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第一部 罪人の涙
罪人の憤怒 4.5 ―脱出の裏側
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「──っ、」
上昇。
途端に襲いかかったのは、臀部の異常な痛みだった。
「いっ──たあああああああああああ!?」
目が覚めるなり、魔追は起き上がることもできずにうつ伏せのままじたばたともがく。痛い。痛すぎて尻が熱を持っている。制服のスラックスが当たるだけでもじんじんじわじわして、痛みを通り越して麻痺してきた。
なんだ。どういうことだ。一体、何が……。
半ば四つん這いの体勢でひいひい言っている魔追の前に、誰かがひょいとしゃがみこんだ。
「おはよう、魔追くん」
「お、おはよう……ノア」
なんとか顔を上げると、ちょうど鮮やかなオレンジ色の西日が当たって、ノアの金髪を燃えるように輝かせていた。眩しさに目を眇めながらも、ノアが申し訳なさそうなくせに、人の不幸を見て笑うかのように口元をぷるぷると震わせているのをしっかり確認した。
「おい」
「いや、だってさ。追夢ちゃんが」
「……」
その言葉だけで全てを察する。なんともまあ、便利な魔法の言葉である。ただし、黒魔法だが。
あの時、追夢は魔追の夢に入ってアリスを退治してくれた。であるならば、当然、魔追の選択も知っていて当然である。
「……」
一気に気分が元通りに急降下して、魔追はべったりとコンクリートに転がった。枕代わりにか、頭の所にだけノアのパーカーが畳んで置いてあった。
もう一度、顔を上げる。
「ノア」
「うん?」
「ただいま」
「おう、おかえり」
ノアはにっと笑った。
それだけでも、救われたような気がした。
頬に書かれたカバンクイオマ教のおまじないにそっと触れた。
「うっ、ゴフォッ」
「な、なんだよ!?」
突然咽せたノアに驚いてのけぞると、ノアはなんでもないと首をぶんぶん横に振る。
訝しく思って詰問しようとしたら、まだあつあつのお尻に何かがどっすんと落ちてきた。
「いぎゃああ!」
「うるさい、この唐変木」
追夢は人の尻を座布団にしただけでは飽きたらず、腰の上に移動して再び尻をばしばし叩き始める。
「いだいっ、いだいっ! ちょ、もう勘弁して、まじで!」
「何が勘弁だ、このへたれへなちょこへっぽこ。ずっと一発蹴ってやりたいと思ってたんだ、このぐらい我慢しろ」
「一発じゃないじゃないか! しかも、オレが起きるより前に何発もやってるよな!?」
「それは、辜露ちゃんの分だ」
「っ」
瞬時に喉が詰まって、何も言えなくなる。
魔追が動かなくなると、反応がなくなったのがつまらなかったのか、追夢は叩くのをやめてどっかりと尻に腰掛け直した。
「追夢ちゃん、あの子はどうしたの?」
ノアが代わりに訊くと、追夢はむっすりしながらも寝てると答えた。
「今回の夢視はちょっと特殊だった。だから、今は普通に睡眠を取ってる」
「ふうん?」
ノアは分かったような分からないような曖昧な相槌を打って、
「つまり、起こしちゃだめってこと?」
「そういうこと。今はテラとルナちゃんが見てくれてる」
「なるほど」
ノアは頷いて立ち上がった。
「だってさ。──どうする、美伽ちゃん」
「え?」
動けないながらも首を回すと、校舎内に続く扉の脇に美伽が腕組みをして立っていた。
「あ、本間さん……。いたんだ」
「失礼ね。神居宮」
ちらりと見下ろされて、魔追は慌ててすいませんと謝る。
「ほら、てっきり、先に帰ってると思ってたから」
「私だって、あんたのせいで欠席扱いなのよ。無駄に警備体制が整ってるのが私立の難点ね。下手に動けやしない」
「す、すいませんでした……」
コンクリートに這いつくばったまま平身低頭する魔追。美伽はしばらくそれを見下してから、ノアに向き直った。
「もうすぐ部活動も終わりだす頃だから、今のうちに出た方がいいわね」
「人波に乗った方がばれないんじゃないのか?」
「門には先生が出てくるわよ。第一、人波に紛れるような人間がここにいるの?」
「……いないな」
