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第一部 罪人の涙
絶対王子 3
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父は単身赴任していてたいてい家にいなかったから、いつも月音は母と一緒にいた。幼稚園のお迎えはいつ来るのかと待ちきれなくて、教室の外に飛び出した。おてんばだった。今もそれはあまり変わっていないが、でもあの頃はとにかく母が好きで好きで仕方がなかった。
だから、父の代わりに自分が母を守るのだと張り切っていた。
守るために、強さを目指した。
「つくねちゃん、がんばれー!」
「こーへいなんか、まかしちゃえー!」
運動会で、休み時間の鬼ごっこで、組対抗ドッジボールで、月音は常に一番を目指した。男の子にだって負けなかった。たまに負けるとものすごく悔しくて、大泣きして帰った。
少し方法は違っていたが、それでも月音は小さな足で一歩一歩進んでいった。
年長の、あれは二月だっただろうか。
「ねえ、月音」
「なあに?」
「小学生になったら、習い事してみない?」
「しってるよ、みすずちゃんが言ってた。みすずちゃんはプールを行ってるんだよ」
「プールに、ね。そういえば、みすずちゃんは泳ぐのが上手だって言ってたね」
「あたしのほうがうまいもん!」
「うん。月音は一番頑張ってるもんね」
「ならいごとしたら、もっとはやくなるよ」
「習い事は泳ぐだけじゃないのよ。ほら、近くに“茶道教室”があるでしょ。こんな字」
「しってるもん!」
「えらいね。あれも習い事なのよ。いっぱいあるの」
「じゃあね、じゃあね」
母の気持ちなんて知らない月音は、満面の笑みを向けた。
「あたし、バスケやる! やってみたい!」
……その後、結局習い事をすることはなかった。月音が本格的にバスケを始めたのは中学からで、その頃には母との対立が始まっていた。
きっと、母は月音をその茶道教室に入れたかったのだろう。小学校からは女の子らしくしてほしかったに違いない。このまま猿みたいに育ったら、周りから避けられてしまうんじゃないかとか余計な心配もしたのかもしれない。
ただ、母は無理強いはしなかった。
そして、月音は当時の思い出を次第に忘れ、スポーツマンとしての強さを求めていく。誰にも負けない、最強のプレイヤーを目指して。
母とのすれ違いは日に日に目立っていった。
久し振りに目覚ましよりも先に目が覚めて、今日は余裕たっぷりに家を出た。なんだか頭がすごく冴えて居て、曇天なのにとてもすっきりした朝だった。足も軽い。まるでエンジンが付いているみたいにぐいぐい進む。自己ベストを大幅に更新できそうな気がした。
住宅街を抜け、車もまだまばらな大通りに沿っていく。途中で曲がって商店街に入り、そして激坂を一気に駆け上がれば、今日も彼女はいた。
「おはよう、深海さんっ」
「きゃっ、あ、月音くん、え?」
いきなり横に抱きあげると、辜露は目を白黒させながらもしっかりとしがみついてくれた。走る。走る。走る。犬の散歩中だったおばさんが驚いて立ち止まり、小さなテリアが狂ったように吠え出す。辜露が噴き出して、月音もそれにつられた。学校までの数百メートルに笑いがはじけた。
「――到着! はい、お姫様体験終了ー」
「ありがとう、王子さま!」
辜露を下ろすと、まずは時計を見た。――六時三十三分二十七秒。ちなみに昨日は今日より十五分くらい遅くに出て、二十分くらい後に着いている。
「よしっ、縮んだ」
「毎朝計ってるの?」
「だいたいだけどね。でも、最近はあんまり伸びてなかったんだ」
「へえ、よかったね!」
「うん! それにしても、深海さんはいつも褒めてくれるから、鼻の下が伸びちゃうよ」
「えー、どのくらい?」
「このぐらい」
実演してみせたら、また盛大に噴き出した。ハンカチを差し出すと、大丈夫と自分のを出して目元を拭った。
「もう、月音くんってば。あんまり笑わせないでよ」
「だって、深海さんが可愛いからさ。ついいじめたくなるんだよ」
ひどーい、と辜露が言って、また二人は笑い出す。
「それじゃあね。今日は早かったからまだ誰も来てないと思うんだけどさ、たまには真面目にやんないと怒られちゃうから」
「月音くんはいつでも真面目だよ」
「照れちゃうな」
ありがとうと手を振り、背を向ける。だが、走り出してすぐに待ってと声を掛けられた。
「待って、月音くん」
「どうしたの?」
覗き込むと、辜露は少し恥ずかしそうに目を逸らして、小さな声で言った。
「あの、辜露、でいいよ」
「え?」
「い、いつも深海さんって、なんか、言いにくくないのかなって」
暫し沈黙が包む。
堪えきれなくなって、もう一度口を開こうとした時だった。
「辜露」
「あっ……」
月音はにっこりと微笑んだ。
「て言うと、ぼく的にはうさぎさんを呼んでるみたいなんだけど、それでもいいかな」
「月音くんーっ!」
辜露はぐーで月音を叩きながら、いいよ、いいよ、と何度も頷いてくれた。
歩み寄るというのは、案外嬉しいものなんだなと月音は気付かされた。
部室を開けると、部活Tシャツと短パンに着替える。体育館でボールやコーンの準備をしていると、最初に来たのは例の二年の先輩だった。
「おはよう、月音」
「おはようございます、先輩」
