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くり

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第一部 罪人の涙

罪人の憤怒 4

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「どうして、そんなに優しいの?」

 途端、魔追の目が驚いたように見開かれた。
 辜露の質問の意図が分からなかったからではない。そうではなくて、もっと純粋な驚き――まるで夢から覚めたかのような表情で固まって、辜露は嫌な予感がした。
「ま、まーくん?」
「あ、――ごめんごめん。大丈夫だよ」
 魔追は慌てたように笑顔を取り繕い、近寄ろうとする辜露を制するように手のひらを向けてくる。
 それで辜露は悟ってしまった。
「……本当に、大丈夫?」
「うん」
 にっこりと、隙のない笑顔。もう、どこまでもいつも通り。
 魔追は申し訳なさそうに後頭部を掻いて、辜露を見た。
「えっと、で、なんだっけ?」
「……うん。その、どうしてまーくんはそんなに優しいんだろうって……」
 段々と尻すぼまっていく言葉。辜露はいつの間にか震えていた。爪が食い込んで痛みを訴えるほどに手をぎゅっと握りしめていた。
 悟らざるをえなかった。
 だって、そうするしかないじゃないか。
 こうして面と向かっても拒絶されるのなら、それはもう覆されることはない。魔追は優しくてお人好しだが、頑固でもあるのだ。そして、その頑固さは優しさでもある。それを覆せるだけの力も、覚悟も、辜露は持たなかった。
 本当は振り向いてほしい。辜露の声だけでも聴いてほしい。なかったことになんかしないでほしい。
 でも、それ以上に嫌われたくない。
 魔追はそんなことをしないと分かっているけれど、それでも付きまとう不安は、辜露をおしとどめるのに十分だった。
「オレ、そんなに優しい?」
 魔追がきょとんと首を傾げる。辜露も無理矢理口角を上げて、大きく頷いてみせた。
「うん。すっごく、優しい」
「そっか。みんなのおかげかな」
 魔追は感じ入るように目を閉じた。また目を逸らしているのだろうか。ただ、今は視線が合わなくてほっとした。
「人に優しくするのは当たり前だって前に言ったけどさ、それって要は自分に余裕があるってことなんだよな。辜露とか追夢とか父さん母さんがいるから、オレはこんなにも笑っていられる」
「わたしも?」
「うん。だってさ、」
 その瞬間、辜露はナイフで胸を抉られたような心地がした。
「辜露は、もう一人の妹みたいなもんだもん」
 魔追は目を開ける。奇妙なほどに凪いだ、穏やかな瞳だった。
「ありがとう」
 それは一体どういう意味のありがとうなのだろう。日頃のお礼なのか。魔追の意をくんで黙ったことに対する謝罪なのか。
 どちらにせよ、これはないだろうと思った。我慢して、さらに女としても見られないなんて、これほど残酷なことがあろうか。こんな目に遭うのなら、振り切って無視してでも思いを吐露してしまえばよかった。今からでも遅くはない。叫べばいい。声の限りに叫びだして、いっそのこと困らせてしまえ。だって、辜露ばっかり我慢するなんて、そんなのフェアじゃないじゃないか。困ってしまえ。困って、魔追の頭の中から辜露のことが離れなくなっちゃえばいいんだ。
 大きく息を吸い込んだ。
 喉が、吸い込む空気がひりひりと震えた。
「どう、いたし、ましっ、て……」
 結局、出てきたのはひり出したかのような潰れた声だけだった。
「こ、辜露?」
 ぎょっと目を剥いて魔追は辜露の顔を覗き込んでくる。いぶかしむ間もなくハンカチを差し出され、反射的に受け取る。幼稚園の頃によく使っていた戦隊物のハンカチ。裏には確か、『たんぽぽぐみ かみおりみやまおい』の文字。それが何故かにじんで見えて、ようやく辜露は自分が涙ぐんでいることに気がついた。
「使って」
「だ、大丈夫、ごみが入っただけだから」
「だったら、なおさら使った方が」
「平気だって」
 それは本当だ。にじんだだけで何も落ちてこない。あんなに必死だったのに、きっと、泣くほどのことではなかったのだ。そうほっとすると同時に、胸がずきずきと痛んだ。あまりの矛盾にどうしたらいいのか分からなくなって、ぐいとハンカチを突き返した。
「ありがとう」
「……うん」
 ハンカチなんていらない。
 必要なのは距離だ。
「帰ろ、まーくん」
 ハンカチを返すとすぐさま手を引っ込める。魔追は所在なさげにハンカチを両手で握っていたが、やがて力なく頷いた。まるで、辜露に傷つけられたかのような顔だった。ずたずたなのはこっちなのに。
 ふわりと浮上していくような感覚が、ふいに辜露を包み込む。そういえば、辜露は屋上に忍び込んで、そこの貯水槽の影で居眠りしてしまったのだった。眉間に皺が寄って、すぐにほぐれる。二人きりではない。追夢もいる。
 少しだけ安心したら、無性に悲しくなった。知らず知らずのうちに口が動いていた。


