Dreamen

くり

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第一部 罪人の涙

罪人の憤怒 2

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 ……うたいましょう ユメのように
 ……おどりましょう ユメのように


 真夜中だった。確か、十時にはなってなかったと思う。
 レストランの裏方バイトを終えた帰り道だった。
「ないって、何が?」
「ひゃうっ!?」
 いきなり後ろから声を掛けられ、辜露は小さく飛び上がった。咄嗟に携帯電話を持った手を後ろに隠した。
「ま、ま、まーくん?」
「こんばんは」
「こ、こんばんは……」
 魔追はジーンズにダウンジャケットというラフな格好をしていた。マフラーも手袋もしておらず、小さな街灯の下で赤い目と赤くなった頬がぼんやりと浮かび上がっていた。
「寒く、ないの?」
「うん。ちょっと買い物するだけだったからさ」
 手に持っているのは、さっきまで辜露が働いていたレストランのすぐ近くにあるコンビニの袋だった。シャー芯と板チョコが入っている。
「買うの忘れててさ。まあ、辜露にも会えるかなあって少し期待してみたんだけどね」
 どきりと心臓が揺れる。分かってはいるのだ。魔追はただ仲の良い友達としてそう言っているのだと。それでも、もしかしたらと思ってしまう。
 そこで、辜露はあることに気が付いた。
「あれ……? どうして、私がバイトしてるって知ってるの?」
 辜露はまだ中学生だった。レストランは昔から付き合いのある所だったから、その好意で働かせてもらっていた。
「追夢から聞いたよ。そうそう、合格おめでとう。はいこれ」
 魔追は袋から板チョコを出す。
「辜露、このチョコ好きだったよね」
「うん。えっ、いいの?」
「むしろ、これしか用意できなくてごめん。今度、うちに来なよ。ごちそうするから」
 辜露はいいよ、そんなのと首を振ったが、魔追は追夢も喜ぶからさと笑った。そう言われると断り切れないが、断ることはないと腹をくくった。そもそも昔はよく遊びに行っていたのだから、断るのは変だと思うことにした。
 それに、単純に遊びに行けるのは嬉しかった。
「で、なにがないの?」
「あぅっ……」
 にこやかに尋ねられ、視線が泳ぐ。ちらりと窺うと、有無を言わさぬ笑顔で促された。暫く抵抗してみたが、諦めて隠していた携帯電話を見せた。
「これ……探してて」
 携帯電話には切れたキーホルダーの紐の部分だけが残っていた。
「ごめんね。せっかく、まーくんとつーちゃんがくれたのに……」
 申し訳なくてつい俯いてしまう。と、ぽんっと頭の上に手を乗せられた。
「落としたのって、この辺?」
「えっ」
 辜露は驚いて目を丸くし、かくかくと頷いた。
「バイトに行く途中で、小学生の子達とぶつかったの。その時に荷物ばらまいちゃったから、たぶん……」
 でも、本当にそうなのだろうか。こんなに探しているのに見つからないのだ。別の場所に落としたに違いない。そう言おうとしたら、突然、魔追がジャケットを脱ぎ、袖をまくりだした。
「わっ、さむっ」
「そ、そーだよ、なにしてんの、まーくん!」
 魔追は道路の端にかがみこむと、よいしょと側溝の蓋を持ち上げた。
「ちょっと照らしてみて」
「う、うん」
 携帯電話のライト機能を使う。魔追は平気で落ち葉やごみの中に手を突っ込んだが、キーホルダーは出てこなかった。その隣の蓋も開けようとするので、辜露は慌てて止めた。
「いいよ。いいよ、まーくん。ここじゃなかったんだよ」
「でも、まだ探してないんだろ」
「そうだけど、でも汚いよ。それに風邪ひいちゃう。だったら、わたしがやるから。わたしが落としたんだもん」
「これ、重いよ。それに、もう汚れちゃったしさ。いいって。合格祝い第二弾」
 結局、そう言って魔追は四枚の蓋を外し、四枚目でやっとキーホルダーは出てきた。ワイングラスを持っている髭を生やしたカステラ、カス・テイラー氏のキーホルダー。茶色く汚れてしまったそれを渡された時、辜露は少しだけ泣きそうになった。
「これ、もうつかないね」
 近くの公園で手とキーホルダーを洗うと、魔追は自分のスマホを出した。そこにも同じキーホルダーがついているが、スマホにはストラップ穴がないため紐が余っていた。それを取って、辜露のカス・テイラー氏につけた。
「はい」
「……ありがとう」
「帰ろっか。家まで送るよ」
 二人で並んで帰る。
 すっかり冷え切った魔追の手を取りたい衝動を辜露は必死に抑えた。
 この温かさを分けてあげたかった。