一応元気よく返したが、月音はこの先輩がやっぱり一番苦手だ。とても真面目な人で、いつも率先して練習に取り組んでいて、尊敬はしている。だが、二人はポジションが同じだったから、今年の大会に出られなかったのだ。そのことに少なからず引け目を感じていたし、相手からも嫌われているだろうと確信しているのは月音だけではなかった。
二人は黙々と準備をする。だが、すぐに終わってしまい、ともにボールを突きながら長い長い無言が続いた。
普通だったら、何か会話でもするのだろう。でも、月音は先輩の趣味なんて知らないし、女の子らしいネタなんてさっぱりだ。唯一失敗しないバスケの話題は、ここで出していいものなのか分からない。
先程の辜露とのやり取りが脳裏によみがえって、月音は内心焦った。
「そういえばさっ」
「は、はいっ」
驚いて顔を上げると、先輩はボールを突くのをやめて、しきりに指を組み替えたり左右に揺れたりと、なんだか落ち着きがなかった。珍しい光景だったから、月音はますます目を丸くした。
「さっき、お姫様抱っこしながらそこの道を走ってたよね?」
「あ、はい」
「お友達?」
「そんなところです」
本人の許可なく友達と言っていいものか悩んでそう答えると、先輩は思わずといった風に笑みをこぼした。
「なにそれ。……いつもやってるの?」
「昨日と、今日だけです。一応タイム計ってるんで、その、協力してもらって」
「それでお姫様抱っこ? ふうん……で、タイムは?」
「上がりました。五分くらい」
「あー、普段知らないからなあ……でも、五分か。わりと大きいよね。――あと、すごいや」
「え?」
いきなりだったから、どう反応していいのか分からなくて、つい思ったままを口にしていた。
「先輩は、ぼくのこと嫌いじゃないんですか」
先輩が口をつぐむ。ああ、しまった、と思うが時間は戻らない。その代わり、一分一秒がもっと長くなって月音の心身をじりじりと削る。こういう時はどうすればと焦っていると、先輩はやけにゆっくり頷いた。
「うん。嫌いだった」
「え、過去形……?」
「だって、実際、月音はあたしよりうまいしさ。さっきみたいに隙間時間も全部バスケにあててる。今のままで勝てるわけがないって、認めるしかないよ」
「そんな、先輩だって練習頑張って……」
「それ以上は嫌味だよ」
しーっ、と人差し指を立てる。
自分はバスケも勉強もこなせると思っていた。実際、成績は良いし、高校でもレギュラーになれると信じ込んでいた。
あたしは妥協していた。それまでの自分がベストだと決めつけていた。
そのまま人差し指を月音に向けた。
「あたし、感謝してるんだからね。県のトップ選手と毎日練習できるなんて、すっごいラッキーなんだから。でも、油断するなよ?」
「え?」
「すぐに追い抜いて、春はあたしが出る」
月音はぽかんとして、目を二、三回しばたかせて、すぐに大きく頷いた。
「はい。負けません。かかって来てください」
「よし! じゃ、はい、パス!」
一つのボールを追いかけ、汗を飛ばし、熱気が両者を包み込む。ただの練習なのに、ものすごい気迫だった。先輩の言葉を肌で感じ、月音は武者震いする。つい叫んでいた。
「先輩! やっぱり、先輩はすごいです!」
「えっ、なに!?」
「尊敬してまーす!」
「はあああ!?」
先輩の顔が赤いのは、暑いからということにしておこう。
朝練が終わり、教室に駆け込む。疲れ切って四時間目まで仮眠をして過ごし、お昼は残ったエネルギーを総動員して食堂へ。スタミナ定食ご飯大盛りをおかわりすれば、もうすっかり元通りだった。
「おばちゃんっ、ごちそうさま」
「あいよー。明日はエクレアが入んだ。楽しみにしとっけえ」
「本当? やった、ありがとう!」
もうすっかり顔見知りのおばちゃんに手を振れば、今度は更衣室だ。体育館をかなり占拠しているバスケ部は、昼休みは他の部が使うということで手を打っている。だから、昼練はないが、行き先はやはり体育館だった。五、六限は体育なのだ。しかも、今日からバスケだ。もううずうずしてしまって、待てなかった。
「おーい、ちょっと混ぜてー」
男バレの中に飛び込み、男バレ部員よりたくさんの点を取ったところで鐘が鳴る。片づけを手伝ってから輪を抜けると、今度は見学していた女子の輪に囲まれた。
「月音くん、すごいねー!」
「何点取ったの?」
「ありがとう。んー、十五点ぐらいかな」
「えー、すごー!」
「結構、本気でいっちゃってさ。でも、練習の邪魔になっちゃったかも」
「そんなことないよ!」
「だらだらやるから痛い目に遭うんだよ。自業自得」
「そうそう。男子が悪い」
「みんなは練習だから、いつも通りやってただけだよ」
「月音くん、優しいー」
「もう、こんなんだから男子は……」
「ちょ、ストップストップ!」
輪の向こうでしょんぼりと肩を落として傷ついた顔をしている部員に気が付き、慌てて止める。すると、部員達は泣きそうな顔で月音に合掌していった。仏になったつもりはないのだが、小さく手を振っといた。
そのことでまた騒ぎ出す女子達に月音は顔が引きつる。女子ほど寄り集まってうるさいものはない。褒められたりおだてられたりするのは大歓迎だが、こういうところがやっぱり面倒くさい。辟易として、朝からの上機嫌が萎むのを感じた。
本鈴が鳴ってみんなが離れてくれると、心底ほっとした。それでも、ざわめきは収まらない。並んで先生の話を聞いていても、ちらちらと視線が刺さる。A組に来たハーフの人もいるんだから、もう少しそっちに興味を示してもいいじゃないかと口を尖らせた。
そう、多い。
多すぎる……?
