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第一部 罪人の涙
絶対王子 4
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「はい、報酬」
放課後、校舎脇のベンチ。追夢は購買で買ってきたパンを差し出した。緑色のそれは『まずパン』の愛称で生徒達から長いこと支持を得ている名物パン、『のりパン』である。生地からはまさに海苔といった磯臭さが漂い、しかも固い。中には海苔の佃煮がでろんと横たわり、表面にはあおさがトッピングされている。
咲坂に来たら、一度は食え。
食えば、海苔が恋しくなる。
本当か? 嫌いになるの間違いじゃないのか? と疑う追夢の前で、テラはためらいなく袋を開ける。大きくかぶりついた。
「…………」
「どう?」
やっと飲み込むと、敵意の籠もった目を向けてくる。
「のりをなめてる」
「そう思った」
そのまま残りを捨てようか迷っていたが、結局鞄にしまった。代わりに手提げ鞄からもはやおなじみの『カットのり 甘しょうゆ』――ではなく、『カットのり の~まる』を取り出す。一つつまんで口に放り込むと、うっとりと幸せそうに目を細めた。
なるほど、海苔が恋しくなるとはこういうことらしい。
「うまい?」
「最高」
「一個ちょうだい」
『カットのり の~まる』はその名の通りなんの味付けもされていなかったが、鼻にまでふわりと広がるような海苔の芳醇な香りとサクサクとした食感が相まって、海苔の良さを再確認するにはまさにうってつけだった。
「うま。……そうそう、ちなみになんだけど」
「ん?」
「その『まずパン』、シリーズものらしい」
「のりシリーズ?」
「それはないだろ」
「ふうん」
途端に興味をなくし、また『カットのり の~まる』を一口。さすがにこんなに食べていたら飽きるんじゃないかと思った。
そもそも、追夢が『まずパン』を奢ることになった事の発端は昼休みだ。
テラが海外の海苔会社のキャンペーンで手に入れたというチェス――キングは会社のイメージキャラクターだというニック――で遊んでいる時に、追夢が提案したのだ。負けた方が勝った方の言うことを聞こうと。
すなわち、追夢が勝ったらテラは月音に本気のバスケ勝負を挑むと。
海外には、季節によってスポーツを変えるという風習があると聞いて、それによる意外性を利用して改めて自分が強いということを再認識させようと考えたのだ。月音のアイデンティティはその強さにあると言ってもいい。それさえ後押しすれば、暫くの再感染対策はばっちりだった。
で、追夢は負けた。
予想外の相手の強さに呆然としたのも束の間、ならばと『まずパン』を餌にしてテラを釣った、というか釣られてくれたのだった。
もともと、テラには罰ゲームを実行する気などさらさらなかったから、そこまでしつこく食い下がられたら察するのも当然である。面倒くさがりながらも重い腰を上げてくれた友には、事情は説明できないが、ひたすら感謝しきりであった。
「じゃ、そろそろ帰るか。テラは?」
「もう少しここにいる。妹が来るから」
「分かった」
追夢は立ち上がり、じゃ、と手を振ろうとした。そうしなかったのは、視界の端にこちらへと向かってくる金髪が見えたからだ。
「あ」
テラも気付いて、呼んだ。
「ノア」
「あれ? テラだ。なんだ、友達だったの?」
金髪にヘアピンを留めたテラの兄は、どうやら追夢の方に用があるらしい。用件は大体予想できたので、こちらから切り出してやった。
「あの馬鹿なら、たぶん今頃は普通に動き回ってると思いますよ」
「あ、本当? いきなり休むからさ、嫌われたかと思って心配したよ。……ん? てことは、俺のメール全部既読無視?」
「やっぱり嫌われてるんじゃないですか」
「いや、ない」
やけにきっぱりと否定してくる。
「あの魔追くんにそんな根性を要求されることができるはずがない」