 ……うたいましょう ユメだから
 ……おどりましょう ユメだから


 後ろから足音が聞こえた。と思ったら、辜露はひょいと抱き上げられた。
「きゃっ、月音くん!」
「はーい、おはようプリンセス! もとい辜露ちゃん!」
 月音は朗らかにそう言って、残りの行程を全力疾走した。辜露はおはようと叫び返して、月音にしっかりと腕を回した。あっという間だった。ふわりと浮遊感が襲い、月音は大跳躍をしてから止まった。
 下ろしてもらうと、辜露は頬を膨らましてみた。
「もう、今のはちょっと怖かったよ。いきなりやめてよ」
「あはは。じゃ、次はもっと高くいくね」
「えー、月音くんひどいー」
 なんて言いながら、笑いを抑えることはできなかった。月音が少し下品に近い噴き出し方をして、そこからはもう連鎖だった。二人はひいひい言って、たっぷり二分近く笑い続けた。
「ああー、笑った笑った。やっぱ、辜露ちゃんとだと一日分の笑いが放出される気がする」
「よかったね。ナチュラルキラー細胞が活性化するよ」
「なにそれ?」
「生物基礎で出てきたよ。免疫細胞」
「あっ、それ寝てた。やっば、プリント誰かに見せてもらわなきゃ。辜露ちゃんってかどやんクラス?」
「ううん、佐川先生」
「うわー。辜露ちゃんのだったら絶対分かりやすいのに。ま、なんとかするか」
「ていうか、寝ちゃだめだよ」
 すると、月音は急に真剣な顔になって、
「ねえ、辜露ちゃん、ぼくの前期の成績知ってる?」
「えっ?」
「それはもう、聞くに堪えないぐらい悲惨な――百十一位」
「普通じゃない!」
 辜露の小さな拳をあははと受け止めながら、でも、と月音は言った。
「辜露ちゃんからしたらずっと下でしょ? いつも上位成績者のあれに載ってるよね」
「あ、……うん。でないと、奨学金、貰えないし」
 一瞬迷ったが、それでも正直に言うと、月音の反応はいたって普通で、そっかあと呟いた。
「先輩も似たようなこと言ってたなあ。うちのバスケ部に入りたくてスポーツ推薦で入った人なんだけどさ、家の負担を少しでも減らしたいからって言ってた。辜露ちゃんもそんな感じ?」
「う、うん」
 なるべく自然な表情になるよう意識してなんとか頷く。なんとなく会話を逸らしたくなったが、何も思い浮かばず奇妙な空白ができると、それで月音は何かを察したのか、ちらりと腕時計を見た。
「いっけない、そうだ朝練だ。辜露ちゃん、ひょっとしてぼくが時間忘れるように魔法かけてる?」
「ええっ? えと、ビビディバビディブー!」
 うわあと月音はくるりとターンし、じゃあねと手を振って駆けだした。辜露も手を振ろうとしたら、なぜか月音はUターンして戻ってきた。
「そうだそうだ、辜露ちゃん」
 月音はいつもと変わらぬ笑顔だ。でも、形だけだと辜露は思った。瞳が辜露を捕えて離さない。不安が再び這い寄ってくる気がして、バッグを持つ手にひそかに力が入った。
「どうしたの? 月音くん」
「いや、最近、朝早いなと思って。ぼくは嬉しいんだけどね? でも、あんまり無理しちゃだめだよ」
「いやだよ。次はもっと高く跳んでくれるんでしょ?」
「あっ、そうだった!」
 月音はぺちりと自分の額を叩いて、今度こそ部室の方へと走り去っていった。
 その姿が十分に小さくなってから辜露も走りだした。高等部校舎に駆け込み、ばたばたと靴を履き替える。まだ誰も来ていない教室にたどり着くと、はあはあと肩で呼吸をしながらその場にへたり込んだ。汗と鼻水が噴き出す。筋肉がひくつき、お腹が痛い。そこまで距離はないはずだが、運動不足にはやはりきつかった。そうと分かっていたのに、走った理由は辜露自身にもよく分からない。気がついたら逃げ出していた。
 逃げたのだ。辜露は。
 目の周りが異様に熱い。伝って来た滴を拭ったら、汗ではなく涙だった。呆然とする間も涙は流れていく。何度かまばたきして抑えようとしたが、きりがなくて途中でやめた。バッグを抱きしめて顔を埋め、収まるまで静かに待った。
「これからはうちに来なよ。――迎えに行く」
 来なかった。
 魔追は来なかった。
 辜露の知る魔追は約束を破るような人間ではない。だから、何か事情があったんだろうと思いはした。実際にメールが来た。なのに、辜露はその次の朝、いつもより早くに家を飛び出していた。あのまま待っていれば、魔追は来てくれただろうに、そうしなかった。あの時も、そうだ、辜露は逃げたのだ。
 また次の朝も、辜露は早くに家を飛び出した。昨日の今日で顔を合わせられるほど辜露は図太い神経をしていない。初めは咎めた気も、なのに教室に着いたら晴れ晴れとしていた。一大事を成しえたかのような達成感があった。また早くに登校しよう。月音ともっと仲良くなったし、またお姫様抱っこをしてもらうんだ。そう浮かれて、放課後校舎を出たら、追夢がいた。
 つい隠れてしまい、そのまま盗み聞きをして、魔追が休んだことを知った。
 辜露は一気に突き落とされた。浮かれからの落差は激しかった。
 慰めてほしかった。
 このずたずたの心を労わってほしかった。
 心配されるべきなのは魔追なのに。魔追に無理をさせたのは辜露なのに。
 辜露は魔追に慰めてほしかった。
 その代わりを月音に求めた。月音は、もしかしたら前から気付いていたのかもしれないが、いつも通り辜露を辜露として扱ってくれた。その間だけ辜露は全てを忘れることができた。だが、今度はそこからも逃げ出した。
 どうしよう。

