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第一部 罪人の涙
罪人の憤怒 1
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五校時の鐘が鳴る。喧騒が遠のき、代わりに教師の声が響き始める。その中をテラとルナはこっそりと通っていった。
たどり着いたのは、屋上へと続く階段。その踊り場にノアが隠れていた。
「ノア兄っ」
「しぃ。聞こえちゃうだろ」
ルナがぱっと口を押さえたのを確認すると、ノアはテラに目をやった。テラの顔はいろんな意味でいつにも増して白かった。
「テラ……なにしたんだ」
「ノアが司書さんの足止めをしろって言ったから」
「それがなんで眼帯のパワーアップに?」
「司書さんが通るであろう道で待ち伏せして、ものもらいを上からぐにょぐにょって」
「うぉ」
地味に生々しかった。
「タクシーで病院に連れてってもらった」
「ものもらいで?」
「痛いふりは得意」
「ルナも泣きまねは得意だよ」
「胸張るな」
やれやれとため息をつく。なにはともあれ、ノアは二人を連れて屋上に向かった。
「屋上って、開いてるんだねー」
「ん? ああ、うん、まあ」
歯切れの悪い返答にテラは眉をひそめる。
「もしかして、壊した……?」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「駄目だよ、ノア兄!」
「壊してねえって」
ノアはポケットから鍵束を取り出しみせた。
「合鍵。美伽ちゃんが持ってたんだよ」
「そう思わせての、実は泥棒……」
「最低、ノア兄!」
「お前ら、絶対それ言いたいだけだよな?」
「ばれたか」
ぺろりと舌を出すテラ。どこからどう見ても頭の痛い子にしか見えないのが残念だった。
「でも、なんで合鍵なんて持ってるの?」
「さあ……。静かに本を読むためとか?」
だが、今はそれが役に立った。司書が来る前に魔追たちを別の場所に移さなければならなかったが、誰にも見つからない場所というのには限界があった。今日が快晴でよかったと思いながら、ノアは扉を開けた。
屋上には貯水槽以外何もない。当然、風よけになるような場所もないが、天候はノア達に見事に味方した。屋上に出てすぐの場所に作ったスペースに、魔追と追夢は横たえられていた。
それを見て、あれ? とルナがまず首を捻った。
「一人足りないよ?」
「美伽ちゃん……?」
ノアは慌てて周囲を見渡す。
ノアは一校時ごとに一人ずつここに運んできて、それからルナとテラがやってくるまでずっと屋上にいた。迎えも踊り場であるから、美伽が屋上を出たら必ず目の前を通ることになる。
であるなら、考えられるのは一つだった。
貯水槽は複数設置してある。その間にはわずかながらも人一人通れるだけの隙間があった。ノアはそこを体を横にして進んでいく。すぐに少しだけ開けた場所に出て、眩しさに目をすがめた。
「美伽ちゃん」
彼女は振り返る。
「岩倉?」
美伽の傍らには、一人の女子生徒がいた。目を閉じてすやすやと寝息を立てている。少し痩せ気味だが、控えめに言ってもかなりかわいい。
「……この子、昔ファッション雑誌で見た」
美伽は女子生徒とつかず離れずといった距離でしゃがんで、その顔をじっと見つめる。
「だいぶ昔だけど、でも、間違いない。深海コロよ。うちの生徒だったのね」
「それが、なんで、こんなところで寝てるんだ……?」
ノアが三人を運んでいる間に忍び込んだのだろうが、理由が全く分からない。普段、開いていない屋上に忍び込んだということは、つまり、ノアの動きを知っていたということにほかならないが、声を掛けるならともかく、どうして忍び込んだのだろうか。
寝ていることについては、この陽気なので分からなくもないが、だからといってこのままでもよくないだろうと、手を伸ばしたところで美伽の制止が入った。
「触らない方がいいわよ」
「え?」
「移るから」
反射的に強張ったノアに、美伽はやっぱりと呟いた。
「神居宮の仲間なんでしょ。……でも、詳しくは知らないみたいね。安心して。もう、移ってるから」
「もうって」
続けて問いただしたいのをぐっとこらえ、ノアは慎重に言葉を紡ぐ。
「美伽ちゃんは、耐性があるのか」
「さあ。でも、あなたの言う耐性と私の知っている耐性が同じなら、そうなんでしょうね。私は確かに夢の中で神居宮と話した。だからって、あんたがあれに感染しているかまでは分からないけど」
どういうことかと訊きかけて、ノアはすぐに気が付く。
「そうか。システム、か。ストレスによって症状が変わるなら、症状が軽くて気付かないだけで、誰もがアリスを、因子を持ってるんだ」
美伽は無言でノアを見つめ、そして小さくうなずいた。
「でも、やっぱり、触らない方がいい」
唇を噛み、目には力がこもる。美伽はもうノアを見ていなかった。ここではないどこか遠くを睨んでいるようだった。
「ノア?」
「ノア兄? どうしたの?」
なかなか戻らないノアに痺れを切らしたのか、テラとルナも貯水槽の隙間から出てくる。目を丸くする二人にどう説明したものかと悩んでいると、美伽が先に口を開いた。
「こんにちは。本間美伽です」
あまりにも穏やかな態度は完全に余所行きのものだとまるわかりだったが、一応テラも返した。
「こんにちは。岩倉テラです。こっちはルナ」
「こんにちはっ?」
ルナが満面の笑顔で見上げると、美伽は思わずといったように僅かにのけぞり、それをごまかすように眼鏡を直した。手を下ろした時には元の無愛想に戻っていた。
「二人とも、ごめんなさいね。神居宮君はまだ少しかかると思うわ」
「それは、どういう」