なんだ、この期待の目……?
妙な違和感をひっさげたまま授業は始まる。五限はほぼ基礎練で終わった。六限のミニゲームの前に何かあったのかと女の子達に訊いたが、その時に限って視線が外れ、一様に首を振られてしまった。
それも、ゲームが始まればさほど気にならなくなった。大会の時はもっと大勢の観客がいたし、授業だから本気を出さないようにもしなければならない。意外にこれがきついのだ。もし、敵に経験者がいたら突っ走るかもなどと考えながら、ともあれ、月音は無事に最終戦を迎えた。
敵はA組のCチーム。二人は有名だから知っている。神居宮追夢と岩倉テラだ。追夢は確か帰宅部で、テラは弓道部だとか。だが、転校してくる前は海外にいたというから、弓に関してはおそらく初心者で、それまでの試合を見る限りバスケもちょっとしか動いてない。あとの一人も似たり寄ったりだ。
たった三分間のミニゲーム。しかも半面で、こちらの担当は月音の得意な攻撃。
これも本気を出さないようにだけして終わるんだろう。
ビーッ、と合図が鳴った。
「左、パスッ!」
ルールは単純だ。一チーム三人。攻撃側と守備側に分かれ、三分間でゴールを狙う。ボールを奪われて先生にパスされたり、三分で得点できなければ負けだ。
左サイドで攻防が続く。右サイドにいた追夢がそちらに気を取られだしたのに気付くと、月音は声を張り上げた。
「パス!」
追夢がつられて一歩踏み出してしまう。完全にがら空きになった右サイドを上がる味方に、月音はすかさずパスを送った。
そして、シュート――。
ばこん、と豪快な音が鳴った。
テラだった。
それをはっきりと視認する前に、月音は落ちていくボールめがけて動いていた。
今シュートをしたのは同じバスケ部の子だ。対応してみせた。適切なタイミング、ジャンプ。そして、弾かれたボールは追夢のもとに落ちた。
すぐに奪い返した月音は、少し遠いがシュートに入り、ゴール前に割り込むテラの動きを改めて確認した。ぞくりと背筋が震える。
間違いない。経験者だ。月音と同じく手を抜いていたのだ。
またもやブロックされた。女の子達の悲鳴が上がった。
それにしても、なんて跳躍だ。まるで、“壁”だ。
ボールを取り返しながら時間を見る。残り一分を切った。次ので決めねばならない。
激しいドリブルやフェイクを繰り広げる。こうして近くに立つと、テラはそこまで大きくなかった。月音とたいして変わらない。身長がものをいう世界でそれだけの実力があるのだという証拠に、月音はますます興奮した。
月音は跳んだ。テラも跳ぶ。その青い瞳には月音しか映っていない。ゴールへのラインを完全に塞ぎ、見下ろしてくる。
だが、月音もただ正面からいったって勝てるとは思っていなかった。
ボールを上ではなく、下に投げる。
月音のチームのバスケ部員が、素早くそのボールを拾った。それを確認するまでもなく、先に着地した月音は素早くテラとゴールの間に入り込んで、今度こそ本気で跳びあがった。味方のシュートしたボールはあともう少しの所で入らなかった。そのボールに手を伸ばす。背後からテラが壁となって迫る。リバウンドの基本は相手よりも前に位置することだ。そして、ボールを引き寄せる。引き寄せ、月音はまだ落ちない。叩き込む。ゴールの中心へ、一点を。
ダンクシュート。
決まった。
悲鳴が歓声へと変わった。
月音はあっという間に女子達に囲まれ、全方位からもみくちゃにされる。知らない子達にも月音くん、王子と言われ、抱きつかれる。というか、王子ってあるクラブの人達だけが呼んでいるんじゃなかったのか。それとも、ここにいる三クラスのほぼ全員がそのクラブのメンバーだったのか。その中には当然のようにバスケ部員もいて、月音の一番近くで月音をガードしようとしていた。もう何が何だかといった感じだった。
「きゃー! やっぱ王子強―い! かっこよすぎー!」
もうほとんど、きゃーがぎゃーと聞こえる。三回目のハグをしてきたA組の、確か駒井なんとかを受けとめると、優しく引き剥がしつつ言った。
「はい、そこまで。授業中だよ?」
「キャ、ごめんね、月音くん。つい~」
語尾にハートが付いていそうで怖い。
なんとか包囲網を脱し――後ろからわらわらついてきたが――、月音はテラに近付いた。
「きみ、すごいね、さっきの壁ブロック! ちょっとバスケ部来ない?」
「ごめん。弓道部、兼部できないから……」
申し訳なさそうな口調はとても落ち着いていて、タオルで汗を拭いていなければ、とてもあの壁と同一人物だとは思えない。
「それって、兼部できたらOKってこと?」
「私、スタミナないから」
「そんなの、すぐつくよ!」
テラは暫し考え込み、
「じゃあ、三年後にもう一回返事する」