 今度はどこに逃げよう。

 体育座りしたまま口の片端を吊り上げ、辜露は力のない、かえって穏やかな笑みを浮かべていた。
「最悪だな、わたし……」
 時計を見たら、三十分近くも経っていた。辜露は立ち上がり、バッグを持ったままトイレに行った。鏡の前に立つ。うわあ、と声が出た。ひどい顔だ。泣いたことがばればれだった。
 顔を洗うと、個室に入り、便座に腰掛けた。バッグを抱えて体をくの字に折る。トイレは汚い。汚いがゆえに隔離されていて、静かだ。心を落ち着けるにはもってこいだった。
 昔、教室に皆と一緒にいるのが辛くてトイレにこもっていると、よく追夢が隣の個室に入ってきた。仕切りの下から本や漫画、和菓子までくれた。だめだよ、持ってきちゃと言うと、知るかと鼻で笑う気配が返ってきた。あの頃から追夢は傲岸不遜だった。気の小さい辜露はたまに度肝を抜かれたけれど、追夢のあの真っ直ぐさが大好きだった。
 目を閉じる。
「だめだよ、つーちゃん」
 ゆっくりと瞼を押し上げる。失望にため息をついていた。仕切りの下に隙間はなかった。寂しさがこみあげてきて、思った以上に自分は追い詰められているのだとこの時初めて認めた。認めざるをえなかった。
 もう、帰ろう。
 個室を出る。もう逃げ場なんて、あの薄暗いおんぼろアパートしかなかった。唇を結び、俯きながらトイレを出た。
 階段から大きな影が飛び出したのはその時だった。 
「まーくん……つーちゃん……?」
 魔追は辜露に気付かず、教室とは反対の方向へと走っていった。ちらりと見えた横顔は険しく、話しかけるのはためらわれた。突っ立っているうちに、廊下の向こうから何か豪快な音がした。思わず首を竦めた辜露の耳に、階下から別の足音が届く。反射的に隠れると、現れた金髪の転校生は魔追の後を追っていった。辜露も続こうとして、寸前で思いとどまった。
 行って、なにをするつもりだ。
 だいたい、どうして魔追が急いでいたのか分からないのに、首を突っ込んでもいいものなのだろうか。それがしかも、勝手に避けて逃げ回っている奴なのに。いいわけがない。許されるはずがない。
 辜露は胸元を掴みあえいだ。どうしてこんなに苦しんだろう。痛い。痛い。
「誰か……」
 いつもそうだった。魔追に助けられ、追夢に励まされ、母親に庇ってもらい、そして母親は過労で入院した。辜露は自分が守る番だと張り切り、父親の噂でモデルの仕事を続けられなくなると、全ての責任を父親に転嫁した。今でもたまに気まずく感じることがある。辜露はそうやって自己を守り、代わりに他者や大事なものを犠牲にしてきた。
 