「この子も」
コロを指さす。
「感染したの。私から移ったんでしょうね。たぶん、今頃はこの子の中で戦ってる」
テラは眉をひそめ、しかし納得するしかないようだった。ルナもおとなしくなり、テラの手を握る。
「そうですか」
「この子がどうしてここにいるのかを、今、岩倉くんと話してたところなの」
「ぶっ」
いきなり君付けになってノアが思わず吹き出すと、なぜかテラたちから呆れた目を向けられる。
「いや、だって」
「ノア兄は黙って」
「はい」
「……ところで、テラちゃんは何か知ってる? この子、同じ学年だと思うんだけど。名前は多分、深海コロさん」
「すみません。まだ来たばかりなので、ほかのクラスはちょっと……」
テラは視線を戻し、申し訳なさそうに首を振る。美伽も期待していなかったようで、気にしないでと少しだけ微笑んでみせた。やっぱ、笑った方が可愛いよな、と場違いなことを思った時だった。
「でも、幼馴染がいるっていうのは、聞いたことがある」
美伽の眼光が鋭くなる。ノアも改めてコロを観察して、カーディガンのポケットからはみ出しているストラップに気が付いた。
「これ」
慎重に引っ張り出すと、古いデザインのガラケーが出てくる。ストラップはそれについていた。
ワイングラスを持っている、髭を生やしたカステラのストラップ。
「カス・テイラー氏……」
美伽がどこか懐かしそうに漏らした。ノアもテレビやデパートで見たことがある。だが、もっと身近なところでこれとまったく同じようなものを見たことがある気がするのだ。必死に記憶を手繰っていると、ルナがあっと声を上げた。
「これ、追夢おねーさんも持ってたよ」
テラがはっと顔を上げる。ノアも思い出した。魔追のスマホだ。魔追もこのストラップを持っていた。
「偶然、じゃないよな。さすがに」
「でしょうね」
すると美伽は、待ちましょう、と立ち上がった。ひとまずの区切りがついたことで、すっきりしたようだった。
「神居宮くんが戻ってくるのを待ちましょう。どちらにしろ、私たちに手は出せないわ」
「気にならないんですか?」
テラが反論すると、美伽は静かに首を傾げる。
「何が」
「どうして、この人が感染することになったのか」
美伽は意外そうな顔になって、即答した。
「気にならないわ」
どうして、とテラは言い募る。
「確かに、私たちは夢の中に入ったりとかできない。でも、アリスを倒してもストレスの種が残ってたら、またぶり返してしまう。それを解消するくらいだったら、私たちにだってできるんじゃ」
「あんた、自分の言っている意味わかってる?」
いきなり台詞を遮られてテラは口をつぐんだ。美伽の言葉は今までになく感情があらわになっていた。
「算数の問題が解けないとか、そんな単純な悩みだったらそれでいいのかもしれないわね。でも、数字みたいに分かり切ったものなんてそうそうないのよ。そうでしょ? 公式当てはめて何でもわかるなら、あんたの心は常に筒抜けよ。それを知りもしない赤の他人に? いきなり知られて? 自分が助けるって? ――冗談も大概にしなさい」
美伽は相変わらず無愛想だったが、出てくる言葉はどれも非難に満ちている。しかし正論で、テラはぐっと言葉に詰まった。
「わたしは、別に、七崎月音の時みたいに」
「それ、あんたが考えて動いたこと?」
今度こそ何も言い返せなくなった。あの時のテラは月音を助けるどころか、アリスの存在さえ知らなかった。ただ、追夢がやけに必死だったから、助けてあげた。テラは月音ではなく、追夢を助けたのだ。
今だって、感染が抑えられたらいいとは思ってるけど、それ以上に追夢の助けになりたがっている。
「下手なことして再発でもしたら、誰が責任取るの? あんたじゃなくて神居宮よ」
テラは肯定も否定もできなかった。ただ悔しかった。己の浅はかさもそうだが、それよりも美伽の言葉がいちいち正鵠を射ているのが腹立たしかった。私のほうが追夢の友達なのに。そう考えてから、まだ自分達は知り合ってからほんの一週間程度しか経っていなかったことを思い出して愕然とした。
「テラ姉、痛いよ」
ルナの声で、ようやくテラは手に力をこめていたことに気が付いた。
「あ……ごめん」
慌ててつないでいた手を離す。ルナは少し手首をぷらぷらとさせてから、再びテラの手を取ってくれた。そのことがなぜだか無性に嬉しかった。
テラが落ち着いたのを見ると、ルナはにこっと笑いかけて、それから美伽の方を見た。
「ねえねえ、おねーさん」
「……私?」
「おねーさんしかいないよ?」
美伽は黙り込んで、そうねと頷いた。
「何か用?」
少し身をかがめて視線を合わせると、ルナはにこにこと言い放った。
「おねーさんは、ツンデレですか?」
「はっ――?」
これには美伽だけでなくテラとノアもぽかんとする。ルナは構わず、無邪気な笑みを浮かべて続けた。
「だって、おねーさん、へたなことはするつもりないけど、へたじゃないことはするんでしょ? 魔追おにーさんと追夢おねーさんがこれやるって言ったら、手伝う気満々でしょ?」
「満々って、私はそんな」
「違うの?」
「違うわよ。どうして私がそんなことやらなきゃいけないの。彼には恩はあるけど、それとこれとは関係ない――」
そこまで言いかけて、美伽はテラとノアが自分を食い入るように見つめているのにやっと気づいた。これではまるで言い訳だと言われても仕方がない。美伽は一つ息を吐いて、再び眼鏡を直した。
「……神居宮は慣れてる。なら、そのやり方に従うのが道理ってもんでしょう」
「へえ」
ノアは口笛を吹きたくなるのを我慢する。テラも微かに笑みをにじませた表情になった。
「そういうことなら、私も賛成です」
「あ、そ」