「ふーん……」
追夢は気のなさそうな返事をし、何故か手を差し出した。
にやりと上がる口角。
「お前、話分かるな」
「なに、魔追くん、家でもあんな感じなわけ? ま、そんなこったろうとは思ってたけどな」
がっちりと結ばれる手。ここに、魔追にとって最も危険な同盟が成立した。
「じゃあ、明日には戻ってくる?」
「だろうな。お楽しみの時間だ」
「わくわくだね」
「……」
テラはこの会話に割り込むべきかかなり迷った。その流れを変えたのもまた別の金髪だった。
「ルナ。――ルナ?」
女の子は何も答えず、俯き気味に走り寄ると、ぽすっ、とテラの腕の中に収まった。いつもの向日葵みたいな笑顔を浮かべていないどころか、鳩尾を狙ったかのような突進でもなかった。
「ルナ?」
ひとしきりしがみつき、やっと顔を上げたルナはほっとしたようにテラと目を合わせた。それでもまだどこか視線がさまよい、ぼんやりと放心しているように見える。それだけでも普段の様子とあまりにもかけ離れていて、急に距離が開いたような、他人にまで離れたような気がしてテラはたじろいだ。
「ルナ、どうしたの」
「……華くんがね」
華くん。ルナの友達だ。飼育係で星の好きな男の子。
「倒れちゃったの。それでね、夢を見たの」
「夢?」
テラが困惑すると、ルナはもどかしそうに唇をむずむずと動かした。ノアを見ると、ノアも困ったように首を傾げる。誰にも分かってもらえない。そう最初から分かってはいたが、心は受け付けたがらない。ただ傷ついていく。
ルナは自然とあの赤い瞳を探していた。
「ルナちゃん、だよね」
振り向き、ルナは目を見開く。
「その話、詳しく聞かせてよ」
「おねーさんは……?」
追夢は漆黒の髪を揺らし、赤い目をにっこりと細めた。
「神居宮魔追の妹。今度は誰に会ったのかな」
根拠なんてどこにもない。だが、ルナは確信した。この人なら分かってくれると。
「華くん」
「だけ?」
「知らないおねーさん」
首を横に振る。
「華くんは、おばあちゃんだって言ってた」
四人がいなくなると、彼女は校舎の陰から静かに出てきた。並んで歩いていく四つの背中を目で追いながら、茫然と呟く。鞄が手から滑り落ちた。
「まーくんが、休み……?」
しかも、追夢の言葉を信じるなら、少なくとも朝は“普通に動けなかった”らしい。
風邪だろうか。だとしたら、きっと自分にも関わりがあると思った。
追いかけたい。わたしも一緒に行きたい、と、言いたい。
でも、遠いのだ。
二人の間はとても遠くて、飛び越えようにも助走距離は短い。
おそらく、状況を苦しくしてしまったのは自分自身だった。だからこそ余計に身動きが取れない。引け目が心に迷いを生む。
そうこうしているうちに、もうこんなに谷間は広がってしまって。
全然そんなことはないのに、そう否定してくれるのに、まるで一人ぼっちで取り残されてしまったかのようだ。
何も変わらないと心のどこかで決めつけていた。
魔追だけでなく追夢までもがここには存在しなかった。
ぺたりと地面に座り込む。
ような、ではない。
わたしは一人ぼっちだ。
わたしに声を奪われて、わたしはただ己の荒い呼吸音だけを聞いた。
「母さん、母さん……」
月音はぼろぼろの母を抱きしめる。母もそれに応えようと腕を持ち上げ――小さなきらめきを赤目は見逃さなかった。
「そこだ……!」
「だああああああ!」
『擬装』を解除すると、そんごは幽体離脱のようにするりとソラから抜け出し、抱き合う母娘に突進した。そして、これまた実体がないかのようにするりとすり抜け――なかった。そんごと同じくらいの大きさの影が母の中から弾き飛ばされる。手にあったナイフが落ちて金属特有の高い音が鳴り、そのまま母は何事もなかったかのように娘に手を回した。