 やめないと。
 でも、どうやって。
 
 呻き声が聞こえた。腹にパンチを食らい、肺の中の空気が一気に絞り出された音。
「つーちゃん……?」
 足が前に出る。辜露はびくりと震えたが、ぐっと歯を食い縛り、そろそろと進んでいった。悲鳴が終わるころに、辜露は司書室の前にたどり着いた。扉にくっつき、耳をそばだてる。追夢の声がした。随分と長いこと聞いていなかったような気がした。
 追夢と、それから魔追の口からは知らない言葉がぽんぽん飛び出した。花粉だとか感染だとかそんごだとか、辜露の知っている意味では全く通じない。何かの隠語だろうかと思ったが、ネット契約のある携帯電話ではないので調べられなかった。そのうちに追夢がいなくなり、室内には魔追と転校生が残されたようだった。
「――でも本当、無理するなよ。この前倒れたのって、ユメミが原因なんだろ?」
「――ああ、うん……」
 辜露は身を乗り出していた。知りたい。魔追はあの日のことを、辜露をどう思っているのか。
「――オレと追夢は特殊なんだ。ユメミシが普通持ってる能力の、その半分しかないんだ。追夢には夢の中で想像したことを形にする能力はあるけど、それを扱うことはできない。オレは創ることはできないけど、扱うことはできる。全くないわけじゃないんだ。でも、一方の部分が弱すぎて、だからこそオレ達はそれぞれの力に特化することができたんだ。――特化しすぎたんだ」
「――体に負担がかかるんだな。想像の力が、体に影響を与えてくるんだ」
「――そう。特にオレは、激しいから」
「……ええと?」
 これは本当にあの時の話なのだろうか。それにしては辜露のこの字も出てこない。半ば混乱に陥っていると、いきなり怒鳴り声がした。
「――誰だっ!」
 扉ががたんと揺れ、反射的に跳び退る。慌てて階段の方へ引き返し、角に滑り込んだ直後に扉が開いた。口を両手で塞ぎ、じっと息を殺す。やがて、扉の閉まる音がして、辜露は大きく息を吐き出した。そうしてから、やっと我に返った。
「わたし……なにしてるんだろ」
 盗み聞きをして得られたものは結局なかった。どうせなら隠語だけでも記憶しておけばよかったのだろうかと考えて、そうじゃないと膝の上で何度も手を組み替える。こうしてうじうじしてるならどうすればいいか考えろと脳は言うけど、そんな言葉を吐き出すことしかしなくて全く役に立たない。そもそも、どうしてまた盗聴なんて真似をしたのだろうかと追及はさかのぼり、辜露は顔を歪めた。
 さっさと逃げとけばよかった。
 辜露だけが知らない言葉があるということは、辜露だけが除け者にされているということにほかならない。辜露と魔追達の間には絶対的な距離があって、辜露はひょっとするとたんなるお友達以下の存在で、辜露がいなくなっても誰も気づかない。見向きもされない。辜露は一人ぼっちだ。どこにも辜露はいない。やっと居場所を見つけても、ふと下を見れば今にも切れそうなぼろぼろのロープがあって、辜露はいつまでもその上でふらふらと揺れている……。
 あまりの恐怖に身震いし、顔面を手で覆った。鳥肌が立っている。見離されるということがどれほど恐ろしいことか、辜露はよく分かっていたはずなのに。
「いやだよ……そんなのいや……」
 いつの間にか言葉があふれていた。辜露は頭を抱えて駄々っ子のように首を振った。再び視界が歪んだ。
 嫌だ。
 一人なんて嫌だ。耐えられない。
 ……耐えなくていい、と追夢の声が聞こえた気がした。
「いだだだだっ!? いたいっ! 追夢いたいっ! ごめんっ! でも、食べてない!」
「つ、つーちゃん、やめて。まーくん、いたいって」
 楽しみにしていた新作和菓子を何者かに取られ、怒り心頭に発した追夢がまず疑うのはたいてい魔追だった。部屋に殴り込み、背後から両の耳たぶを引っ張る。
「つーちゃん、やめてってば。つーちゃんだって、やられたらいやでしょ?」
「いやだ」
 即答だった。辜露が逆に言葉に詰まると、追夢はにやりと口角を吊り上げた。
「いやだったら、やり返すなりすればいい。耐えることなんかない」
「そうだね、つーちゃん……」
 同じ人間なんて一人もいない。好みだって考え方だって千差万別だ。魔追が辜露を見ていないのも、辜露が魔追だけを見ているのも、その違いがあるからこそだ。だが、それに甘んじることはない。気持ちは変わるものだ。それを願ってはいけないだろうか。そして、そのために動くのも駄目なのだろうか。