美伽は静かに頬をひきつらせて、諦めたように溜め息をついた。
「岩倉」
「ん? どうした、美伽ちゃん」
「それ、やめなさい。ちゃん付け。あと、サインペン貸して」
「サインペン?」
ノアが首を傾げると、気のせいか美伽の瞳がぎらついた。
「ええ。少し思い出したことがあって」
「ぶっ殺す」
追夢の言葉はシンプルだった。それ以上でもそれ以下でもない。
追夢は憤っていた。
不甲斐ない兄に。大事な友達に取り憑いたアリスに。アリスを取り逃がした自分に。
だが、事態もシンプルだ。解決方法は簡単、あのくそむかつく盲目野郎をぶっ殺せばいい。それだけで、全てが上手くいく。いかなくてもいかせてやる。
体の力を抜くと、その力が抜け落ち、足元から拡散していくように魂の手が伸びていく。こんな真似は追夢と妖追にしかできない。力の量自体はさほど多くない。これはリミッターの問題だ。この方面に関しての追夢のリミッターは非常に緩い。だから、誰よりも深く素早く潜れ、誰よりも繊細かつ的確に核心に触れられる。その代償がこれだ。魂がさざなみを打っている。みしりと何かが軋んだ。どこかの阿呆は加減というものを知らないから、すぐにばったりと倒れるが、その分痛みに慣れている。追夢は痛いのが大嫌いだ。耐えられないし、耐えたいとも思わない。でも、もう痛い。怒りと悔いでぐずぐずに焼かれた胸の痛みがあまりに強烈で、追夢は叫びたかった。代わりに放出した。
世界が変わる。
追夢の色に染まっていく。
水中に落ちた一滴の黒い液体は、薄墨のベールとなって全てを闇に沈めた。歌声が遠のいていく。危険を察知して潜んだようだ。だが、すぐに炙り出される。この胸と同じように焼いてやる。
まだ事は始まったばかりなのに、ある種の予感と確信に快感を覚えた。ぞくりと背筋を震わすようなそれこそが、追夢の核心だ。この世界は汚い。清浄なものなんてありはしない。建前だって本音だって、必ずどこか薄汚れている。誰よりも早く夢視師として目覚めた追夢は、己の才能故に誰よりも早くそのことを悟った。夢視師なんてやめてしまいたかった。いっそ、死んでしまえと思った。
あの子はたった一つの光明だった。
周囲からの汚れと自らの生み出す汚れに塗れながらも、もがき、前だけを見ていようと必死に生きていた。汚れに汚れたあの子の夢は、誰よりも美しかった。
それから、追夢はいろんなものが見れるようになった。汚いところばかりが目に付いて気付かなかった輝きを知った。この世界がただの塵屑じゃないことを知って安堵した。そうして、己の中の小さな希望に気が付いた。
追夢は己をよく知っている。この力のせいで知りすぎるくらいに知っている。それを否定したり苦しんだりなんて段階は、とうに過ぎた。受け入れる。この世界は理不尽だ。何が起きたって不思議ではない。追夢は諦める。諦めて、受け入れた。全てを。でも、許容はしない。だから、追夢はもがく。ドSだとか協調性がないだとか言われたって、追夢は自分に忠実に生きてやる。不浄に埋没なんかしてたまるか。
追夢は唇を噛んだ。
なによりも、辜露をそんなことにはさせない。
あの頃の辜露と今の辜露は確実に違うだろう。あれからまたいろんなことがあった。同じでいられるわけがない。それでも、変わらないものはあるはずだ。
だって、今追夢が危険を冒しているのは、辜露が大好きだからだ。
辜露ちゃんは? 辜露ちゃんはどう思ってる?
自分勝手かもしれないが、追夢は何度だって辜露を引き上げる。あの輝かしい陸の世界へ。辜露は人魚なんかじゃない。
辜露の世界を完全に乗っ取り、追夢はうっすらと笑みを浮かべた。もはや、憶測は真実へと昇華した。恐れるものは何もない。
「――魔追」
魔追が振り向く。もとはといえば、魔追がはっきりしないのがいけないのだ。そう思うと、一発蹴りを入れたくなるが、今は我慢する。あとで腫れ上がるまで蹴り飛ばしてやればいい。
なのに、自分と同じ赤い目を見ていたら、不思議とその気持ちは、否、興奮は冷めていった。
いつもはただのへたれのくせして。
「最低……」
いや、今もそうだ。
なのに、こういうときばっかり一人前の顔をする。
「ん? なに?」
「……少しだけ時間をやる」
気付かなかったふりをする魔追にいらだちが湧く。そんな落ち着いてるように見せたって、内心で焦りまくってるのはバレバレなんだよと吐き捨ててやりたい。
どうして、私が一言言ってやらないといけないんだ。
「いま、言ってこい。皮なんて被んないで、全部吐き出せ」
「ああ」
魔追はにこやかに頷き、くるりと大剣を担いで背を向けた。もうどこも震えていない。不自然なほどに自然体で、どこまでもいつも通りだ。さっきの激情が嘘のような静けさだ。胸が痛かった。どうしてくれるんだと睨みつけたが、魔追は振り返らず、ただそんごがおどおどしただけだった。
「追夢、花粉は」
追夢はひそかに舌打ちをした。
「ないと思っていい」
先の攻撃でアリスの力は大幅に削られている。絶好の狙い目だった。
「逃走経路は潰した。私たちさえやられなければ、徹底的に隠れるか、支配権を取り返そうとしてくるはず。どちらにしろ、そろそろ動く」
「分かった。そんご」
「はっ、はい」
少しだけ上擦った声に、そんごが加わったばかりの頃を思い出した。終始おどおどして、こちらを窺い、何かに怯えているようだった。実際そうだったのだろう。そうしたら、魔追がぽんぽんと頭を叩いて言うのだ。
「頼んだよ」
「は、はいっ!」
そんごは深呼吸を一つして、嬉しそうに口元をほころばせた。オレたちは信じてる。お前は仲間だ。だから頼んだよ。――相変わらず単純なその行為の繰り返し。それだけで機嫌を直してしまう馬鹿二号に、いらだちが増した気がした。
