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くり

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第一部 罪人の涙

クピドとプシュケ 1

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 キューピッド、と言い直した方がいいだろうか。
 ギリシア神話ではエロス、ローマ神話ではクピド、またはアモルとも呼ばれるこの愛の神は、いたずら好きや時には残酷であるとも言われる。アフロディテに従う有翼の少年だ。
 だが実際はエロスの方が愛の神の先輩であり、神々の中で最も美しいというのだ。
 そんなクピドよりも美しい人物とは、はたして存在するのだろうか――。










 ようやくノアが追いついた時には、既に図書室のドアは外れていた。
 スライド式なのに、二枚とも。
「……え? まじで?」
 どうやら鍵がかかっていたようで、二枚がつながったまま図書室の中に倒れていた。それにしたって追夢を背負っていた状態であっさりと蹴破れるようなものではない。その前に下ろしていたとしても、少なくとも助走もなしに、こんな豪快に吹っ飛んだりはしない。思わぬ馬鹿力の発揮に、ノアは唖然として入り口につったってしまった。
「……いやいやいや」
 慌てて中に入る。中は予想していた通り、椅子は散乱し、机は遠くへ押しやられるという悲惨な状態だった。それらを回り込んで魔追の姿を探すと、魔追は本棚の間で一人の女子生徒を抱えていた。
「ごめん、ノア」
 振り返った魔追は、申し訳なさそうに女子生徒を示しながら体をずらす。
「ちょっと、交代」
「あー、はいはい。……寝てんの?」
「気絶させた」
 魔追はさっきまで使っていたハンカチをビニール袋にしまう。思わずまじまじと凝視すると、魔追は苦笑した。
「ほら、アリスっていうのは体の弱い人ほど感染しやすい傾向もあるからさ。医療関係者もうちは多いんだよね」
「へー……へえっ!?」
 ぎょっと二度見をすると、魔追はごまかすようにすっと目を逸らしながらそそくさと謎のハンカチをしまった。普通にチェックの柄だった。
 あまり触れてほしくなさそうなので、ノアも視線を逸らして代わりにぐったりとしている女子生徒を見る。眼鏡をかけて、シュシュで緩く結んだ髪を左肩から流している。ノアには見覚えがあった。
「美伽ちゃんが、感染したのか」
「あ、この人、美伽っていうんだ」
「知らないで襲ったの!?」
 本日二度目の凝視である。
「その言い方はいろいろ、その、誤解を招きやすいというか、やめて」
 げんなりしつつも呆れたような表情で返す魔追に、ノアはひそかにほっと息をついて軽口をたたいた。
「魔追くん、まじ勇者~」
「やめろよ!?」
 普段通りの反応にやや留飲を下げると、気を取り直して室内を見回した。散らかった室内は元々広くないのもあって、美伽を横にしてやれるだけのスペースがない。とりあえず、机の上に乗せておく。本棚に当たったところもあったようで、足下に何冊かの本が落ちて表紙が折れてしまっていた。
「魔追くん、まずは片付けだ。職員室は遠いから平気だろうけど、もう朝練の奴らが来る頃だし、美伽ちゃんが起きたら鬼になって殺しに来るかもしれないぞ」
「え、ええ?」
「美伽ちゃん、図書委員長だよ。しかも、かなりの本の虫。なんで知らないの? 俺よりこの学校長いよね?」
「だって、一度も同じクラスになったことないし……」
 そろっと顔を背けるので、わざと覗き込んでみる。
「魔追くん、言い訳って知ってる?」
「知ってるし! あーもう……」
 魔追は頭をがしがし掻くと、とりあえず外した扉をはめ直した。幸い、鍵は壊れておらず、無事に元の位置に収まった。
「魔追」
 司書室から追夢が顔を出す。そこにも鍵がかかっている筈だが、追夢はどういうわけかその鍵を持っていた。どういうことかと尋ねると、追夢は倒れている美伽を顎でしゃくってみせた。
「合鍵。カウンターに置きっぱなしになってた」
「なんで生徒がそんなもの」
 言いかけて口をつむぐ。そんなもの、許可を得ずに所持している可能性が高いに決まっている。ノアは肩を竦めた。
「魔追くん、ドンマイ」
「悪いのは美伽ちゃんじゃん! なんでオレを見るん……」
「……おい」
 いつもならそのままくだらない言い合いに突入するのだが、間に割って入ったドスの利いた低い声と共に拳が魔追の鳩尾に突き刺さった。
「がうっ!」
「ぐふっ!?」
 続いて、ノアにも。
 訳がわからないうちに凄まじい威力にうずくまり、ノアは魔追と一緒に悶え苦しむ。そこをさらに情け容赦なく蹴飛ばされ、踏みにじられて、反論の余地すら与えられない。やっとのことで腕で頭をカバーすると、今度はその腕を踵でぐりぐりとされた。
「いたたたたたたたっいだいいだいだい」
「なんで、お前らは、すぐにそうやって、呑気でいられるんだ、ああ……? 口で言わなきゃ、いけないのか……?」
「いや、口より先に手が出てる痛い!」
 ぐりぐりが、ガスッ! ガスッ! という音に変わって必死に、だが無様にもがいていると、一撃目から転がったまま身動きのなかった魔追と目が合った。
 ようこそ。
 ようこそ?