「……――」


 重い瞼を押し上げると、そこには追夢の顔があった。
「つーちゃん……」
「おはよう、辜露ちゃん」
「おはよう……?」
 差し出された手を握ったら、ぐいっと引っ張り起された。立ち上がると、制服のほこりを払ってくれる。やけに暗いなと思って首を仰向けたら、頭上には月があった。夜だった。暫し呆然とし、それからあっと叫ぶ。
「どうしよう、バイト!」
「電話しといたよ。体調崩して倒れちゃったって。あとでもう一回連絡して」
「あ、ありがとう」
「礼ならあっちに」
 追夢の後に続いて貯水槽の隙間から出ると、そこに一人の少女が待っていた。黒のショートカットにワインレッドのカーディガンが鮮やかな少女だ。月光の下で透けるように白い肌が浮かび上がっている。辜露はぽかんとして彼女を見つめた。
「こんばんは」
「こ、こんばんはっ」
「岩倉テラです。よろしく」
「ふ、深海辜露です」
 手を差し出されて握手する。すべすべしていて長い指だった。手を解くと、テラは傍らに立つ金髪の女の子を示した。さらさらとしたツインテールが顔にかかり、ただでさえ眩しい笑顔をさらに華やかにしている。
「妹です」
「ルナです! 小学五年生です! よろしくお願いします、辜露おねーさん!」
「お、おねーさん……?」
 こんなにかわいい子から呼ばれて、あまりの威力に辜露はぐらっとよろめいた。それにしてもきれいな姉妹だ。辜露は寝起きの延長のぼんやりとした頭のまま口走ってしまった。
「月と太陽の化身、じゃなくて、女神さま……?」
「?」
「ふえ?」
「あっ、やっ、なんでもないです!」
 真っ赤になって手と首を勢いよく振ると、テラとルナはにっこりと笑みを深くする。ますます恥ずかしくなって追夢に助けを求めたら、にやにやと親指を立てられた。
「ひどいよ、つーちゃん!」
「おもしろいもんはおもしろい」
「もおおおおっ!」
 追夢の腕を掴んでぶんぶんゆするが、こんなものでは堪えるはずもない。よしよしと逆に頭を撫でられて、辜露はぷすーっと頬を膨らませた。
「それより、辜露ちゃん、平気? 首痛めたりとか、怠いとかない?」
「あ、うん、大丈夫……。つ、つーちゃんは?」
 自分がここに忍び込んだ理由を思い出して問いかけると、追夢はにこやかに目を細めて首を振った。いつもは傲岸不遜で誰に対しても不機嫌な追夢が向けてくれる、自分だけの優しい笑み。辜露だけの、特別な。
「私はもっと前に目が覚めてたから。辜露ちゃんの寝顔をスマホで撮って待ってただけだし」
「えっ! だったら、もっと早く起こしてくれればよかったのにっ」
「撮ったのはいいんだ」
 そうすれば、バイトにもまだ間に合ったかもしれない。だが、追夢は真顔になって、辜露をなだめるように頭を軽く叩いた。
「だめ。起きないってことは、休息が必要ってことなんだよ。辜露ちゃん、どうせ食費のほうとかもまた切り詰めてたんでしょ」
「うっ」
 完全に図星でつい呻いてしまう。しかも、最近は魔追のことも気にかかったり、早く早く家を出ようとして余計におざなりになっていた。食費のほうも、と言うということは、そんなところも追夢にはお見通しなのだろう。