「そんごは追夢について。追夢の安全第一で。でも、チャンスがあったら迷わなくていい」
「はいっ!」
「じゃ、やろっか」
ピクニックにでも行くかのような気軽さで、魔追は最後に肩越しに笑ってみせた。
「っ」
思わず怯んだ隙に、魔追は薄墨の彼方へと消えて見えなくなっていた。
ばいばーいと手を振ると、そんごは追夢を守っているとアピールしたいのか、人の周りをぐるぐる飛び回りだす。小蠅のようでうっとうしいので、容赦なく蹴ることにした。
「ぎゃっ!?」
「うざい」
憎たらしいことに、小蠅は觔斗雲にしがみついて一回転し、すぐに戻ってきた。
「す、すいませんっした。追夢さん……」
「ちびはそこにお座りしてろ」
「はい……チビじゃないです」
「チビ、違うだろ。犬は体育座りなんかしない」
「犬でもないですよ!?」
「ところで、ポチ」
「増やさないでっ!?」
「お前のその棒だけど」
そんごはぱちくりとし、握りしめた如意金箍棒を見て、追夢を見た。
「金箍棒がどうかしました?」
「しょぼい」
がーん、と効果音が付きそうな顔になる。
「う、た、確かにオレは想像が下手ですけど、これは結構自信作でっ……!」
「カス」
「ぐぬっ」
「そんなんだから、アリスに逃げられたんじゃないのか」
「ひぐっ」
胸を押さえ、涙目になって見つめてくる。面倒臭くなってきて手を伸ばすと、金箍棒をぎゅっと抱きかかえてそんごは逃げ出した。
「いやですっ! いくら追夢さんでも、これは俺の相棒なんです! 棒だけに!」
「……」
「お、おもしろくないですかっ!? すいませんっした!」
「悪いと思ってんなら、さっさとよこせ」
「やっ、でも本当に、これは!」
「でなきゃ、今日から私はお前を番田君と呼ぶ」
そんごの動きが一瞬だけ止まったが、すぐに泣きながら喚いた。
「いいですよ! 番田君! 上等です! 無視されるよりかよっぽどましですもん!」
「LAINのグループから脱退させる」
「ぐっ……でも、オレにはまだメールが……!」
「ああ、今度契約が切れるからキャリアメールが使えなくなるんだ。私も魔追も」
「え……」
今度こそ完全に停止するそんごに、追夢はにっこりと作り笑いを浮かべてみせた。
「じゃ、私と番田君はただの知り合いだから、もうメアドなんていいよね? ていうか、登録してたのがおかしかったんだから、これで解決」
「うわあああああああああああ、ごめんなさいいいいいいいいいい」
棒は折れた。
差し出された金箍棒を手に取り、追夢はちょろいなと鼻で笑う。金箍棒は意外に重さがあった。そんごの体のサイズに合わせているため、それほどでもなかったが、でもやっぱり重いものは重い。追夢はバトンのように軽く回してから、ゆめめを呼んだ。ゆめめはスカートのポケットの中からちょこんと出てきて、ふわりと頭の上に乗った。
「しまうものは?」
「これ」
金箍棒を示すと、黒い空間に別の黒い穴が開いて、そこに吸い込まれていく。この中がどうなっているのかは知らない。ただ、追夢と魔追が別々になっても大丈夫なようにと、妖追が特別に用意してくれたのだった。
へっ、と素っ頓狂な声が上がった。
「あ、あの、創造を解除するんじゃないんですか?」
「してほしいのか」
首が取れるかと思うくらいに激しく横に振る。
「そ、その、オレはてっきり、処分されちゃうのかと」
「ちゃんと人の話を聞かないからだ」
「話す前に手を伸ばしてなかったですか!?」
「疑問点はちゃんと訊いて確認するのが常識」
「その通りですけど、なんか違う!?」
ひとしきり騒いでから、あれ、とそんごは首を傾げた。
「それじゃあ、オレはどうやって戦ったら……?」
「これを使え」
追夢は何も持っていない右手を差し出した――と思ったら、そこには金の棒があった。おそるおそる受け取って、そんごはいつもと変わらない質感に驚く。しかし、片方の先端が鋭く尖っているのを見て、さっと顔を青ざめさせた。
「こ、これは……?」
「そいつをぶっ刺すと、返しが出る」
「返しって、銛の先についてるやつですよね? あの、とったどー、ってやってる人の……。ええ、出る?」
「この前みたいに寸前で逃げられたら元も子もない。いいか。確実にアリスに刺せ」
「あ、はい……」
そんごは釈然としない顔で曖昧に頷く。
「でも、それなら、オレじゃなくて魔追さんに渡した方がいいんじゃ」
「あいつには無理だ」
きょとんとするそんごに追夢は繰り返した。
「あいつには無理だ」
「……無理って、え、でも」
「普通に考えてみろ。この一週間の連続の夢視に、今日だけでもこれで三つ目。いつ潰れてもおかしくない状態で、既に一回は限界に行ってる。あいつには余裕がない」
そんごはでも、でもと視線をさまよわせ、俯きながら言った。
「魔追さんは、自分で倒したいんじゃ」
「それで、あいつに死ねと?」
「死ぬわけじゃないでしょう?」
「さあ」
敢えて冷たい視線を向けると、そんごは大きな目をさらに見開いた。
「追夢さん……」
「お前は倒したくないのか。自分の手で。リベンジ、したくないのか」
そんごは苦しげに唇を噛みしめていたが、嘘を付けない性格だ、やがて絞り出すように答えた。
「したいです。リベンジ」
「なら、やれ」
少しだけ微笑んでやると、そんごはためらいながらも頷いた。強引だったかと思ったが、それでいいと追夢は割り切った。体のことはもちろん、あんな心にゆとりのない状態でアリスと対峙しようなんて無理だ。あいつは辜露のことだけを見て、辜露だけを考えればいい。
「ま、死なないと思うけど」
「ちょ、追夢さん!」
追夢は所詮裏方だ。
「行くぞ」
「行くって、どこへですか?」
そんごが大きくした筋斗雲に腰掛け、追夢は足と腕を組んだ。
