Dreamen

くり

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第一部 罪人の涙

白もしくは無 2

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 そこは白い世界に浮かぶ白い浮き島だった。そうと分かるのは、足裏に硬い感触が伝わってくるからだ。それもなかったら、きっとこの白い世界の真ん中にぽつりと浮かんでいると思ったに違いない。いや、真ん中かどうかも分からない。ここには目印となるような色彩が何一つ存在しないのだ。壁と床、天井の境目も、自分の足元の影さえない。この浮き島がどこまで続いているのかだって、分かったものではないのだ。たった一歩踏み出しただけで白い海へと真っ逆さまになることだってありうる。つまり、ノアはその場に立ち竦むしかなかった。
「………夢………?」
 気がついたら目の前に広がっていた景色に、ノアは息を呑んだ。
 ここは一体どこなのか。真っ先に浮かんだ答えを口にしながら、ノアはいやと内心首を振る。
 それにしては、妙にはっきりとしている。意識も正常そうだ。――だから、この場所の得体の知れなさに身動きが取れない。夢なら、ためらうことなく走り出せるのに、その確信が持てない。
 しかし、小さく漏らした声に、初めて白以外の反応があった。
「ノア……?」
 背後から同様に不安の滲んだ声。
「テラ、か?」
 おそるおそる振り向く。つい片足が動き、体の芯がひやりとしたが、カツンと硬い音が鳴っただけだった。テラも同じようにローファーを鳴らし、びくりと震えたのが見えた。思ったよりも近くにいたらしい。
 お互いをまじまじと見る。記憶にある通り、いや、記憶よりも鮮明な妹の姿だ。
 だが、魔追が言っていたばかりではないか。知っているものなら、夢に出てくる可能性があると。
 そうだ。俺達は魔追くんちでお茶を飲んでいたはずだ。ソファに座って、魔追くんが戻るのを待っていた。まさか、その間に眠ってしまったのだろうか。
「やっぱり、夢なのか?」「これ、夢?」
 しかし、相手まで同じことを言う夢は今まで一度も経験したことはないし、聞いたこともない。二人は黙り込み、どちらからともなく手を伸ばした。微かに触れた指先からは、まぎれもない熱が届いた。それを求めて、お互いに一歩ずつ近づいていく。まだ足元の感触が続くことに安心し、だんだんと踏み出す動きはスムーズなものとなった。やっと指を絡むように手をつなげると、それだけで少し落ち着いた気がした。
「なんか……すっげえリアルな夢だな」
「……うん」
 テラの頬は僅かにひきつっている。自分も似た表情をしている自信があった。それほどまでにこのぬくもりは、心音は、確かな重みを持っていて、非現実的な空間によって浮き彫りにされている。無の恐怖から逃れるためにはどうしても縋り付くしかなかったが、この重みゆえにノアとテラは不安と焦燥に怯えるしかないのだった。
 だが、現実であろうとなかろうと、これは夢であると結論付けるしかない気がする。いきなり自分たちは異世界だか異空間だかに飛ばされたのだと考えるほど阿保ではないし、もし現代の科学でこのような空間を作ったり見せたりするのが可能なのだとしても、なぜ自分達にそれが使用されるのか。親の勤めている会社は世界規模の巨大企業だから、開発に関与していたとしてもなんらおかしくはないが、それで一社員の子供が巻き込まれる理由にはならない。なるはずがない。
 なにより、自分たちは神居宮家にいたのだ。それが、どうしてそんな話につながるのだ。
 考えれば考えるほどに頭が混乱していく。ただ夢であることを証明しているだけなのに。
「なあ、テラ。なんで俺寝ちゃったんだっけ」
「知るか」
「じゃあ、寝る前ってなにしてた?」
「えっと……」
 一、二回大きくまばたきをし、斜め上を向く。
「追夢の家で、お茶を飲んでた」
「だよな。魔追くんが写真を片付けに行った後は?」
「時代劇みたいな女の人が戻ってきて、お茶を淹れ直してくれたくらい」
「だよ、なあ……」
 それで、その後にやっぱり眠ってしまったのか。
 再び沈黙が下りる。もう何かを考えるのも嫌になってきていた。
 そもそも、これが夢ならここにいるのは本物のテラじゃない。ただ自分の記憶の確認をしただけじゃないか。
 一体どうすればいいんだ。
 何が、どうなっているんだ。
 瞼をきつく閉じ、静かに息を漏らしながら祈った。それしかできなかった。夢ならさっさと覚めてくれ。
 ……沈黙を破ったのは、ノアでもテラでもなかった。