「卒業してるわっ。あはは、ごめんごめん。でも、気が向いたら教えて?」
あからさまに面倒臭そうに頷くテラに、月音は思わず噴き出した。
「どうでもいいけど、お前ら本気出しすぎ」
「あ、すいません」
そこからはなぜか月音だけが先生にこき使われ、授業が終わると、テラは追夢と一緒にさっさと体育館を出て行ってしまった。月音は追いかけようとしたが、女子達に捕まってしまった。
「月音くん、なんか残念そうね」
「そんなにバスケ部入ってほしかった?」
「うーん」
別にそういう訳ではない。ただ、あの表裏の無さが妙に羨ましく思えたのかもしれない。
「月音くん、あたしは? あたしも入っていい?」
「マネージャーっているの? わたし頑張るよ」
「え、本当? レモンの蜂蜜漬け作ってくれる?」
「つくるつくるー!」
まあ、いっか、と月音はのんびりと体育館を出た。
結局、こうして囲まれるのも月音は好きだったみたいだから。
その日、テラを見つけることはできなかった。
今日も走る。薄闇の中を駆けていく。
たくさんのことがあった。そのどれもが眩しくて、いっぺんに起きてしまうなんて少し不安な気もした。
だけど、奇跡はこれで終わりじゃないという予感もあった。
「よっ、優しすぎの君」
「あ、七崎先輩! お疲れ様ですだっ!?」
頭を下げた拍子に、リュックサックの中身が奏良の後頭部を襲った。入っていたのはシューズやユニフォームで、しかもランドセルでもないのに、その謎っぷりにくすりとしてしまった。
「もしかして、狙ってる?」
「狙ってません! 太一だ、絶対あいつだ! 覚えてろー!」
地団駄を踏みながら中身を回収する。それが終わってから、月音は言った。
「途中までさ、一緒に帰ろうよ」
「え? オレ、道分かんないんですけど」
「何言ってんの、この辺に住んでんでしょ」
「違いますよ? 昨日、先輩と同じ駅で降りたじゃないですか」
「……は?」
変な顔をされて、知らず知らずのうちに足が止まる。
「え……じゃあ、昨日なんで」
「えっと、忘れ物をしまして」
ごそごそと取り出したのは、和菓子屋の紙袋だった。
「つ、じゃなくて、知り合いの先輩に頼まれてて、それすっかり忘れてたんです。急いで戻ったらもう閉まってて、すっごい怒られてしまいました……痛いっ!? なにするんですか!?」
「返せ! あの時の罪悪感を返せ!」
「す、すいませんっした! でも、あの時? あの時だけだったんですか!? いてっ!」
本当は違ったけど、あえて言わなかった。月音はぼこぼこと奏良を叩いた。
和菓子を届けるというので、結局、月音は一人で帰った。いつもの帰り道がなんだか寂しく感じられたが、同時に温かくもあった。
希望が、今ならある気がした。
家に着くと、あの人はテレビを見ていた。先にご飯は食べたみたいだ。ちらりと目をやって、おかえりと言ってくる。いつもなら返さない。
「ただいま」
あの人は目を丸くしてもう一度こちらを見てきた。腹が立ってきて、今度は大声で言ってやった。
「ただいまっ」
「静かにしなさい。近所迷惑でしょ」
「はあっ?」
「うるさい」
それから、付け足すようにおかえりと言った。月音はなんだか居心地が悪くて、鞄をどすんと置き、がちゃがちゃとご飯を用意する。こっそりと様子を窺うと、あの人はまたテレビに戻っていた。
「あのさっ」
「声」
「日曜日、練習試合あるから。弁当、いるの」
「お金ならこの前渡したでしょ」
「作ってよ」
今度こそ、動きが止まった。テレビの音だけが響く。
「……こんなまずいの食べられない、て言ったの誰よ」
「覚えてない」
「はあ? なによ、高校生になってまで。自分で作りなさい」
「いいじゃないか、別に弁当ぐらい! 食べないとプレーできないんだから!」
「あっそ」
「はああああっ!?」
日曜日。
テーブルの上には、大きな大きなおにぎりがぽつんと置いてあった。
だから、父の代わりに自分が母を守るのだと張り切っていた。
守るために、強さを目指した。
「つくねちゃん、がんばれー!」
「こーへいなんか、まかしちゃえー!」
運動会で、休み時間の鬼ごっこで、組対抗ドッジボールで、月音は常に一番を目指した。男の子にだって負けなかった。たまに負けるとものすごく悔しくて、大泣きして帰った。
少し方法は違っていたが、それでも月音は小さな足で一歩一歩進んでいった。
年長の、あれは二月だっただろうか。
「ねえ、月音」
「なあに?」
「小学生になったら、習い事してみない?」
「しってるよ、みすずちゃんが言ってた。みすずちゃんはプールを行ってるんだよ」
「プールに、ね。そういえば、みすずちゃんは泳ぐのが上手だって言ってたね」
「あたしのほうがうまいもん!」
「うん。月音は一番頑張ってるもんね」