そんごは觔斗雲を出すと、正体を現したアリス本体を猛スピードで追う。ぐるぐると広間を旋回し、僅かな扉の隙間から外へ。広大な庭園に出ると、生け垣の迷路の中に入った。生け垣は今でも十分立派なのに、さらににょきにょきと伸びていっている。ふと足元を見たそんごはぎょっと目を剥いた。新たに芽生えている。背後から押し寄せるようにどっと噴き上げ、その奔流に飲み込まれた。
「ぶっ――!」
觔斗雲はあっさりと引き千切られて霧散する。そんご自身も大量の枝と蔦に絡みつかれて身動きが取れなくなった。だが、そんごの武器はこれで終わりではない。
懸命に首を回すと、向こう側にちらちらと緑と茶色以外の色彩が見えた。その方に向かって、吠える。
「伸びろ! 伸びて伸びて、捕まえろ!」
応えたのは金の棒、如意金箍棒だった。植物の壁をぶち壊し、突き破り、外でふらふらと様子を窺っていたアリスをそのまま刺し貫く。
縮め! と叫ぶと、金箍棒はアリスを中心にぐんぐん短くなっていった。そんごは体を丸め、バキバキと枝を折りながらついに脱出する。すぐにアリスをむんずと捕まえ、大声で追夢を呼んだ。
「追夢さん! やりました! 最後はどうしたらいいですかっ……うええ!?」
いきなり手の中でアリスがぶるりと震え、そんごは息を呑み食い入るように見つめた。
にやりと。
アリスの口角が不気味な三日月状にひん曲がる。
空が陰ったのはその時だった。
「なんっ……」
急いで振り向くと、そこには数体のこびとアリスの姿があった。ぴったりと固まり、こちらへ一直線に落ちてくる。アリス本体が身をよじってそんごの手を振りほどいた瞬間、足元の感覚が消失した。
「うさぎ穴っ!?」
気付いた時にはもう遅かった。
そんごは落ちていく。アリス達と一緒に深い深い穴の底へと引っ張られる。やっと抜け出した時、そんごは驚きに目を丸くした。そこには先程とよく似た生け垣があった。
「あれ……? こんな花あったっけ?」
見たこともないような美しい花だった。思わず手を伸ばした瞬間、一本の茨が生き物のようにしなって襲い掛かってきた。慌てて手を引っ込め、それから数歩下がって首を上向けた。
生け垣は緩くカーブしながら上へ上へと続いている。外周もどうやら湾曲しており、内部に巨大な建造物でも隠しているようだった。同じような夢をそんごは以前にも経験したことがあった。
眠り姫。
金箍棒を置くと、目を瞑り、不器用ながらも夢の主に近付いていく。心を鎮め、感覚を研ぎ澄まし、少しずつひも解くように感染者の魂に触れていく。
片眼鏡。アンティーク調の細工の凝ったモノクル。
感染したのは、夕方。
店番をしていて、最後の客を送り出した時。
たまたま店の前を走っていった少女から。
――七崎月音から、彼女の中で既に大きくなっていた子アリスの第一弾に侵入され。
野茨萌乃は、眠る。
父と母の帰りを待って。
誰が予想できたか。まだ他にも子アリスがいたことを。だが、そんごは気付いておくべきだった。あの道を通った番田奏良が、前もって調べておくべきだったのだ。
うたいましょう ユメのように
おどりましょう ユメのように
いやいや これはユメなのだ
いやいや ここがユメなのだ
なにをしても ユメだから
なにがあっても ユメだから
うたいましょう ユメだから
おどりましょう ユメだから
あなたのたのしい ワールドを
あなただけの ワールドを
すべてゆるされる ワールドを
じゆうのための ワールドを
つくって ワールド
きずいて ワールド
さかえて ワールド
まもって ワールド
この歌は鳴りやまない。脳内をがんがん揺さぶられ、吐き気を覚えてうずくまった。すぐそばで笑い声がする。戦わなければ。しかし、指には力が入らず、金箍棒はあまりにも重くて持ち上げられない。どうすれば。オレは、どうしたら。
ずごじゃ、とか、ずぐしゃ、といった感じの音がして、歌と声が途切れた。
「そんご! 顔を上げろ!」
おそるおそる従うと、そこには無残にひしゃげてばらばらになった子アリス達がいた。やがてぽんっと消滅するが、全体の数は一向に減らない。なのに、それは圧倒的なまでに理不尽な暴力の嵐だった。