「アリスの所だ」
だが、メインディッシュは私のものだ。
――――――――――
すみません。今月中に第一部終わらない気がしてきました。
とりあえず次も頑張ります。
たどり着いたのは、屋上へと続く階段。その踊り場にノアが隠れていた。
「ノア兄っ」
「しぃ。聞こえちゃうだろ」
ルナがぱっと口を押さえたのを確認すると、ノアはテラに目をやった。テラの顔はいろんな意味でいつにも増して白かった。
「テラ……なにしたんだ」
「ノアが司書さんの足止めをしろって言ったから」
「それがなんで眼帯のパワーアップに?」
「司書さんが通るであろう道で待ち伏せして、ものもらいを上からぐにょぐにょって」
「うぉ」
地味に生々しかった。
「タクシーで病院に連れてってもらった」
「ものもらいで?」
「痛いふりは得意」
「ルナも泣きまねは得意だよ」
「胸張るな」
やれやれとため息をつく。なにはともあれ、ノアは二人を連れて屋上に向かった。
「屋上って、開いてるんだねー」
「ん? ああ、うん、まあ」
歯切れの悪い返答にテラは眉をひそめる。
「もしかして、壊した……?」
「人聞きの悪いこと言うなよ」
「駄目だよ、ノア兄!」
「壊してねえって」
ノアはポケットから鍵束を取り出しみせた。
「合鍵。美伽ちゃんが持ってたんだよ」
「そう思わせての、実は泥棒……」
「最低、ノア兄!」
「お前ら、絶対それ言いたいだけだよな?」
「ばれたか」
ぺろりと舌を出すテラ。どこからどう見ても頭の痛い子にしか見えないのが残念だった。
「でも、なんで合鍵なんて持ってるの?」
「さあ……。静かに本を読むためとか?」
だが、今はそれが役に立った。司書が来る前に魔追たちを別の場所に移さなければならなかったが、誰にも見つからない場所というのには限界があった。今日が快晴でよかったと思いながら、ノアは扉を開けた。
屋上には貯水槽以外何もない。当然、風よけになるような場所もないが、天候はノア達に見事に味方した。屋上に出てすぐの場所に作ったスペースに、魔追と追夢は横たえられていた。
それを見て、あれ? とルナがまず首を捻った。
「一人足りないよ?」
「美伽ちゃん……?」
ノアは慌てて周囲を見渡す。
ノアは一校時ごとに一人ずつここに運んできて、それからルナとテラがやってくるまでずっと屋上にいた。迎えも踊り場であるから、美伽が屋上を出たら必ず目の前を通ることになる。
であるなら、考えられるのは一つだった。
貯水槽は複数設置してある。その間にはわずかながらも人一人通れるだけの隙間があった。ノアはそこを体を横にして進んでいく。すぐに少しだけ開けた場所に出て、眩しさに目をすがめた。
「美伽ちゃん」
彼女は振り返る。
「岩倉?」
美伽の傍らには、一人の女子生徒がいた。目を閉じてすやすやと寝息を立てている。少し痩せ気味だが、控えめに言ってもかなりかわいい。
「……この子、昔ファッション雑誌で見た」
美伽は女子生徒とつかず離れずといった距離でしゃがんで、その顔をじっと見つめる。
「だいぶ昔だけど、でも、間違いない。深海コロよ。うちの生徒だったのね」
「それが、なんで、こんなところで寝てるんだ……?」
ノアが三人を運んでいる間に忍び込んだのだろうが、理由が全く分からない。普段、開いていない屋上に忍び込んだということは、つまり、ノアの動きを知っていたということにほかならないが、声を掛けるならともかく、どうして忍び込んだのだろうか。
寝ていることについては、この陽気なので分からなくもないが、だからといってこのままでもよくないだろうと、手を伸ばしたところで美伽の制止が入った。
「触らない方がいいわよ」
「え?」
「移るから」
反射的に強張ったノアに、美伽はやっぱりと呟いた。
「神居宮の仲間なんでしょ。……でも、詳しくは知らないみたいね。安心して。もう、移ってるから」
「もうって」
続けて問いただしたいのをぐっとこらえ、ノアは慎重に言葉を紡ぐ。
「美伽ちゃんは、耐性があるのか」
「さあ。でも、あなたの言う耐性と私の知っている耐性が同じなら、そうなんでしょうね。私は確かに夢の中で神居宮と話した。だからって、あんたがあれに感染しているかまでは分からないけど」
どういうことかと訊きかけて、ノアはすぐに気が付く。
「そうか。システム、か。ストレスによって症状が変わるなら、症状が軽くて気付かないだけで、誰もがアリスを、因子を持ってるんだ」
美伽は無言でノアを見つめ、そして小さくうなずいた。
「でも、やっぱり、触らない方がいい」
唇を噛み、目には力がこもる。美伽はもうノアを見ていなかった。ここではないどこか遠くを睨んでいるようだった。
「ノア?」
「ノア兄? どうしたの?」
なかなか戻らないノアに痺れを切らしたのか、テラとルナも貯水槽の隙間から出てくる。目を丸くする二人にどう説明したものかと悩んでいると、美伽が先に口を開いた。
「こんにちは。本間美伽です」
あまりにも穏やかな態度は完全に余所行きのものだとまるわかりだったが、一応テラも返した。
「こんにちは。岩倉テラです。こっちはルナ」
「こんにちはっ?」
ルナが満面の笑顔で見上げると、美伽は思わずといったように僅かにのけぞり、それをごまかすように眼鏡を直した。手を下ろした時には元の無愛想に戻っていた。
「二人とも、ごめんなさいね。神居宮君はまだ少しかかると思うわ」
「それは、どういう」
「この子も」
コロを指さす。
「感染したの。私から移ったんでしょうね。たぶん、今頃はこの子の中で戦ってる」
テラは眉をひそめ、しかし納得するしかないようだった。ルナもおとなしくなり、テラの手を握る。
「そうですか」
「この子がどうしてここにいるのかを、今、岩倉くんと話してたところなの」