「ならいごとしたら、もっとはやくなるよ」
「習い事は泳ぐだけじゃないのよ。ほら、近くに“茶道教室”があるでしょ。こんな字」
「しってるもん!」
「えらいね。あれも習い事なのよ。いっぱいあるの」
「じゃあね、じゃあね」
母の気持ちなんて知らない月音は、満面の笑みを向けた。
「あたし、バスケやる! やってみたい!」
……その後、結局習い事をすることはなかった。月音が本格的にバスケを始めたのは中学からで、その頃には母との対立が始まっていた。
きっと、母は月音をその茶道教室に入れたかったのだろう。小学校からは女の子らしくしてほしかったに違いない。このまま猿みたいに育ったら、周りから避けられてしまうんじゃないかとか余計な心配もしたのかもしれない。
ただ、母は無理強いはしなかった。
そして、月音は当時の思い出を次第に忘れ、スポーツマンとしての強さを求めていく。誰にも負けない、最強のプレイヤーを目指して。
母とのすれ違いは日に日に目立っていった。
久し振りに目覚ましよりも先に目が覚めて、今日は余裕たっぷりに家を出た。なんだか頭がすごく冴えて居て、曇天なのにとてもすっきりした朝だった。足も軽い。まるでエンジンが付いているみたいにぐいぐい進む。自己ベストを大幅に更新できそうな気がした。
住宅街を抜け、車もまだまばらな大通りに沿っていく。途中で曲がって商店街に入り、そして激坂を一気に駆け上がれば、今日も彼女はいた。
「おはよう、深海さんっ」
「きゃっ、あ、月音くん、え?」
いきなり横に抱きあげると、辜露は目を白黒させながらもしっかりとしがみついてくれた。走る。走る。走る。犬の散歩中だったおばさんが驚いて立ち止まり、小さなテリアが狂ったように吠え出す。辜露が噴き出して、月音もそれにつられた。学校までの数百メートルに笑いがはじけた。
「――到着! はい、お姫様体験終了ー」
「ありがとう、王子さま!」
辜露を下ろすと、まずは時計を見た。――六時三十三分二十七秒。ちなみに昨日は今日より十五分くらい遅くに出て、二十分くらい後に着いている。
「よしっ、縮んだ」
「毎朝計ってるの?」
「だいたいだけどね。でも、最近はあんまり伸びてなかったんだ」
「へえ、よかったね!」
「うん! それにしても、深海さんはいつも褒めてくれるから、鼻の下が伸びちゃうよ」
「えー、どのくらい?」
「このぐらい」
実演してみせたら、また盛大に噴き出した。ハンカチを差し出すと、大丈夫と自分のを出して目元を拭った。
「もう、月音くんってば。あんまり笑わせないでよ」
「だって、深海さんが可愛いからさ。ついいじめたくなるんだよ」
ひどーい、と辜露が言って、また二人は笑い出す。
「それじゃあね。今日は早かったからまだ誰も来てないと思うんだけどさ、たまには真面目にやんないと怒られちゃうから」
「月音くんはいつでも真面目だよ」
「照れちゃうな」
ありがとうと手を振り、背を向ける。だが、走り出してすぐに待ってと声を掛けられた。
「待って、月音くん」
「どうしたの?」
覗き込むと、辜露は少し恥ずかしそうに目を逸らして、小さな声で言った。
「あの、辜露、でいいよ」
「え?」
「い、いつも深海さんって、なんか、言いにくくないのかなって」
暫し沈黙が包む。
堪えきれなくなって、もう一度口を開こうとした時だった。
「辜露」
「あっ……」
月音はにっこりと微笑んだ。
「て言うと、ぼく的にはうさぎさんを呼んでるみたいなんだけど、それでもいいかな」
「月音くんーっ!」
辜露はぐーで月音を叩きながら、いいよ、いいよ、と何度も頷いてくれた。
歩み寄るというのは、案外嬉しいものなんだなと月音は気付かされた。
部室を開けると、部活Tシャツと短パンに着替える。体育館でボールやコーンの準備をしていると、最初に来たのは例の二年の先輩だった。
「おはよう、月音」
「おはようございます、先輩」
一応元気よく返したが、月音はこの先輩がやっぱり一番苦手だ。とても真面目な人で、いつも率先して練習に取り組んでいて、尊敬はしている。だが、二人はポジションが同じだったから、今年の大会に出られなかったのだ。そのことに少なからず引け目を感じていたし、相手からも嫌われているだろうと確信しているのは月音だけではなかった。
二人は黙々と準備をする。だが、すぐに終わってしまい、ともにボールを突きながら長い長い無言が続いた。
普通だったら、何か会話でもするのだろう。でも、月音は先輩の趣味なんて知らないし、女の子らしいネタなんてさっぱりだ。唯一失敗しないバスケの話題は、ここで出していいものなのか分からない。
先程の辜露とのやり取りが脳裏によみがえって、月音は内心焦った。
「そういえばさっ」
「は、はいっ」