魔追は剣と呼ぶには抵抗があり、しかし剣以外の何物でもないあの巨大な鈍器をそんごのすぐ隣で振り回していた。その動きは流麗でよどみない。一方で大量の破壊を周囲に撒き散らす。その対比の美しさに思わず見惚れていた。そして、畏怖した。あんなに大暴れしているのに、空間には、夢の主には一切傷をつけていない。どうしたらあの高みに達することができるのかと、そんなことは不可能だと知っているのに、考えざるをえなかった。
「このチビ猿が」
「痛っ、す、すいません」
もう片側にいた追夢にはたかれる。追夢はたいして集中もせず、一瞬で感染者の魂に踏み込むと、すぐさま次の行動に入った。
空間がぐにゃりと歪む。すると、生け垣の一部が左右に割れて、内部への道を作った。
「時間がない、叩き起こすぞ! 魔追、三分待て!」
返事はない。返事をするほどの余裕など魔追にはなかった。みしみしとその全身から異音が鳴っていることにそんごは遅まきながら気が付いた。それだけ無理をして、二人はそんごを助けに来てくれたのだ。
「行くぞ!」
「っ、はいっ!!」
觔斗雲を出す。追夢を乗せて生け垣の中に飛び込む。古城に入ると、そこの玉座で眠る王と王妃を見つけて、眠ったまま二人を引きずり出した。そして、古い塔を駆け上り、てっぺんにあったドアをぶち破り、そこに倒れていた感染者と父王を無理やりキスさせる。すぐさま解け出す魔法。目を覚ました親子は再会を喜び合った。
それを見届けることなく塔を飛び出すと、崩れていく生け垣を強引に突破し、二人は最初の場所に舞い戻った。
「魔追っ!」
「魔追さんっ!」
あれだけいたアリスはいなくなっていて、一体だけがふらふらと漂っていた。魔追は逃げようとする最後の一体を追い詰め、もうほとんど使い物にならない大剣を振り下ろす。ぺしゃりと叩き潰すと、ゆらりと振り向き、驚いたような顔をして二人を見つめ、それからお疲れとでもいうように片手をあげて笑おうとして。
ぐらりと。
赤い双眸が残像を引く。
悲鳴が上がったのはそれからすぐだった。
放課後、校舎脇のベンチ。追夢は購買で買ってきたパンを差し出した。緑色のそれは『まずパン』の愛称で生徒達から長いこと支持を得ている名物パン、『のりパン』である。生地からはまさに海苔といった磯臭さが漂い、しかも固い。中には海苔の佃煮がでろんと横たわり、表面にはあおさがトッピングされている。
咲坂に来たら、一度は食え。
食えば、海苔が恋しくなる。
本当か? 嫌いになるの間違いじゃないのか? と疑う追夢の前で、テラはためらいなく袋を開ける。大きくかぶりついた。
「…………」
「どう?」
やっと飲み込むと、敵意の籠もった目を向けてくる。
「のりをなめてる」
「そう思った」
そのまま残りを捨てようか迷っていたが、結局鞄にしまった。代わりに手提げ鞄からもはやおなじみの『カットのり 甘しょうゆ』――ではなく、『カットのり の~まる』を取り出す。一つつまんで口に放り込むと、うっとりと幸せそうに目を細めた。
なるほど、海苔が恋しくなるとはこういうことらしい。
「うまい?」
「最高」
「一個ちょうだい」
『カットのり の~まる』はその名の通りなんの味付けもされていなかったが、鼻にまでふわりと広がるような海苔の芳醇な香りとサクサクとした食感が相まって、海苔の良さを再確認するにはまさにうってつけだった。
「うま。……そうそう、ちなみになんだけど」
「ん?」
「その『まずパン』、シリーズものらしい」
「のりシリーズ?」
「それはないだろ」
「ふうん」
途端に興味をなくし、また『カットのり の~まる』を一口。さすがにこんなに食べていたら飽きるんじゃないかと思った。
そもそも、追夢が『まずパン』を奢ることになった事の発端は昼休みだ。
テラが海外の海苔会社のキャンペーンで手に入れたというチェス――キングは会社のイメージキャラクターだというニック――で遊んでいる時に、追夢が提案したのだ。負けた方が勝った方の言うことを聞こうと。