 サドの世界へ。

「……」
 冗談じゃない。というか、そこはマゾじゃないのか。マゾだけは否定したいのか魔追くん。
 しかし、実際、このまま抵抗していても埒が明かないのは明らかだった。
 なんとか魔手から逃れると、ノアは立ち上がらずにそのままぱっと正座し――実際は立つ元気がなかったからなのだが――、ばっと頭を下げた。
 つまり、土下座をした。
「大変失礼いたしました」
「ふん……」
 追夢はやっと攻撃をやめると、魔追に目をやる。魔追はすぐさま起き上がってぺこぺこと謝った。そのまま暫く氷よりもはるかに冷え切った視線を注いでいたが、あまりにも情けない兄に頭が冷えたのか、倒れていた椅子を一つ起こしてそれに座った。二人はそのまま土下座が続いた。
「で、状況整理なんだけど」
 じろりと睨みつけてくる。思わず姿勢を伸ばすと、追夢はぴんと立てた指を眠っている美伽に突き付けた。
「こいつ、ただの花粉どころか第二、第三次まで行ってる。何日間か寝ないで培養したっぽい。もう周囲にも撒き散らしてると思う」
「うわ、まじか……」
 魔追が頭を抱える。ノアはなんのことかさっぱりで、おずおずと手を挙げた。
「あの、それ何語?」
「あ?」
 舌打ちされた。
「感染の症状っていうか、進行度を植物の生長に例えているんだ。最初は種で、花まであるんだけど、花の段階になると増殖を始める。それが別の人に移っていって、そこでまた大きくなりだすんだ。だから、花は花粉とも言われていて」
 魔追が解説する。ノアは顎に手を当てた。
「感染者が、一気に拡大するのか」
「まあ、軽度中度くらいだったら放っといてもいいんだけどさ」
「じゃあ、第二、第三っていうのは」
「花粉は一回で終わらないんだ」
 魔追ははああっと大きく息を吐き出した。その姿がやけに疲れて見えて、この休みの間も二人は夢の中を飛び回っていたのだということに、遅まきながら気が付いた。
「大丈夫、なのか?」
「でも、やるしかない」
 答えになっていない返答だったが、これには追夢も大きく頷いていた。その通りだ。やるしかない。二人しかいないのだから。
 代わりなんて、いないのだ。
「……狭いな」
 追夢は立ち上がると、司書室に向かった。
「そんごは学校休んで家から侵入するって。おい、ノア。ここ、誰も入れないようにしとけ。ついでにそこの片付けも。まだ途中だろ」
「え、俺?」
「私たちはこれからそいつの夢に入るんだ。他に誰がいる。時間もないんだから急げ」
 司書のものと思しき大判のひざ掛けを勝手に床に敷き、その上に横になる。
「魔追、先に行く」
「え?」
 追夢は返事を待たずにさっさと目を瞑った。すぐに規則正しい寝息が聞こえてきた。
「……」
「……」
「……えっと」
 魔追は戸惑うように視線をさまよわせることを何回も繰り返してから、やっとノアの方を向いた。
「オレからも、頼んでいい?」
 ノアはため息をついた。
「いいよ。こういうの、慣れてるし」
「慣れてる?」
「あー、ルナもそうなんだけどさ。たまにテラが盛大にやらかすんだよ」
「テラちゃんが……意外だな」
「うち、親もそうなんだよ。まあ、そういうわけだからここは俺に任せて、魔追くんは追夢ちゃんを、はやくっ……!」
「何が起きてるんだ!?」
 反射的なノリつっこみに、ぷっ、と二人同時に噴き出した。
「でも、追夢ちゃんって、ヒロインって柄じゃないよなあ」
「最後の最後で裏切って、実は私が大魔王だー、みたいなタイプだから」
「超似合ってる」
「似合いすぎて逆に……」
 恐ろしい。
 ぶるりと身震いする。どうやら、自分で思っている以上に、先程の事件は恐怖として身に沁みついたらしかった。
「でも本当、無理するなよ。この前倒れたのって、夢視が原因なんだろ?」
「ああ、うん……」
 なるべくさりげなさを装って尋ねると、ここに来て初めて魔追は疲労を隠すことなく表情に表した。俯き、首の後ろを押さえるように手を乗せる。
「気を付けてはいるんだけど、さ。どうしたら来るのかいまいち分からないところがあって。だから、そんごが、奏良が仲間になってからは本当に助かってる」
「ああ」
 目をぎゅっと瞑り、絞り出すように小さな、しかしはっきりとした声で魔追は言った。
「オレと追夢は、特殊なんだ」
「特殊?」
「夢視師が普通持ってる能力の、その半分しかないんだ。追夢には夢の中で想像したことを形にする能力はあるけど、それを扱うことはできない。オレは創ることはできないけど、扱うことはできる。全くないわけじゃないんだ。でも、一方の部分が弱すぎて、だからこそオレ達はそれぞれの力に特化することができたんだ。――特化しすぎたんだ」
 苦しそうな声なのに、諦めきって、それに身を委ねているような。そんな奇妙な脱力感があった。