驚いて顔を上げると、先輩はボールを突くのをやめて、しきりに指を組み替えたり左右に揺れたりと、なんだか落ち着きがなかった。珍しい光景だったから、月音はますます目を丸くした。
「さっき、お姫様抱っこしながらそこの道を走ってたよね?」
「あ、はい」
「お友達?」
「そんなところです」
本人の許可なく友達と言っていいものか悩んでそう答えると、先輩は思わずといった風に笑みをこぼした。
「なにそれ。……いつもやってるの?」
「昨日と、今日だけです。一応タイム計ってるんで、その、協力してもらって」
「それでお姫様抱っこ? ふうん……で、タイムは?」
「上がりました。五分くらい」
「あー、普段知らないからなあ……でも、五分か。わりと大きいよね。――あと、すごいや」
「え?」
いきなりだったから、どう反応していいのか分からなくて、つい思ったままを口にしていた。
「先輩は、ぼくのこと嫌いじゃないんですか」
先輩が口をつぐむ。ああ、しまった、と思うが時間は戻らない。その代わり、一分一秒がもっと長くなって月音の心身をじりじりと削る。こういう時はどうすればと焦っていると、先輩はやけにゆっくり頷いた。
「うん。嫌いだった」
「え、過去形……?」
「だって、実際、月音はあたしよりうまいしさ。さっきみたいに隙間時間も全部バスケにあててる。今のままで勝てるわけがないって、認めるしかないよ」
「そんな、先輩だって練習頑張って……」
「それ以上は嫌味だよ」
しーっ、と人差し指を立てる。
自分はバスケも勉強もこなせると思っていた。実際、成績は良いし、高校でもレギュラーになれると信じ込んでいた。
あたしは妥協していた。それまでの自分がベストだと決めつけていた。
そのまま人差し指を月音に向けた。
「あたし、感謝してるんだからね。県のトップ選手と毎日練習できるなんて、すっごいラッキーなんだから。でも、油断するなよ?」
「え?」
「すぐに追い抜いて、春はあたしが出る」
月音はぽかんとして、目を二、三回しばたかせて、すぐに大きく頷いた。
「はい。負けません。かかって来てください」
「よし! じゃ、はい、パス!」
一つのボールを追いかけ、汗を飛ばし、熱気が両者を包み込む。ただの練習なのに、ものすごい気迫だった。先輩の言葉を肌で感じ、月音は武者震いする。つい叫んでいた。
「先輩! やっぱり、先輩はすごいです!」
「えっ、なに!?」
「尊敬してまーす!」
「はあああ!?」
先輩の顔が赤いのは、暑いからということにしておこう。
朝練が終わり、教室に駆け込む。疲れ切って四時間目まで仮眠をして過ごし、お昼は残ったエネルギーを総動員して食堂へ。スタミナ定食ご飯大盛りをおかわりすれば、もうすっかり元通りだった。
「おばちゃんっ、ごちそうさま」
「あいよー。明日はエクレアが入んだ。楽しみにしとっけえ」
「本当? やった、ありがとう!」
もうすっかり顔見知りのおばちゃんに手を振れば、今度は更衣室だ。体育館をかなり占拠しているバスケ部は、昼休みは他の部が使うということで手を打っている。だから、昼練はないが、行き先はやはり体育館だった。五、六限は体育なのだ。しかも、今日からバスケだ。もううずうずしてしまって、待てなかった。
「おーい、ちょっと混ぜてー」
男バレの中に飛び込み、男バレ部員よりたくさんの点を取ったところで鐘が鳴る。片づけを手伝ってから輪を抜けると、今度は見学していた女子の輪に囲まれた。
「月音くん、すごいねー!」
「何点取ったの?」
「ありがとう。んー、十五点ぐらいかな」
「えー、すごー!」
「結構、本気でいっちゃってさ。でも、練習の邪魔になっちゃったかも」
「そんなことないよ!」
「だらだらやるから痛い目に遭うんだよ。自業自得」
「そうそう。男子が悪い」
「みんなは練習だから、いつも通りやってただけだよ」
「月音くん、優しいー」
「もう、こんなんだから男子は……」
「ちょ、ストップストップ!」
輪の向こうでしょんぼりと肩を落として傷ついた顔をしている部員に気が付き、慌てて止める。すると、部員達は泣きそうな顔で月音に合掌していった。仏になったつもりはないのだが、小さく手を振っといた。
そのことでまた騒ぎ出す女子達に月音は顔が引きつる。女子ほど寄り集まってうるさいものはない。褒められたりおだてられたりするのは大歓迎だが、こういうところがやっぱり面倒くさい。辟易として、朝からの上機嫌が萎むのを感じた。
本鈴が鳴ってみんなが離れてくれると、心底ほっとした。それでも、ざわめきは収まらない。並んで先生の話を聞いていても、ちらちらと視線が刺さる。A組に来たハーフの人もいるんだから、もう少しそっちに興味を示してもいいじゃないかと口を尖らせた。
そう、多い。
多すぎる……?