神居宮兄妹はその赤目で有名だし、ノア達に至っては金髪や中二病感溢れる眼帯である。美伽も図書委員長として、それなりに知られている。
美伽は追夢を見た。
「あの子が目覚めるまでどのくらいかなんて、分からないわよね」
「さすがに、それはね。でも、れい子が来てくれれば、なんとかなる」
「れい子?」
「れい子はろくろ首だ。ここはそんなに高さがないし、たぶん届くと思う」
「……へえ」
美伽はややあってから、それだけ返した。気にしないことにしたらしい。
「それなら、代表して一人か二人が先に出て、その人をカメラに見つからない場所に案内してもらいましょう。口頭だけだと難しいから」
「んー、てことは美伽ちゃんと誰かってこと?」
「はっ?」
途端、美伽は心底信じられないという顔でノアをまじまじと見つめた。
「どうして、私が行かなきゃいけないの」
「え? だって、口頭じゃ伝わらないんだろ?」
「今、教えるわ。それを覚えて行きなさい」
「えっ──めんどくさくない?」
「何のために言葉と文字があると思っているの。それに、人間には地図という伝達手段もある。それを活用しないなんて、とんだ呆れた話だわ。宝の持ち腐れにする気?」
「いやいやいや、美伽ちゃんが行ってくれれば一発じゃん!」
「適材適所の問題よ。私はみんなに解決法を提示する。神居宮妹が折衝役として話をまとめる。あんたはそれを実行する係」
「それ、美伽ちゃんが動きたくないだけじゃ……」
「違うわね。先生に見つからないように行動するには、普通に考えても男であるあんたの方が適材よ」
「ああ、分かった分かった。つまり、美伽ちゃんは自分じゃ見つかる恐れがあると」
「たぶん、あんたでも見つかるわね」
「……おい」
半目になるノア。美伽は肩を竦めた。
「だって、しょうがないでしょう。階段を下りたらすぐ目の前に職員室があるのよ。しかも、生徒指導の滝本が社会科準備室とを頻繁に往復する。金髪なんて格好の餌食でしょうね」
「それじゃあ、ますます美伽ちゃんの出番じゃないか」
「そして、少なくとも自分の担当である三年の遅刻欠席は把握している」
「……追夢ちゃんは」
「私は欠席が多くて目を付けられてるし、そもそも体育なんて消滅してしまえと思ってる」
「あ、終わったな……」
ノアが遠くを見やると、示し合わせたかのように風がひゅるると吹いていった。
魔追は脳内に校舎の図を浮かべる。
確かに、普通に昇降口まで行こうとすると、どうしても職員室の前を通ることになる。特別教室棟を回ろうとしても、滝本のいる社会科準備室が微妙な場所だ。そもそも、特別棟の方が音楽系部活動の生徒が多くて、その分顧問の出入りも激しい。それなら、人の流れが一方だと確定している職員室側の階段からの方が見つかる確率は低い。ただし、それは低いだけであって、見つからない保証はない。見つかったが最後、職員室に連れ込まれて説教ルートだろう。
より安全を期すのならば、別のルートを採るということになる。
「まさか……」
魔追が呟くのと、美伽が言うのはほぼ同時だった。
「だから、職員室の上の階で、窓から外に出ればいい。ちょうど雨樋がいい感じに飛び出しているところがあって、そこなら人目やカメラにも見つからずに下まで下りられる」
「……は」
「でも、スカートなんて履いてたらできないから、やっぱりあんたで正解なのよ。金豚、そう呼ばれたくなかったら、少しでも脳味噌の脂肪を落としてきなさい」
「……いやいやいや、いや、ちょ、えええええっ!?」
ノアはぎょっと目を剥いて、ずざざっと後ずさった。
「待って待って、それおかしい! それこそ見つかったら説教どころじゃないし、ていうか落ちたらどうすんだよ!?」
「そのくらいの高さなら大丈夫でしょう。それに、案外安全に下りられるわよ」
「試したことあるのかよ! なら、美伽ちゃんが行けよ!?」
いつになく声を荒げるノアに、魔追は思わず美伽をほうと感心して見てしまった。ノアはひょうひょうとしていてノリがいいが、やはりどこか一線を引いたところがあると魔追は感じていた。どういうわけか、魔追にはほぼ始めからその線がなかったのだが、美伽にもどうやら同じ──または振り回されている──ようだった。