すなわち、追夢が勝ったらテラは月音に本気のバスケ勝負を挑むと。
海外には、季節によってスポーツを変えるという風習があると聞いて、それによる意外性を利用して改めて自分が強いということを再認識させようと考えたのだ。月音のアイデンティティはその強さにあると言ってもいい。それさえ後押しすれば、暫くの再感染対策はばっちりだった。
で、追夢は負けた。
予想外の相手の強さに呆然としたのも束の間、ならばと『まずパン』を餌にしてテラを釣った、というか釣られてくれたのだった。
もともと、テラには罰ゲームを実行する気などさらさらなかったから、そこまでしつこく食い下がられたら察するのも当然である。面倒くさがりながらも重い腰を上げてくれた友には、事情は説明できないが、ひたすら感謝しきりであった。
「じゃ、そろそろ帰るか。テラは?」
「もう少しここにいる。妹が来るから」
「分かった」
追夢は立ち上がり、じゃ、と手を振ろうとした。そうしなかったのは、視界の端にこちらへと向かってくる金髪が見えたからだ。
「あ」
テラも気付いて、呼んだ。
「ノア」
「あれ? テラだ。なんだ、友達だったの?」
金髪にヘアピンを留めたテラの兄は、どうやら追夢の方に用があるらしい。用件は大体予想できたので、こちらから切り出してやった。
「あの馬鹿なら、たぶん今頃は普通に動き回ってると思いますよ」
「あ、本当? いきなり休むからさ、嫌われたかと思って心配したよ。……ん? てことは、俺のメール全部既読無視?」
「やっぱり嫌われてるんじゃないですか」
「いや、ない」
やけにきっぱりと否定してくる。
「あの魔追くんにそんな根性を要求されることができるはずがない」
「ふーん……」
追夢は気のなさそうな返事をし、何故か手を差し出した。
にやりと上がる口角。
「お前、話分かるな」
「なに、魔追くん、家でもあんな感じなわけ? ま、そんなこったろうとは思ってたけどな」
がっちりと結ばれる手。ここに、魔追にとって最も危険な同盟が成立した。
「じゃあ、明日には戻ってくる?」
「だろうな。お楽しみの時間だ」
「わくわくだね」
「……」
テラはこの会話に割り込むべきかかなり迷った。その流れを変えたのもまた別の金髪だった。
「ルナ。――ルナ?」
女の子は何も答えず、俯き気味に走り寄ると、ぽすっ、とテラの腕の中に収まった。いつもの向日葵みたいな笑顔を浮かべていないどころか、鳩尾を狙ったかのような突進でもなかった。
「ルナ?」
ひとしきりしがみつき、やっと顔を上げたルナはほっとしたようにテラと目を合わせた。それでもまだどこか視線がさまよい、ぼんやりと放心しているように見える。それだけでも普段の様子とあまりにもかけ離れていて、急に距離が開いたような、他人にまで離れたような気がしてテラはたじろいだ。
「ルナ、どうしたの」
「……華くんがね」
華くん。ルナの友達だ。飼育係で星の好きな男の子。
「倒れちゃったの。それでね、夢を見たの」
「夢?」
テラが困惑すると、ルナはもどかしそうに唇をむずむずと動かした。ノアを見ると、ノアも困ったように首を傾げる。誰にも分かってもらえない。そう最初から分かってはいたが、心は受け付けたがらない。ただ傷ついていく。
ルナは自然とあの赤い瞳を探していた。
「ルナちゃん、だよね」
振り向き、ルナは目を見開く。
「その話、詳しく聞かせてよ」
「おねーさんは……?」
追夢は漆黒の髪を揺らし、赤い目をにっこりと細めた。
「神居宮魔追の妹。今度は誰に会ったのかな」
根拠なんてどこにもない。だが、ルナは確信した。この人なら分かってくれると。
「華くん」
「だけ?」
「知らないおねーさん」
首を横に振る。
「華くんは、おばあちゃんだって言ってた」
四人がいなくなると、彼女は校舎の陰から静かに出てきた。並んで歩いていく四つの背中を目で追いながら、茫然と呟く。鞄が手から滑り落ちた。