 ノアは唾を飲み込んだ。
「体に負担がかかるんだな。想像の力が、体に影響を与えてくるんだ」
 れい子やアサ、そして妖追のように。
「そう。特にオレは、激しいから」
 だから、魔追は隠そうとしたのだろう。夢視の力だけだったら、目に見える確証がない分、忌避される可能性もそれだけ減った。だが、肉体への影響だけは絶対にごまかせない。単なる疲労だけならともかく、それこそれい子とアサのように明らかな奇形をもたらすものだったら。
 人間というのは臆病な生き物だ。人間に限った話ではない。臆病や警戒というのは、生物が生き残るために必要な感情だ。だからこそ余計に、人は異常とみなしたものから離れようとする。かわいそうだと同情を誘うのは簡単だ。だが、それだけでどうにかなるような単純な問題だったら、誰よりも人の心に精通しているであろう魔追がこんなに悩むことはなかっただろう。
 夢。
 その守り人として、きっと魔追はもっともふさわしく、しかし受けとめるには気弱すぎるのだ。一人ぼっちになんて耐えられるようなタマじゃない。
 夢。
 それはおそらく、黒く、暗く、ひたすら蟠る冥い闇。粘性の触手を伸ばし、魔追の身も心も捕らえようとしている。その先にあるのは魂。捕らえ、剥き出しにし、そして。
「っ……」
 あの時、追夢の夢に囚われて、ノアは無の恐怖を味わった。だが、あれは本当の無ではなかった。
 本当の無というのは、孤独だ。
 魔追は、既にそれを身近に感じていた。いつ何が起こるか分からない、そんな状況で、それでも魔追は真っ直ぐに前を向こうとしている。
 ノアは凄いと口走りそうになり、寸前で唇を噛んだ。違う。掛けるべき言葉はそんなんじゃなくて。
「ありがとう」
 聞き取れるかぎりぎりの声量で呟くと、ノアは机の上のペン立てからサインペンを取った。そして、きょとんとする魔追を押さえつけて、その頬にぐりぐりと花丸を書いた。
「うわっ!? なにするんだよっ!?」
「おまじないだよ、おまじない」
 きゅぽっとキャップを締めながら、にこりと唇の端を吊り上げてみせる。
「カバンクイオマ教のおまじないだよ。魔追くんが無事に戻ってくるように、さ」
「かばんくいおま……? あ、これ逆から読んだら、ただの悪口じゃないか!」
 わなわなと目をかっ開く魔追の頭を、ノアはどーどーと叩いた。
「あのさあ、魔追くん」
「なんだよ?」
「俺はもう魔追くんにとてつもない愛着を覚えちゃっててさあ。いまさら、魔追くんのこと嫌いになんかなれないんだ」
 ぴたりと動きを止める魔追。それをいいことに、手をチョップの形に変える。
「第一さ、急激な変化を起こしたら死んじゃうから、れい子さんたちは代を重ねて変化したんだろ? 同じことを魔追くんがやったら、もう遊べなくなっちゃうじゃん」
「ノア……」
「魔追くんで」
 一瞬の沈黙。
「ちょっとでも感動したオレの馬鹿……っ!」
 頭を抱えだす魔追にノアはにやにやしながら、チョップを勢いよく振り下ろした。
「あいでっ!」
「だからさ、魔追くん。ちゃんと帰って来いよ。おまじないも書いてやったんだ。俺は待ってるんだ」
「……」
 魔追は臆病だ。そして、それと同じくらい優しくもあるから、誰かに迷惑や心配をかけるようなことを是としない。
 そんな大事なことを見落とすような“親友”になった覚えはない。
 しばらく念を押すように瞳を見つめてから、ノアは魔追の背中を押した。
「ほらほら、早く行って来いよ。追夢ちゃんにまた蹴られるぞ」
 無理矢理寝かせると、魔追は何か言いたげだったが、しぶしぶ目を閉じた。ノアは立ち上がる。やるべきことは山積みだ。まずは、司書の先生を足止めしなければならない。スマホを出し、テラの番号を探そうとした。
「ノア」
 振り向くと、魔追が上体を僅かに起こしていた。
「ん?」
「その、……いや、やっぱりなんでもない」
「じゃ、早く行って来い」
「ああ」
 最後に少しだけ笑って、今度こそ魔追は完全に目を閉じた。途端に息が苦しくなって、ノアはスマホを持ったまま、並んで横たわる二人から目を外せなくなった。
 本当にこれでよかったのだろうか。
 胸がざわざわする。鼓動がやけに耳につく。不安か。それもある。でも、それだけじゃなくて、これは――
「誰だっ!」
 図書室ではなく、廊下側の扉に飛びつく。当然鍵がかかっており、焦っていたこともあって開錠には時間がかかった。やっと開けた時には、そこには誰もいなかった。
「気のせいか……?」
 ざわざわする。もやもやする。
 気のせいであってほしい。










――――――――――――――――――

お待たせいたしました。



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