているかのようだった。
少年の音楽の才は他の者とは比べ物にならない。そして努力をするという才能も…
「天才」
そんな漢字二文字で自分という存在を表して欲しくなかった少年は、必死に努力した。
楽器のことで泣いた日もあった。
どうして自分は上手に吹くことができないのだろう、と。
そんな少年をそばでずっと見守っていたのがクラリネットだった。
漆黒だが、温かみのある木で作られた楽器は、いつも少年を励ましてくれた。どんなに挫折をしても、少年に楽器への愛があったように、クラリネットにも少年を深く思う気持ちがあった。少年とクラリネットには信頼関係があったのだ。
少年は吹奏楽部内でも数少ない楽器の上手な人として部員たちから尊敬されている。己の才に溺れず、努力という方法を見つけ出し、極めた結果がこの少年なのだ。
少年はまた、新たな音を響かせた。
それは、さっきよりももっとずっと美しい音色だった。
楽器と心がより深く通じたのだ。
少年は笑顔だった。
「ありがとう」
その一言が少年と、楽器を繋ぐ。
クラリネットは奏者の腕の中で嬉しそうに微笑んでいた。そして、銀色のキィをきらめかせ、奏者に言った。
「こちらこそありがとう」
少年と楽器は嬉しそうだった。
「おはよう」
「こんな早い時間から頑張ってるね、天才くん」
「おはよう、そうだね」
「でも僕は天才ではないよ」
「ただ今を楽しんでいるだけなんだ」
少年は己の努力を他人に見せつけたりはしない。
ただいつも平和そうに、他の部員と同じように会話をするのだ。
少年という幼い奏者は、部内でも輝いて見えた。彼はこれからも輝き続けるだろう。クラリネットと共に。
そしてこれからも、クラリネットを愛しクラリネットに愛される人間であり続ける。
少年はひとつ息をして、窓から見える外の景色を眺めた。
その瞳には沢山の愛と情熱が燃えていた。
その灯火はきっと、永遠に消えることはないだろう。
静かな教室にひとつ、声が響いた。
「少し肌寒いね」
何に語りかけているのだろう。声の主…、深緑のジャージを羽織った少年はカーテンを開ける。ジャージの寸法は彼の体には少し合っておらず、やや大きめであった。
カーテンを開けると、窓に淡い光が降ってきた。少年の焦茶色の髪がきらめく。そして同じく淡い焦茶色の瞳も輝いていた。少年はしばらく太陽を眺めたあと、沢山並べられた椅子のひとつに腰掛けた。どうやら彼は吹奏楽部らしい。少年の座る椅子の前には真っ黒な譜面台と楽譜が置いてあった。椅子の隣には黒い鞄のような何かがあった。少年はその何かに視線を落とした。少年は美しくそれに微笑んだ。
「おまたせ」
やっとわかった。少年が話しかけていたのは、この鞄に、その中に入っていたものなのだと。
少年は鞄を開け、その中に入った小さな箱を取り出し、膝に置いた。少年がその箱を開けると、中から黒い楽器のようなものが顔を出した。それは銀色の、ボタンのようなものがたくさん付いているものだった。少年は慣れた手つきでそれを組み立てた。これは楽器であった。主に高音域を担当する、華々しい楽器…。
クラリネットだ。木管楽器に分類される楽器で、漆黒のボディに沢山のキィがついており、その楽器からは丸みを帯びた、優しい音がする。その音を出すには沢山の努力と時間が必要であるが、この少年はいったいどのような音を出すのだろうか。
少年は箱の中から薄い板のようなものを取り出した。リードと呼ばれるものだ。木管楽器はこのリードを振動させて音を鳴らす。少年はリードを少しばかり口にくわえ、その後マウスピースと呼ばれる所にリードを当て、リガチャーで固定した。そして息を入れた。マウスピースだけだが、柔らかい音がする。
しばしマウスピースで音出しをした後、楽器の本体にマウスピースを装着させた。
息を入れる。少年が楽器全体で音を鳴らした瞬間、柔らかな空気が辺りを包み込んだ。少年の丸みを帯びた華奢で、優しく、澄みきった音が教室全体に響く。少年はこの域にたどり着くまで、どのくらいの努力と時間を要したのだろう。ただ、少年は満足いかないような顔をしていた。
「今日はうまくいかない日だね」
と、楽器に苦笑いをする。
「昨日より全然下手だ」
「ごめんね、うまく吹いてあげられなくて」
そう言う少年は少し悲しそうだった。
「だから今日は少し下手でも許して欲しいな…」
楽器を思う優しい少年は楽器に向かって小さく微笑んだ。
楽器は幸せそうだった。
奏者に大切にされる楽器は、大切にされるだけいい音が鳴るようになる。
それは、このクラリネットも例外ではない。
少年は楽器を愛する心を持っていた。そして並外れた努力の結晶も持っていた。
一音一音に忠実に。それはまるで音と対話しているかのようだった。
少年の音楽の才は他の者とは比べ物にならない。そして努力をするという才能も…
「天才」
そんな漢字二文字で自分という存在を表して欲しくなかった少年は、必死に努力した。
楽器のことで泣いた日もあった。
どうして自分は上手に吹くことができないのだろう、と。
そんな少年をそばでずっと見守っていたのがクラリネットだった。
漆黒だが、温かみのある木で作られた楽器は、いつも少年を励ましてくれた。どんなに挫折をしても、少年に楽器への愛があったように、クラリネットにも少年を深く思う気持ちがあった。少年とクラリネットには信頼関係があったのだ。
少年は吹奏楽部内でも数少ない楽器の上手な人として部員たちから尊敬されている。己の才に溺れず、努力という方法を見つけ出し、極めた結果がこの少年なのだ。
少年はまた、新たな音を響かせた。
それは、さっきよりももっとずっと美しい音色だった。
楽器と心がより深く通じたのだ。
少年は笑顔だった。
「ありがとう」
その一言が少年と、楽器を繋ぐ。
クラリネットは奏者の腕の中で嬉しそうに微笑んでいた。そして、銀色のキィをきらめかせ、奏者に言った。
「こちらこそありがとう」
少年と楽器は嬉しそうだった。
「おはよう」
「こんな早い時間から頑張ってるね、天才くん」
「おはよう、そうだね」
「でも僕は天才ではないよ」
「ただ今を楽しんでいるだけなんだ」
少年は己の努力を他人に見せつけたりはしない。
ただいつも平和そうに、他の部員と同じように会話をするのだ。
少年という幼い奏者は、部内でも輝いて見えた。彼はこれからも輝き続けるだろう。クラリネットと共に。
そしてこれからも、クラリネットを愛しクラリネットに愛される人間であり続ける。
少年はひとつ息をして、窓から見える外の景色を眺めた。
その瞳には沢山の愛と情熱が燃えていた。
その灯火はきっと、永遠に消えることはないだろう。
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