なんだ、この期待の目……?
妙な違和感をひっさげたまま授業は始まる。五限はほぼ基礎練で終わった。六限のミニゲームの前に何かあったのかと女の子達に訊いたが、その時に限って視線が外れ、一様に首を振られてしまった。
それも、ゲームが始まればさほど気にならなくなった。大会の時はもっと大勢の観客がいたし、授業だから本気を出さないようにもしなければならない。意外にこれがきついのだ。もし、敵に経験者がいたら突っ走るかもなどと考えながら、ともあれ、月音は無事に最終戦を迎えた。
敵はA組のCチーム。二人は有名だから知っている。神居宮追夢と岩倉テラだ。追夢は確か帰宅部で、テラは弓道部だとか。だが、転校してくる前は海外にいたというから、弓に関してはおそらく初心者で、それまでの試合を見る限りバスケもちょっとしか動いてない。あとの一人も似たり寄ったりだ。
たった三分間のミニゲーム。しかも半面で、こちらの担当は月音の得意な攻撃。
これも本気を出さないようにだけして終わるんだろう。
ビーッ、と合図が鳴った。
「左、パスッ!」
ルールは単純だ。一チーム三人。攻撃側と守備側に分かれ、三分間でゴールを狙う。ボールを奪われて先生にパスされたり、三分で得点できなければ負けだ。
左サイドで攻防が続く。右サイドにいた追夢がそちらに気を取られだしたのに気付くと、月音は声を張り上げた。
「パス!」
追夢がつられて一歩踏み出してしまう。完全にがら空きになった右サイドを上がる味方に、月音はすかさずパスを送った。
そして、シュート――。
ばこん、と豪快な音が鳴った。
テラだった。
それをはっきりと視認する前に、月音は落ちていくボールめがけて動いていた。
今シュートをしたのは同じバスケ部の子だ。対応してみせた。適切なタイミング、ジャンプ。そして、弾かれたボールは追夢のもとに落ちた。
すぐに奪い返した月音は、少し遠いがシュートに入り、ゴール前に割り込むテラの動きを改めて確認した。ぞくりと背筋が震える。
間違いない。経験者だ。月音と同じく手を抜いていたのだ。
またもやブロックされた。女の子達の悲鳴が上がった。
それにしても、なんて跳躍だ。まるで、“壁”だ。
ボールを取り返しながら時間を見る。残り一分を切った。次ので決めねばならない。
激しいドリブルやフェイクを繰り広げる。こうして近くに立つと、テラはそこまで大きくなかった。月音とたいして変わらない。身長がものをいう世界でそれだけの実力があるのだという証拠に、月音はますます興奮した。
月音は跳んだ。テラも跳ぶ。その青い瞳には月音しか映っていない。ゴールへのラインを完全に塞ぎ、見下ろしてくる。
だが、月音もただ正面からいったって勝てるとは思っていなかった。
ボールを上ではなく、下に投げる。
月音のチームのバスケ部員が、素早くそのボールを拾った。それを確認するまでもなく、先に着地した月音は素早くテラとゴールの間に入り込んで、今度こそ本気で跳びあがった。味方のシュートしたボールはあともう少しの所で入らなかった。そのボールに手を伸ばす。背後からテラが壁となって迫る。リバウンドの基本は相手よりも前に位置することだ。そして、ボールを引き寄せる。引き寄せ、月音はまだ落ちない。叩き込む。ゴールの中心へ、一点を。
ダンクシュート。
決まった。
悲鳴が歓声へと変わった。
月音はあっという間に女子達に囲まれ、全方位からもみくちゃにされる。知らない子達にも月音くん、王子と言われ、抱きつかれる。というか、王子ってあるクラブの人達だけが呼んでいるんじゃなかったのか。それとも、ここにいる三クラスのほぼ全員がそのクラブのメンバーだったのか。その中には当然のようにバスケ部員もいて、月音の一番近くで月音をガードしようとしていた。もう何が何だかといった感じだった。
「きゃー! やっぱ王子強―い! かっこよすぎー!」
もうほとんど、きゃーがぎゃーと聞こえる。三回目のハグをしてきたA組の、確か駒井なんとかを受けとめると、優しく引き剥がしつつ言った。
「はい、そこまで。授業中だよ?」
「キャ、ごめんね、月音くん。つい~」
語尾にハートが付いていそうで怖い。
なんとか包囲網を脱し――後ろからわらわらついてきたが――、月音はテラに近付いた。
「きみ、すごいね、さっきの壁ブロック! ちょっとバスケ部来ない?」
「ごめん。弓道部、兼部できないから……」