「ぶっ」
いきなり君付けになってノアが思わず吹き出すと、なぜかテラたちから呆れた目を向けられる。
「いや、だって」
「ノア兄は黙って」
「はい」
「……ところで、テラちゃんは何か知ってる? この子、同じ学年だと思うんだけど。名前は多分、深海コロさん」
「すみません。まだ来たばかりなので、ほかのクラスはちょっと……」
テラは視線を戻し、申し訳なさそうに首を振る。美伽も期待していなかったようで、気にしないでと少しだけ微笑んでみせた。やっぱ、笑った方が可愛いよな、と場違いなことを思った時だった。
「でも、幼馴染がいるっていうのは、聞いたことがある」
美伽の眼光が鋭くなる。ノアも改めてコロを観察して、カーディガンのポケットからはみ出しているストラップに気が付いた。
「これ」
慎重に引っ張り出すと、古いデザインのガラケーが出てくる。ストラップはそれについていた。
ワイングラスを持っている、髭を生やしたカステラのストラップ。
「カス・テイラー氏……」
美伽がどこか懐かしそうに漏らした。ノアもテレビやデパートで見たことがある。だが、もっと身近なところでこれとまったく同じようなものを見たことがある気がするのだ。必死に記憶を手繰っていると、ルナがあっと声を上げた。
「これ、追夢おねーさんも持ってたよ」
テラがはっと顔を上げる。ノアも思い出した。魔追のスマホだ。魔追もこのストラップを持っていた。
「偶然、じゃないよな。さすがに」
「でしょうね」
すると美伽は、待ちましょう、と立ち上がった。ひとまずの区切りがついたことで、すっきりしたようだった。
「神居宮くんが戻ってくるのを待ちましょう。どちらにしろ、私たちに手は出せないわ」
「気にならないんですか?」
テラが反論すると、美伽は静かに首を傾げる。
「何が」
「どうして、この人が感染することになったのか」
美伽は意外そうな顔になって、即答した。
「気にならないわ」
どうして、とテラは言い募る。
「確かに、私たちは夢の中に入ったりとかできない。でも、アリスを倒してもストレスの種が残ってたら、またぶり返してしまう。それを解消するくらいだったら、私たちにだってできるんじゃ」
「あんた、自分の言っている意味わかってる?」
いきなり台詞を遮られてテラは口をつぐんだ。美伽の言葉は今までになく感情があらわになっていた。
「算数の問題が解けないとか、そんな単純な悩みだったらそれでいいのかもしれないわね。でも、数字みたいに分かり切ったものなんてそうそうないのよ。そうでしょ? 公式当てはめて何でもわかるなら、あんたの心は常に筒抜けよ。それを知りもしない赤の他人に? いきなり知られて? 自分が助けるって? ――冗談も大概にしなさい」
美伽は相変わらず無愛想だったが、出てくる言葉はどれも非難に満ちている。しかし正論で、テラはぐっと言葉に詰まった。
「わたしは、別に、七崎月音の時みたいに」
「それ、あんたが考えて動いたこと?」
今度こそ何も言い返せなくなった。あの時のテラは月音を助けるどころか、アリスの存在さえ知らなかった。ただ、追夢がやけに必死だったから、助けてあげた。テラは月音ではなく、追夢を助けたのだ。
今だって、感染が抑えられたらいいとは思ってるけど、それ以上に追夢の助けになりたがっている。
「下手なことして再発でもしたら、誰が責任取るの? あんたじゃなくて神居宮よ」
テラは肯定も否定もできなかった。ただ悔しかった。己の浅はかさもそうだが、それよりも美伽の言葉がいちいち正鵠を射ているのが腹立たしかった。私のほうが追夢の友達なのに。そう考えてから、まだ自分達は知り合ってからほんの一週間程度しか経っていなかったことを思い出して愕然とした。
「テラ姉、痛いよ」
ルナの声で、ようやくテラは手に力をこめていたことに気が付いた。
「あ……ごめん」
慌ててつないでいた手を離す。ルナは少し手首をぷらぷらとさせてから、再びテラの手を取ってくれた。そのことがなぜだか無性に嬉しかった。
テラが落ち着いたのを見ると、ルナはにこっと笑いかけて、それから美伽の方を見た。
「ねえねえ、おねーさん」
「……私?」
「おねーさんしかいないよ?」
美伽は黙り込んで、そうねと頷いた。
「何か用?」
少し身をかがめて視線を合わせると、ルナはにこにこと言い放った。
「おねーさんは、ツンデレですか?」
「はっ――?」
これには美伽だけでなくテラとノアもぽかんとする。ルナは構わず、無邪気な笑みを浮かべて続けた。
「だって、おねーさん、へたなことはするつもりないけど、へたじゃないことはするんでしょ? 魔追おにーさんと追夢おねーさんがこれやるって言ったら、手伝う気満々でしょ?」
「満々って、私はそんな」
「違うの?」
「違うわよ。どうして私がそんなことやらなきゃいけないの。彼には恩はあるけど、それとこれとは関係ない――」
そこまで言いかけて、美伽はテラとノアが自分を食い入るように見つめているのにやっと気づいた。これではまるで言い訳だと言われても仕方がない。美伽は一つ息を吐いて、再び眼鏡を直した。
「……神居宮は慣れてる。なら、そのやり方に従うのが道理ってもんでしょう」
「へえ」
ノアは口笛を吹きたくなるのを我慢する。テラも微かに笑みをにじませた表情になった。
「そういうことなら、私も賛成です」
「あ、そ」
美伽は静かに頬をひきつらせて、諦めたように溜め息をついた。
「岩倉」
「ん? どうした、美伽ちゃん」
「それ、やめなさい。ちゃん付け。あと、サインペン貸して」
「サインペン?」
ノアが首を傾げると、気のせいか美伽の瞳がぎらついた。
「ええ。少し思い出したことがあって」
「ぶっ殺す」