「まーくんが、休み……?」
しかも、追夢の言葉を信じるなら、少なくとも朝は“普通に動けなかった”らしい。
風邪だろうか。だとしたら、きっと自分にも関わりがあると思った。
追いかけたい。わたしも一緒に行きたい、と、言いたい。
でも、遠いのだ。
二人の間はとても遠くて、飛び越えようにも助走距離は短い。
おそらく、状況を苦しくしてしまったのは自分自身だった。だからこそ余計に身動きが取れない。引け目が心に迷いを生む。
そうこうしているうちに、もうこんなに谷間は広がってしまって。
全然そんなことはないのに、そう否定してくれるのに、まるで一人ぼっちで取り残されてしまったかのようだ。
何も変わらないと心のどこかで決めつけていた。
魔追だけでなく追夢までもがここには存在しなかった。
ぺたりと地面に座り込む。
ような、ではない。
わたしは一人ぼっちだ。
わたしに声を奪われて、わたしはただ己の荒い呼吸音だけを聞いた。
「母さん、母さん……」
月音はぼろぼろの母を抱きしめる。母もそれに応えようと腕を持ち上げ――小さなきらめきを赤目は見逃さなかった。
「そこだ……!」
「だああああああ!」
『擬装』を解除すると、そんごは幽体離脱のようにするりとソラから抜け出し、抱き合う母娘に突進した。そして、これまた実体がないかのようにするりとすり抜け――なかった。そんごと同じくらいの大きさの影が母の中から弾き飛ばされる。手にあったナイフが落ちて金属特有の高い音が鳴り、そのまま母は何事もなかったかのように娘に手を回した。
そんごは觔斗雲を出すと、正体を現したアリス本体を猛スピードで追う。ぐるぐると広間を旋回し、僅かな扉の隙間から外へ。広大な庭園に出ると、生け垣の迷路の中に入った。生け垣は今でも十分立派なのに、さらににょきにょきと伸びていっている。ふと足元を見たそんごはぎょっと目を剥いた。新たに芽生えている。背後から押し寄せるようにどっと噴き上げ、その奔流に飲み込まれた。
「ぶっ――!」
觔斗雲はあっさりと引き千切られて霧散する。そんご自身も大量の枝と蔦に絡みつかれて身動きが取れなくなった。だが、そんごの武器はこれで終わりではない。
懸命に首を回すと、向こう側にちらちらと緑と茶色以外の色彩が見えた。その方に向かって、吠える。
「伸びろ! 伸びて伸びて、捕まえろ!」
応えたのは金の棒、如意金箍棒だった。植物の壁をぶち壊し、突き破り、外でふらふらと様子を窺っていたアリスをそのまま刺し貫く。
縮め! と叫ぶと、金箍棒はアリスを中心にぐんぐん短くなっていった。そんごは体を丸め、バキバキと枝を折りながらついに脱出する。すぐにアリスをむんずと捕まえ、大声で追夢を呼んだ。
「追夢さん! やりました! 最後はどうしたらいいですかっ……うええ!?」
いきなり手の中でアリスがぶるりと震え、そんごは息を呑み食い入るように見つめた。
にやりと。
アリスの口角が不気味な三日月状にひん曲がる。
空が陰ったのはその時だった。
「なんっ……」
急いで振り向くと、そこには数体のこびとアリスの姿があった。ぴったりと固まり、こちらへ一直線に落ちてくる。アリス本体が身をよじってそんごの手を振りほどいた瞬間、足元の感覚が消失した。
「うさぎ穴っ!?」
気付いた時にはもう遅かった。
そんごは落ちていく。アリス達と一緒に深い深い穴の底へと引っ張られる。やっと抜け出した時、そんごは驚きに目を丸くした。そこには先程とよく似た生け垣があった。
「あれ……? こんな花あったっけ?」
見たこともないような美しい花だった。思わず手を伸ばした瞬間、一本の茨が生き物のようにしなって襲い掛かってきた。慌てて手を引っ込め、それから数歩下がって首を上向けた。
生け垣は緩くカーブしながら上へ上へと続いている。外周もどうやら湾曲しており、内部に巨大な建造物でも隠しているようだった。同じような夢をそんごは以前にも経験したことがあった。
眠り姫。