 そういえば、魔追はどこに行ったのだろうか。
 追夢と一緒に寝ていたはずの魔追、それに転校生の姿がどこにも見えなくてきょろきょろと見まわす。もう一人の女子生徒はフェンスにもたれかかっていて、辜露が目を向けるとちらりとけだるげな視線をよこした。慌てて、追夢に視線を戻した。
 追夢はため息をついた。
「あいつらは先に起きたから、帰りのルートを確保しに行った」
「そう、なの?」
「今日は、みんなお休みなの。だから、だれにも見つからないようにこっそり帰るんだって」
 辜露が追夢の腕を掴んでいるのを真似してか、それとも対抗か、ルナも追夢の腕にしがみつきながら辜露を見上げて言う。そうだ、学校も休んでしまったんだ。ただでさえ、奨学金で通っている身分なのにどうしようと辜露は青くなって、すぐにぶんぶんと首を振って切り替える。追夢が休息が必要だと言った。だったら、今日休んだ分、これから挽回していくしかない。
 ふんと鼻息を荒くする辜露に、追夢は呆れたように呟く。
「ほんと、辜露ちゃん、そういうことだけは切り替え早いよね」
「へ?」
「なんでもないよ?」
「つーちゃんのその笑顔の時は、大抵何でもなくないんだよ……」
 じっとりと胡散臭い笑顔と睨めっこをしていると、ぽこんと軽やかな音が鳴った。謎の女子生徒がカバンからスマホを取り出した。
「金豚からよ」
「いいって?」
「ええ」
 小さく首肯して、フェンスから身を起こす。
 もう帰ってもいいということなのかと校舎への扉に向かおうとすると、追夢にぐいと引き留められた。
「待て待て」
「違うの?」
 きょとんとする辜露に答えたのは女子生徒だった。
「一昔前とは違うのよ。特にうちは私立。そこいらの公立よりも防犯意識は高いし、金もある。今の時間帯はもうセンサーも動いてるから、そうすると校舎だけでも出入り口には防犯カメラ、窓にはセンサーがついていて、一度中に入ったら戻れない。死角にも当然カメラがあるから、そうなるとなんとかしてどこかの教室に隠れて夜を明かすしかないわね」
「詳しいんですね……」
 驚きを通り越して感心し、思わず拍手する。追夢がぼそりと言った。
「常習犯だしな」
「ええっ!?」
「うちの学校は大学と併設しているだけあって、書庫が充実しているのよ。それを利用しないなんて、どうかしてるわ」
「えええっ……?」
 あまりのすがすがしさに辜露は僅かに引く。本への情熱が空回りしているようにしか見えないのは、辜露だけだろうか。見ると、テラとルナもきょとんとしていた。
「ええと、じゃあ、校舎には入れないとして、どうやって帰るの?」
「迎えが来る」
「迎え?」
 首を傾げた直後だった。
 何かの影がさっと視界を横切る。振り向くと、何か細長いものがフェンスの向こう側から飛だしていた。辜露は後退った。それはくねくねと蛇のように身を捩じらせているが、明らかに日本の蛇のサイズとは違う。しかも、その先端には球体に近いがそれとは似て異なるものがついていて、まるでほつれた髪のようなものが風になびく。ぐねぐねと何かを探すように不自然な動きを繰り返した後、それはこちらを向き、突然一直線になって、もう、あっという間に、目の前に、