追夢の言葉はシンプルだった。それ以上でもそれ以下でもない。
追夢は憤っていた。
不甲斐ない兄に。大事な友達に取り憑いたアリスに。アリスを取り逃がした自分に。
だが、事態もシンプルだ。解決方法は簡単、あのくそむかつく盲目野郎をぶっ殺せばいい。それだけで、全てが上手くいく。いかなくてもいかせてやる。
体の力を抜くと、その力が抜け落ち、足元から拡散していくように魂の手が伸びていく。こんな真似は追夢と妖追にしかできない。力の量自体はさほど多くない。これはリミッターの問題だ。この方面に関しての追夢のリミッターは非常に緩い。だから、誰よりも深く素早く潜れ、誰よりも繊細かつ的確に核心に触れられる。その代償がこれだ。魂がさざなみを打っている。みしりと何かが軋んだ。どこかの阿呆は加減というものを知らないから、すぐにばったりと倒れるが、その分痛みに慣れている。追夢は痛いのが大嫌いだ。耐えられないし、耐えたいとも思わない。でも、もう痛い。怒りと悔いでぐずぐずに焼かれた胸の痛みがあまりに強烈で、追夢は叫びたかった。代わりに放出した。
世界が変わる。
追夢の色に染まっていく。
水中に落ちた一滴の黒い液体は、薄墨のベールとなって全てを闇に沈めた。歌声が遠のいていく。危険を察知して潜んだようだ。だが、すぐに炙り出される。この胸と同じように焼いてやる。
まだ事は始まったばかりなのに、ある種の予感と確信に快感を覚えた。ぞくりと背筋を震わすようなそれこそが、追夢の核心だ。この世界は汚い。清浄なものなんてありはしない。建前だって本音だって、必ずどこか薄汚れている。誰よりも早く夢視師として目覚めた追夢は、己の才能故に誰よりも早くそのことを悟った。夢視師なんてやめてしまいたかった。いっそ、死んでしまえと思った。
あの子はたった一つの光明だった。
周囲からの汚れと自らの生み出す汚れに塗れながらも、もがき、前だけを見ていようと必死に生きていた。汚れに汚れたあの子の夢は、誰よりも美しかった。
それから、追夢はいろんなものが見れるようになった。汚いところばかりが目に付いて気付かなかった輝きを知った。この世界がただの塵屑じゃないことを知って安堵した。そうして、己の中の小さな希望に気が付いた。
追夢は己をよく知っている。この力のせいで知りすぎるくらいに知っている。それを否定したり苦しんだりなんて段階は、とうに過ぎた。受け入れる。この世界は理不尽だ。何が起きたって不思議ではない。追夢は諦める。諦めて、受け入れた。全てを。でも、許容はしない。だから、追夢はもがく。ドSだとか協調性がないだとか言われたって、追夢は自分に忠実に生きてやる。不浄に埋没なんかしてたまるか。
追夢は唇を噛んだ。
なによりも、辜露をそんなことにはさせない。
あの頃の辜露と今の辜露は確実に違うだろう。あれからまたいろんなことがあった。同じでいられるわけがない。それでも、変わらないものはあるはずだ。
だって、今追夢が危険を冒しているのは、辜露が大好きだからだ。
辜露ちゃんは? 辜露ちゃんはどう思ってる?
自分勝手かもしれないが、追夢は何度だって辜露を引き上げる。あの輝かしい陸の世界へ。辜露は人魚なんかじゃない。
辜露の世界を完全に乗っ取り、追夢はうっすらと笑みを浮かべた。もはや、憶測は真実へと昇華した。恐れるものは何もない。
「――魔追」
魔追が振り向く。もとはといえば、魔追がはっきりしないのがいけないのだ。そう思うと、一発蹴りを入れたくなるが、今は我慢する。あとで腫れ上がるまで蹴り飛ばしてやればいい。
なのに、自分と同じ赤い目を見ていたら、不思議とその気持ちは、否、興奮は冷めていった。
いつもはただのへたれのくせして。
「最低……」
いや、今もそうだ。
なのに、こういうときばっかり一人前の顔をする。
「ん? なに?」
「……少しだけ時間をやる」
気付かなかったふりをする魔追にいらだちが湧く。そんな落ち着いてるように見せたって、内心で焦りまくってるのはバレバレなんだよと吐き捨ててやりたい。
どうして、私が一言言ってやらないといけないんだ。
「いま、言ってこい。皮なんて被んないで、全部吐き出せ」
「ああ」
魔追はにこやかに頷き、くるりと大剣を担いで背を向けた。もうどこも震えていない。不自然なほどに自然体で、どこまでもいつも通りだ。さっきの激情が嘘のような静けさだ。胸が痛かった。どうしてくれるんだと睨みつけたが、魔追は振り返らず、ただそんごがおどおどしただけだった。
「追夢、花粉は」
追夢はひそかに舌打ちをした。
「ないと思っていい」
先の攻撃でアリスの力は大幅に削られている。絶好の狙い目だった。
「逃走経路は潰した。私たちさえやられなければ、徹底的に隠れるか、支配権を取り返そうとしてくるはず。どちらにしろ、そろそろ動く」
「分かった。そんご」
「はっ、はい」
少しだけ上擦った声に、そんごが加わったばかりの頃を思い出した。終始おどおどして、こちらを窺い、何かに怯えているようだった。実際そうだったのだろう。そうしたら、魔追がぽんぽんと頭を叩いて言うのだ。
「頼んだよ」
「は、はいっ!」
そんごは深呼吸を一つして、嬉しそうに口元をほころばせた。オレたちは信じてる。お前は仲間だ。だから頼んだよ。――相変わらず単純なその行為の繰り返し。それだけで機嫌を直してしまう馬鹿二号に、いらだちが増した気がした。
「そんごは追夢について。追夢の安全第一で。でも、チャンスがあったら迷わなくていい」
「はいっ!」
「じゃ、やろっか」
ピクニックにでも行くかのような気軽さで、魔追は最後に肩越しに笑ってみせた。
「っ」
思わず怯んだ隙に、魔追は薄墨の彼方へと消えて見えなくなっていた。