 暖かい陽気の中、目を瞑る。世界が暗転し、黒い魔物が口を開けた。
「夢は希望だ。だから、離しちゃだめだ。でも、頼ることはできない。形が無いから」

 そうだね。
 そうやってあなたはいつもわたしに優しさを分けてくれて、そのおかげでわたしは前に進むことができた。

「夢も現実も、全部ひっくるめて、きみなんだ。だから、離すのも逃げるのもだめ。ちゃんと向き合うのが一番だと、オレは思う」

 離さないよ。ううん、離せない。わたしはこの痛みから逃げられない。向き合いたい。自分とも。あなたとも。

 まーくん。
 どうして、そんなに優しいの?

 あの時、あなたは首を振ったね。
 首を振って、わたしから目を逸らした。
 まーくんにとって、わたしはたんなる知り合いかもしれない。でも、わたしはまーくんのことをよく知っている。だから、自信を持って言える。まーくんはわたしを見なかった。ひどい。でも、許してあげる。

 だから、ねえ。


 あなたは、まーくんですか?



 さあ イマ こ   そ



 全てが薄墨に沈み、溶けるように魔物は消えていった。その向こうから一つ一つベールを剥がしていくように、ぼんやりとした影が近づいてくる。影には足がある。二本の足で直立し、こちらに向かって歩いてくる。そして二本の腕があった。右肩に担いでいる何か大きなものを右手一本で持っていた。
 辜露は胸に手を当てた。素肌の下で心臓がどくんどくんと動いているのを感じた。まだ速くなる。影の輪郭がはっきりしていくにつれ、激しく脈打った。とうとうあの瞳の色が現れた時、辜露は息をすることすら忘れていた。
 いつもの学生服姿だ。指定のスラックスに青色のベスト。どこにでもいる高校生。なのに、剣の形をした装飾の凝っているオブジェを持っていて、どこかぎこちなさを感じさせる。しかし、あの赤い目とは不思議なくらい似合っていた。
 口が開いた。
「あー……」
 飛び出したのがあまりにも間の抜けた声だったから、辜露はあっけにとられ、次に思いっきり噴き出した。腹を抱え、体を折って声を震わす。魔追はもともと僅かに赤かったのがゆでだこのようになり、ぷいとそっぽを向いた。そのしぐさが可愛くてまた笑う。ようやく収まってきて、辜露は謝った。
「ご、ごめん。ごめんね、まーくん」
「あ、いや、いいよ。気にしないで」
 それより、と魔追はちらりと視線を下に向け、すぐにそむけた。辜露は首を傾げ、それから自分の格好に気付き、耳の先まで真っ赤になった。辜露はよくある人魚の姿を、つまり胸を貝殻のようなもので覆っただけの格好をしていた。しかも、下半身は完全な魚で、感覚的に違和感はない。あの時と同じ、夢なのだと遅れて気が付いた。
 魔追はオブジェを下に突き立てると、自分のベストをつまんだ。
「……これ、着る?」
 辜露はぶんぶん首を振り、胸元を隠すように腕を組んだ。それから、ひょっとしてこれはチャンスだったんじゃないかと少しだけ後悔した。どうせ夢の中なのだから、なにをしたって平気なはずだ。直接的行動に出るということではなくて、少しぐらいお得な事なら許されるだろうという意味でだ。

 本当に?

 辜露は赤い頬を掻いている魔追を見た。
 
 これは本当にただの夢?

 ユメミシ。
 唐突に魔追の言葉を思い出した。
 
 ――夢視師。

 ここには夢も現実も、辜露の全てがあった。

「まーくん……」
「ん、なに?」
 魔追は何故か緊張しているようだった。辜露もだった。それでも魔追の目を見つめ、脳内でずっと繰り返していたあの質問を投げかけた。
「どうして、そんなに優しいの?」




 その瞬間、世界が止まった。




 うたいましょう ユメのように




「えっ……?」
「どうしたの、まーくん?」
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