「だから、言ったじゃん。夢の中で魔追おにーさんに会ったよ、て」

 カラン……、と下駄の音。
 その直前に走ったのは、背筋をぞわりと撫であげられたかのような怖気だった。
 振り向こうとしたら、猛烈な目眩と吐き気が襲い掛かってきた。足がもつれる。足元の感覚がない。それよりもただひたすら気持ち悪かった。血液と内臓、脳味噌が落ちていくような浮遊感。何が起きている。どこが下なのか上なのか。テラは。ぬくもりを探して手に力を込めた。
「――ッ」
 浮上。
 そんな感じだった。
 ゆっくりと瞼をこじ開ける。
「大丈夫?」
 魔追が覗き込んでいた。ぎこちなく頷き返し、それから視線を下にやる。
 左手が、魔追の右手を関節が白くなるほどの力で握りしめていた。
「うわっ、悪い」
 慌てて離すと、魔追はさりげなく手をさすりながら首を振った。
「大丈夫。それより、随分うなされてたけど」
「ああ……、変な夢を見たんだ」
 力のない己の声に苦笑する。夢。そうか、あれはやっぱり夢だったんだ。安堵すると同時に、たかが夢にここまで惑わされて混乱していた自分があまりに滑稽に思えてきて、もう笑うしかなかった。夢。――夢。最初はルナから始まって、俺で、次はテラか?
 夢。
 その言葉が頭から離れない。
 一体、俺はどうしたんだろう。
「真っ白で……全部白なんだ。何も無かった」
 だが、やはり夢は軽い存在だったようだ。だから、ノアはあの空虚を欲するままに吐き出してしまえた。弱音を吐くように、あるいは笑い話のように。
「何もじゃないな。テラがいた。テラと、俺と、二人きりなんだ。アニメに出てきそうな白だけの世界に。……別に、そんなアニメも漫画も見てないんだけどなあ」
 独り言めいた自嘲に、魔追は真剣な表情で相槌を打ってくれる。嬉しいことのはずなのに、やめてくれと思った。たかが夢なのに、そんなにまともに考えるものでもないのに、そんなことされたらますます忘れられなくなってしまう。勝手に動き出しそうになった手を抑え込み、代わりにクッションを掴んだ。
「なあ、魔追くんはどう思う?」
「オレ? オレかあ……」
 魔追は困ったように、がしがしと頭を掻き。
「……うん。とりあえず謝る」
「誰に?」
「えっと、いろいろ。ノアにも、テラちゃんにも」
「はあ?」
 そういえば、テラは、ルナはどこに行ったのだろう。それよりも、はるかに大きな見落としをしていたことにノアは気が付いた。
「魔追くん……、いつの間に着替えたんだ?」
 魔追は水色のパジャマではなく、ワイシャツに指定のスラックスと青色のベストを合わせた、つまりいつもの制服姿になっていた。
「ああ、着替えた……。厳密には違うんだけど、まあ、状況に合わせて変えたことにはなるのかな」
「は? え、意味がよく分かんないんだけど」