金箍棒を置くと、目を瞑り、不器用ながらも夢の主に近付いていく。心を鎮め、感覚を研ぎ澄まし、少しずつひも解くように感染者の魂に触れていく。
片眼鏡。アンティーク調の細工の凝ったモノクル。
感染したのは、夕方。
店番をしていて、最後の客を送り出した時。
たまたま店の前を走っていった少女から。
――七崎月音から、彼女の中で既に大きくなっていた子アリスの第一弾に侵入され。
野茨萌乃は、眠る。
父と母の帰りを待って。
誰が予想できたか。まだ他にも子アリスがいたことを。だが、そんごは気付いておくべきだった。あの道を通った番田奏良が、前もって調べておくべきだったのだ。
うたいましょう ユメのように
おどりましょう ユメのように
いやいや これはユメなのだ
いやいや ここがユメなのだ
なにをしても ユメだから
なにがあっても ユメだから
うたいましょう ユメだから
おどりましょう ユメだから
あなたのたのしい ワールドを
あなただけの ワールドを
すべてゆるされる ワールドを
じゆうのための ワールドを
つくって ワールド
きずいて ワールド
さかえて ワールド
まもって ワールド
この歌は鳴りやまない。脳内をがんがん揺さぶられ、吐き気を覚えてうずくまった。すぐそばで笑い声がする。戦わなければ。しかし、指には力が入らず、金箍棒はあまりにも重くて持ち上げられない。どうすれば。オレは、どうしたら。
ずごじゃ、とか、ずぐしゃ、といった感じの音がして、歌と声が途切れた。
「そんご! 顔を上げろ!」
おそるおそる従うと、そこには無残にひしゃげてばらばらになった子アリス達がいた。やがてぽんっと消滅するが、全体の数は一向に減らない。なのに、それは圧倒的なまでに理不尽な暴力の嵐だった。
魔追は剣と呼ぶには抵抗があり、しかし剣以外の何物でもないあの巨大な鈍器をそんごのすぐ隣で振り回していた。その動きは流麗でよどみない。一方で大量の破壊を周囲に撒き散らす。その対比の美しさに思わず見惚れていた。そして、畏怖した。あんなに大暴れしているのに、空間には、夢の主には一切傷をつけていない。どうしたらあの高みに達することができるのかと、そんなことは不可能だと知っているのに、考えざるをえなかった。
「このチビ猿が」
「痛っ、す、すいません」
もう片側にいた追夢にはたかれる。追夢はたいして集中もせず、一瞬で感染者の魂に踏み込むと、すぐさま次の行動に入った。
空間がぐにゃりと歪む。すると、生け垣の一部が左右に割れて、内部への道を作った。
「時間がない、叩き起こすぞ! 魔追、三分待て!」
返事はない。返事をするほどの余裕など魔追にはなかった。みしみしとその全身から異音が鳴っていることにそんごは遅まきながら気が付いた。それだけ無理をして、二人はそんごを助けに来てくれたのだ。
「行くぞ!」
「っ、はいっ!!」
觔斗雲を出す。追夢を乗せて生け垣の中に飛び込む。古城に入ると、そこの玉座で眠る王と王妃を見つけて、眠ったまま二人を引きずり出した。そして、古い塔を駆け上り、てっぺんにあったドアをぶち破り、そこに倒れていた感染者と父王を無理やりキスさせる。すぐさま解け出す魔法。目を覚ました親子は再会を喜び合った。
それを見届けることなく塔を飛び出すと、崩れていく生け垣を強引に突破し、二人は最初の場所に舞い戻った。
「魔追っ!」
「魔追さんっ!」
あれだけいたアリスはいなくなっていて、一体だけがふらふらと漂っていた。魔追は逃げようとする最後の一体を追い詰め、もうほとんど使い物にならない大剣を振り下ろす。ぺしゃりと叩き潰すと、ゆらりと振り向き、驚いたような顔をして二人を見つめ、それからお疲れとでもいうように片手をあげて笑おうとして。
ぐらりと。
赤い双眸が残像を引く。
悲鳴が上がったのはそれからすぐだった。
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