申し訳なさそうな口調はとても落ち着いていて、タオルで汗を拭いていなければ、とてもあの壁と同一人物だとは思えない。
「それって、兼部できたらOKってこと?」
「私、スタミナないから」
「そんなの、すぐつくよ!」
テラは暫し考え込み、
「じゃあ、三年後にもう一回返事する」
「卒業してるわっ。あはは、ごめんごめん。でも、気が向いたら教えて?」
あからさまに面倒臭そうに頷くテラに、月音は思わず噴き出した。
「どうでもいいけど、お前ら本気出しすぎ」
「あ、すいません」
そこからはなぜか月音だけが先生にこき使われ、授業が終わると、テラは追夢と一緒にさっさと体育館を出て行ってしまった。月音は追いかけようとしたが、女子達に捕まってしまった。
「月音くん、なんか残念そうね」
「そんなにバスケ部入ってほしかった?」
「うーん」
別にそういう訳ではない。ただ、あの表裏の無さが妙に羨ましく思えたのかもしれない。
「月音くん、あたしは? あたしも入っていい?」
「マネージャーっているの? わたし頑張るよ」
「え、本当? レモンの蜂蜜漬け作ってくれる?」
「つくるつくるー!」
まあ、いっか、と月音はのんびりと体育館を出た。
結局、こうして囲まれるのも月音は好きだったみたいだから。
その日、テラを見つけることはできなかった。
今日も走る。薄闇の中を駆けていく。
たくさんのことがあった。そのどれもが眩しくて、いっぺんに起きてしまうなんて少し不安な気もした。
だけど、奇跡はこれで終わりじゃないという予感もあった。
「よっ、優しすぎの君」
「あ、七崎先輩! お疲れ様ですだっ!?」
頭を下げた拍子に、リュックサックの中身が奏良の後頭部を襲った。入っていたのはシューズやユニフォームで、しかもランドセルでもないのに、その謎っぷりにくすりとしてしまった。
「もしかして、狙ってる?」
「狙ってません! 太一だ、絶対あいつだ! 覚えてろー!」
地団駄を踏みながら中身を回収する。それが終わってから、月音は言った。
「途中までさ、一緒に帰ろうよ」
「え? オレ、道分かんないんですけど」
「何言ってんの、この辺に住んでんでしょ」
「違いますよ? 昨日、先輩と同じ駅で降りたじゃないですか」
「……は?」
変な顔をされて、知らず知らずのうちに足が止まる。
「え……じゃあ、昨日なんで」
「えっと、忘れ物をしまして」
ごそごそと取り出したのは、和菓子屋の紙袋だった。
「つ、じゃなくて、知り合いの先輩に頼まれてて、それすっかり忘れてたんです。急いで戻ったらもう閉まってて、すっごい怒られてしまいました……痛いっ!? なにするんですか!?」
「返せ! あの時の罪悪感を返せ!」
「す、すいませんっした! でも、あの時? あの時だけだったんですか!? いてっ!」
本当は違ったけど、あえて言わなかった。月音はぼこぼこと奏良を叩いた。
和菓子を届けるというので、結局、月音は一人で帰った。いつもの帰り道がなんだか寂しく感じられたが、同時に温かくもあった。
希望が、今ならある気がした。
家に着くと、あの人はテレビを見ていた。先にご飯は食べたみたいだ。ちらりと目をやって、おかえりと言ってくる。いつもなら返さない。
「ただいま」
あの人は目を丸くしてもう一度こちらを見てきた。腹が立ってきて、今度は大声で言ってやった。
「ただいまっ」
「静かにしなさい。近所迷惑でしょ」
「はあっ?」
「うるさい」
それから、付け足すようにおかえりと言った。月音はなんだか居心地が悪くて、鞄をどすんと置き、がちゃがちゃとご飯を用意する。こっそりと様子を窺うと、あの人はまたテレビに戻っていた。
「あのさっ」
「声」
「日曜日、練習試合あるから。弁当、いるの」
「お金ならこの前渡したでしょ」
「作ってよ」
今度こそ、動きが止まった。テレビの音だけが響く。
「……こんなまずいの食べられない、て言ったの誰よ」
「覚えてない」
「はあ? なによ、高校生になってまで。自分で作りなさい」
「いいじゃないか、別に弁当ぐらい! 食べないとプレーできないんだから!」
「あっそ」
「はああああっ!?」
日曜日。
テーブルの上には、大きな大きなおにぎりがぽつんと置いてあった。
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