「あー、じゃあ、今のなし。着替えてないよ。オレはまだパジャマのまま」
「いや、だから、」
 はっとして口をつぐむ。
 まさか、また、なのか。
 いや、“まだ”なのか。
「あとでテラちゃんと、ルナちゃんともよおく話し合って。……それでも夢だと思うなら、これは夢だ。もう思い出すこともないだろう。でも、そうじゃないなら――」
 何かを言い返そうとした。何も出なかった。本当は出たのかもしれないが、蝋燭の火を吹き消すように穏やかに意識が途切れ、今度こそノアは現実に帰ってきたのを感じた。
 なんだか暗いな。そう思いながら瞼を開けると、掃き出し窓から入るいっぱいの西日を背にしてルナが覗き込んでいた。
「おはよう、ノア兄」
「おは、よう……」
 半ば放心したまま、ルナを押しのけてソファから身を起こす。リビングとダイニングの境目辺りにかかっている時計を見ると、五時の鐘が鳴ってからだいぶ経過しているのが分かった。
「うわっ、どうして起こしてくれなかったんだよ?」
「起こしたよ! でも、ノア兄もテラ姉もぜんっぜん起きてくれないんだもん」
「テラも?」
 一気に覚醒する。振り向くと、隣に目をしょぼしょぼさせているテラがいた。二人でソファを占拠してしまったらしい。だが、そんなことは今はどうでもよかった。テラも寝ていた。ノアとほぼ同じ時間眠りについていた――。
「テラ……」
 つい話しかけるも、なんと言ったらいいのか分からなかった。しかし、テラの顔が微かにこわばったのを見て、ノアはなんとなく察してしまった。
 ありえないことが起きている。
 いや、それはもう起きてしまった時点でありえることなのだろう。
 時間もなにもかも忘れ、暫し呆然と見つめあう。
「……いつまで見つめあってんだ、気持ち悪い」
 追夢の冷めた声に、二人ははっとしてお互いに目を逸らした。
「い、いたんだ」
「魔追がまた休むっていうから、私が残るしかないだろ」
 追夢の手元には大量の和菓子の包みが散らばっている。それぞれ極小の鶴や亀になっており、手先の器用さに思わず感心した。
「魔追くん、また具合悪くなったのか?」
「というより、納戸で雪崩が発生して腰打ったらしい」
「腰打って休むって、おじいちゃんか」
 相変わらずの魔追ぶりに呆れる。ものすごくほっとした。
「そうか。いっつも魔追くんは何かに似てると思ってたけど、おじいちゃんっぽいのか」
「まあ、親戚のチビ達にはすごい懐かれてるな」
「あはは、分かる」
 笑い返す。だが、次第にノアはぐるぐると不安がまた胸に渦巻いていくのを感じた。
 魔追くん、どうしてここにいないんだ。今すぐここでさっきの夢の内容を否定してくれれば、こんなに悩むこともないのに。魔追くんが否定してくれたら、俺は安心してそれを受け入れるのに。