ばいばーいと手を振ると、そんごは追夢を守っているとアピールしたいのか、人の周りをぐるぐる飛び回りだす。小蠅のようでうっとうしいので、容赦なく蹴ることにした。
「ぎゃっ!?」
「うざい」
憎たらしいことに、小蠅は觔斗雲にしがみついて一回転し、すぐに戻ってきた。
「す、すいませんっした。追夢さん……」
「ちびはそこにお座りしてろ」
「はい……チビじゃないです」
「チビ、違うだろ。犬は体育座りなんかしない」
「犬でもないですよ!?」
「ところで、ポチ」
「増やさないでっ!?」
「お前のその棒だけど」
そんごはぱちくりとし、握りしめた如意金箍棒を見て、追夢を見た。
「金箍棒がどうかしました?」
「しょぼい」
がーん、と効果音が付きそうな顔になる。
「う、た、確かにオレは想像が下手ですけど、これは結構自信作でっ……!」
「カス」
「ぐぬっ」
「そんなんだから、アリスに逃げられたんじゃないのか」
「ひぐっ」
胸を押さえ、涙目になって見つめてくる。面倒臭くなってきて手を伸ばすと、金箍棒をぎゅっと抱きかかえてそんごは逃げ出した。
「いやですっ! いくら追夢さんでも、これは俺の相棒なんです! 棒だけに!」
「……」
「お、おもしろくないですかっ!? すいませんっした!」
「悪いと思ってんなら、さっさとよこせ」
「やっ、でも本当に、これは!」
「でなきゃ、今日から私はお前を番田君と呼ぶ」
そんごの動きが一瞬だけ止まったが、すぐに泣きながら喚いた。
「いいですよ! 番田君! 上等です! 無視されるよりかよっぽどましですもん!」
「LAINのグループから脱退させる」
「ぐっ……でも、オレにはまだメールが……!」
「ああ、今度契約が切れるからキャリアメールが使えなくなるんだ。私も魔追も」
「え……」
今度こそ完全に停止するそんごに、追夢はにっこりと作り笑いを浮かべてみせた。
「じゃ、私と番田君はただの知り合いだから、もうメアドなんていいよね? ていうか、登録してたのがおかしかったんだから、これで解決」
「うわあああああああああああ、ごめんなさいいいいいいいいいい」
棒は折れた。
差し出された金箍棒を手に取り、追夢はちょろいなと鼻で笑う。金箍棒は意外に重さがあった。そんごの体のサイズに合わせているため、それほどでもなかったが、でもやっぱり重いものは重い。追夢はバトンのように軽く回してから、ゆめめを呼んだ。ゆめめはスカートのポケットの中からちょこんと出てきて、ふわりと頭の上に乗った。
「しまうものは?」
「これ」
金箍棒を示すと、黒い空間に別の黒い穴が開いて、そこに吸い込まれていく。この中がどうなっているのかは知らない。ただ、追夢と魔追が別々になっても大丈夫なようにと、妖追が特別に用意してくれたのだった。
へっ、と素っ頓狂な声が上がった。
「あ、あの、創造を解除するんじゃないんですか?」
「してほしいのか」
首が取れるかと思うくらいに激しく横に振る。
「そ、その、オレはてっきり、処分されちゃうのかと」
「ちゃんと人の話を聞かないからだ」
「話す前に手を伸ばしてなかったですか!?」
「疑問点はちゃんと訊いて確認するのが常識」
「その通りですけど、なんか違う!?」
ひとしきり騒いでから、あれ、とそんごは首を傾げた。
「それじゃあ、オレはどうやって戦ったら……?」
「これを使え」
追夢は何も持っていない右手を差し出した――と思ったら、そこには金の棒があった。おそるおそる受け取って、そんごはいつもと変わらない質感に驚く。しかし、片方の先端が鋭く尖っているのを見て、さっと顔を青ざめさせた。
「こ、これは……?」
「そいつをぶっ刺すと、返しが出る」
「返しって、銛の先についてるやつですよね? あの、とったどー、ってやってる人の……。ええ、出る?」
「この前みたいに寸前で逃げられたら元も子もない。いいか。確実にアリスに刺せ」
「あ、はい……」
そんごは釈然としない顔で曖昧に頷く。
「でも、それなら、オレじゃなくて魔追さんに渡した方がいいんじゃ」
「あいつには無理だ」
きょとんとするそんごに追夢は繰り返した。
「あいつには無理だ」
「……無理って、え、でも」
「普通に考えてみろ。この一週間の連続の夢視に、今日だけでもこれで三つ目。いつ潰れてもおかしくない状態で、既に一回は限界に行ってる。あいつには余裕がない」
そんごはでも、でもと視線をさまよわせ、俯きながら言った。
「魔追さんは、自分で倒したいんじゃ」
「それで、あいつに死ねと?」
「死ぬわけじゃないでしょう?」
「さあ」
敢えて冷たい視線を向けると、そんごは大きな目をさらに見開いた。
「追夢さん……」
「お前は倒したくないのか。自分の手で。リベンジ、したくないのか」
そんごは苦しげに唇を噛みしめていたが、嘘を付けない性格だ、やがて絞り出すように答えた。
「したいです。リベンジ」
「なら、やれ」
少しだけ微笑んでやると、そんごはためらいながらも頷いた。強引だったかと思ったが、それでいいと追夢は割り切った。体のことはもちろん、あんな心にゆとりのない状態でアリスと対峙しようなんて無理だ。あいつは辜露のことだけを見て、辜露だけを考えればいい。
「ま、死なないと思うけど」
「ちょ、追夢さん!」
追夢は所詮裏方だ。
「行くぞ」
「行くって、どこへですか?」
そんごが大きくした筋斗雲に腰掛け、追夢は足と腕を組んだ。
「アリスの所だ」
だが、メインディッシュは私のものだ。
――――――――――
すみません。今月中に第一部終わらない気がしてきました。
とりあえず次も頑張ります。
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