 生首が。

「きゃああああああああああっ!!」
 辜露は逃げようとして追夢にがっしりと腰を捕えられ、そのまましがみつき返した。必死になって追夢の首に腕を回しているのに、追夢はぐいぐいと前に押し出そうとしてくる。辜露はもうパニックになって、追夢の肩にぎゅっと爪を立てた。
「きゃああああ! いやあああああ! つーちゃああああああああんっ!!」
「おー、よしよし」
「辜露ちゃん?」
「つーちゃんつーちゃんつーちゃんんんっ!」
「いや、分かったって」
「辜露ちゃん、あたしですよ」
「つーちゃ」
「辜露ちゃん、れい子です」
「れい子さんっ、え?」
 ぐすぐすと鼻を鳴らしておそるおそる追夢の肩から顔を上げると、そこにあったのは、まぎれもなくれい子の首だった。むしろ、髷の女性なんてこの町ではれい子しかいない。この町どころか、京都にでも行かない限り滅多に見られるものではない。辜露は目を丸くして、暫し固まった。
 れい子は笑いをこらえる追夢を見て事情を察し、眉をハの字に下げた。
「辜露ちゃん、言っておかなくてごめんなさいね。あたし、ろくろ首なんですよ。夜になると、首がこう、伸びるんです」
「ろくろ首」
「はい。驚かせてしまって、ごめんなさい」
「そ、そんな、こちらこそ、すごく騒いじゃってごめんなさい!」
 金縛りが解けた途端に辜露は勢い良く頭を下げた。そっと上目遣いに窺うと、れい子は穏やかな瓜実顔をさらに優しく微笑ませていた。それで、本物なのだとようやく納得した。まだ首が伸びている光景には慣れそうになかったが、心臓のどきどきはかなり落ち着いていた。
 れい子はもう一度微笑んでから、追夢に向き直った。
「魔追くんとノアくんから話は聞きました。あたしもこんなことは初めてなんでどうなるかは分からないけど、とにかく一人ずつ順番にやってみましょう」
「ありがとう。お願い」
「向こうでノアくんが待ってます。まずは、ルナちゃんから行きますか?」
 れい子の首がルナを向く。ルナは元気よく手を上げようとして、テラに止められた。
「私が行きます。初めてなら、私が多分一番バランスもとれるから、何かあっても大丈夫だと思います。ルナじゃ不安だし」
 それには言外に追夢達のことも含まれていたが、れい子は一理あると了承して、まずはテラから行くことに決まった。
 背の高いフェンスをテラは軽やかに乗り越える。わたしは無理だな、とそんなことをぼんやりと思って、辜露ははっと我に返った。
「あの、れい子さん」
「はい?」
 急いで呼びかける。今にも行こうとしているのに申し訳ないと思いながらも、これだけは聞いておきたかった。
「あの、まーくんは、いるんですか?」
「……いいえ」
 れい子は首を振った。
「追夢ちゃんにお尻を蹴られたとかでよろよろしていたので、先に返しました。あまりにも見ていられなかったので」
「そう、ですか」
 なぜだか複雑な気持ちになってとにかくそう返すと、追夢に手を握られる。もう反対側はルナに握られた。
「辜露ちゃん、帰ったらいろいろ説明してあげる。今日は辜露ちゃんちに泊まってもいい?」
 長くなるからと言うと、ルナまでもがうんうんと首を振っていた。それがかわいくてつい笑ってしまう。いいよと言うと、追夢はほっとしたように手を握り直した。
 ああ、これで、やっと私も仲間に入れてもらえるんだな。
 辜露もそっと手に力を込める。二人とも敏感に気付いて、同じように返してくれた。今朝まではものすごく嫉妬していたのに、今ではこんなにも嬉しくて、そして頼もしい。

 ああ、よかった。

 ほんっとうに、よかった。




 これで、まーくんとのあれも、夢だったらよかったのに。







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