 どうしても、一度話し合えということなのか?

 結局、その日はもう魔追と会うこともなく、余った菓子を貰ってノア達三人は神居宮家を出たのだった。








 そして、楽しい楽しい週末がやって来た――はずだった。
 岩倉家のリビングには家族全員が集合しているのに、何の会話もないという奇妙な現象が起きていた。
「……」
 あれから二日経った。
 結局、あの後帰宅してすぐに夕飯となったため、話し合う機会を完全に逸してしまい、今日もいつもの癖で集まりながらも、誰も何も言わない。お互いに距離を取るノアとテラに、その間をうろうろして様子を窺うルナ。そんな子供たちを両親は不思議そうに見ていたが、何かをしようとは思わないらしい。ただ静かに、見守っていた。
「……ふわぁあ」
 スマホをダイニングテーブルに置く。ノートと教科書がいくつか先客として広がっていたが、そんなものはとうに終わってしまい、片付けるのも面倒で置きっぱなしになっていた。今そこにスマホが加わった。
「ノア兄、もうやんないの?」
「飽きた」
「宿題は?」
「とっくに」
「ふうん」
 反対側に座るルナはトーストをかじりながら相槌を打つ。今日は久々に寝坊をしていたので、今が朝食だ。
「じゃあ、ルナがやる」
「食べ終わってからな」
「おわっひゃ」
 ハムスターのように口いっぱいにトーストを詰め込むルナ。
「片付けてこい」
「ん」
「歯ブラシもな」
「ん」
 ぱたぱたと皿を持って走っていく。母親がわざわざ立ち上がって洗い物を引き受けてくれたので、あっという間に戻ってきた。
「はい!」
「はいはい」
 満面の笑みで差し出された手のひらの上にスマホを載せてやる。ルナはまた向かいの席に戻って、熱心にスマホを抱えだした。本当にもうやることを失ってしまって、ノアはどうしようかとぼんやり頬杖をついた。ルナは楽しそうにゲームを始める。昔懐かし、トテリスだ。日本に戻ってきてからアプリ版をたまたま見つけて、我が家でひそかなブームになっている。
「ルナ、歯磨き」
「うん」
 手が動いていないのを見とがめると、ルナは大きく頷いてシャカシャカ動かしだした。どうせ、もう少ししたらピースの速さに追われて磨かなくなるのだ。今のうちに言っておかないといつまでも終わらない。
 画面と睨めっこをするルナを眺めていると、隣の椅子を引いてテラが座った。
「……ノアは、やっぱり面倒見がいいよね」
「いきなりどうした」
 思ったよりもスムーズに始まった会話に、少々呆気にとられつつ返すと、テラはじっとノアを見つめ返してきた。
「優しいっていうか」
「ええ?」
「ほっとけないというか」
「……」
「でも、現実的でめんどくさい」
「ひでえ」
 くすりと小さく笑いあう。テラの言うことはもっともで、だからノアは逃げるように少しだけ俯いた。
 同じ夢を見て、夢の中で会話して、その記憶まで一致する。普通に考えれば、おかしくてありえない。それでも、日付が変わっても意識せずにいられないのは、自分の中に日本人的感覚があるからかもしれなかった。
 間接的な恐怖は、真綿で首を締めるようにじわじわと死へと追い詰めていくようだった。魂を野晒しで放置された気分だった。
 あれは偶然の出来事で、おかしかったのはノアとテラだけで、魔追はなにも関係していない――、そう考えた方がまだ納得できる。
 というより、そう信じたい。
 魔追がもし何かをノアに伝えたくて、知ってほしくて行動を起こしたのなら、ノアは少なくとも話を聞こうとはするだろう。だが、これは夢なのだ。憶測で立てた妄想を話しかけて、もし否定されたらと思うと、無性に怖いのだ。
 ……そうなったとしても、魔追はきっと、否、絶対に笑わないだろう。それどころか、ノアが気にしないようにふるまってくれるに違いない。――でも、そうなったら、もう今まで通りではいられない気がした。
「私は、月曜日、もう一度話してみようと思ってる」
「え」
「なんにせよ、起きたことは起きたことだから。何か分かるかを聞くだけ。先輩、普通に夢に詳しそうだったし。ノアはどうする?」
「どうって」
「代わりに聞いてこようか」
 下から覗き込んでくるテラの碧い目。試すように、じっと視線を逸らさせない。
 ノアは首を振った。
「いや。俺も行く」
 不思議と、それ以外の選択肢は出てこなかった。それだけは駄目だという意識があった。
「結局、テラはあれをどう思ってんの?」
 背もたれによりかかり、横目でちらりと様子を窺うと、テラはなんてことはないといった様子で軽く答えた。
「夢」
「……へえ」
「寝ている間に見たものなんだから」
 それもそうか、とノアは大きく笑った。
 そうだ。俺はただ考えすぎていたのかもしれない。こんなに仲のいい友達は初めてだったから、少し――いや、かなり舞い上がって、正常な思考ができていなかっただけなんだ。
 友達。
 どこか特別でくすぐったい響きに、ノアは小さくはにかんだ。テラもまた、追夢を思い出したのか微笑んでいる。
 そんな二人を、さっそくゲームオーバーになったルナがにっこりと見ていた。














  しかし、事態が動いたのは、またしても夢の中だった。

 その日の夜のことだった。



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