本音で語り合えるのはよいことだとほんわかとしていたら、いつのまにか標的は魔追に変わっていた。
「それに、なにも一人で行けとは言っていないわ。監視役に神居宮でも連れていけばいいって言ってるでしょう」
「んん?」
「それはまあ、当然連れていくけどさあ、それとこれとは別だろ」
「え? 当然? え?」
「そんなことないわ。神居宮は夢の中ではもっとアクロバティックに動いてる。現実の体の方も十分についていけるはずよ」
「だから、そうじゃなくてね? 一番説明のできる美伽ちゃんがどうして行きたくないなどと我が儘を言うのかってことよ」
「そんなの、当然」
美伽の視線がいきなりこちらを向き、魔追は慌てふためく。
「あんたたちのせいで欠席になったからだって言っているでしょう。ねえ、神居宮」
「あ、は、はいっ」
つい答えてしまい、ノアが仰け反って叫んだ。
「魔追くん!!」
「だ、だって!」
「だってじゃないよ、なに答えちゃってんのよ魔追くんはもう! 美伽ちゃんに強制就寝してもらったのは確かに魔追くんの責任だけどさあ、先に帰んなかったのは美伽ちゃんがのんびりしてたせいだからな!?」
「なによ、神居宮のことを心配して残ってあげたんじゃないの」
「え、それならなおさらオレが……」
「騙されるな、魔追くん。美伽ちゃんはそう言って、ずっとここでのんびり本を読んでいたんだ」
「で、でも、警備があったから抜け出せなかったって」
「だからあ──」
なおもノアが言いつのろうとした時、それより早く美伽が大きな溜め息を吐いた。
「分かったわよ。そんなに嫌ならそう言えばいいじゃない」
「み、美伽ちゃん」
「お望み通り、行ってくるわよ。全く、とんだ一日だったわ」
「待って、本間さん、オレ、オレが行くから!」
魔追はいまだに人の上にふんぞり返っていた追夢を強引にどかし、ノアの制止を無視して、急いで立ち上がった。このままでは美伽に不快な思いをさせたままになってしまう。それは困るのだ。何がどう困るのか、自分でもよく分からなかったが、とにかく魔追は必死に追いすがった。
美伽はドアノブを掴んだまま、ちらりと首だけ振り向く。
「あんた、一人じゃまともに動けないでしょう。せめて運動のできる奴がついてないと」
「でも、本間さんだけよりはずっと動けると思う」
「確証のないことを言うんじゃないわ」
「……でも、オレはこれ以上本間さんに迷惑をかけたくない」
「……」
美伽は試すようにすっと目を細める。
それでも魔追は、美伽から手を離さなかった。
「あー、もう……」
先に折れたのはノアだった。
「分かったよ、完敗だよ。てか、魔追くんアホすぎだよ」
「ご、ごめん」
がしがしと頭を掻きながらノアは鞄を取り、美伽のを代わりに置く。
「美伽ちゃん、これで満足かい」
「ええ」
魔追はあっ、と目を見開いた。
にやりと、美伽はそれはそれはご満悦な笑みを浮かべていた。
「じゃあ、よろしく」
そう言って魔追とノアは放逐され。
「魔追くん、いいぞ。こっち、あああ、ストップ戻れ戻れっ」
「あ、待って待って、落ちる落ちる!」
「えっ! ふざけんないててて、うわあ!」
「「アーッ!!」」
それは、よたよたと尻を庇って動く魔追には非常に過酷な道のりなのであった。
後はノアとれい子が見てくれると言うので、魔追はありがたく先に帰らせてもらうことにした。
「いたたたた……。うう、もう二度とやるもんか、いてて……」
文句を言いながらも、なんとか無事に家までたどり着く。
玄関を開けると、もう完全に日が落ちたからか、珍しく妖追が直々に出迎えてくれた。
「おお、帰ったか、魔追……」
「?」
妖追は近寄ってくると、框の上から魔追をまじまじと見下ろしてきた。
「……」
「妖追?」
「……ブフォ」
至近距離で唾を吹き掛けられた。
「うおっ、うぇ、なにすんの!?」
「いや、すまんすまん。なんとも愉快な顔で帰ってきたんじゃなあと思うて」
「え……?」
嫌な予感がする。なんだか、非常にまずい気がする。
ばたばたと洗面所に駆け込んで、魔追は絶叫した。
「私より目覚ますの遅かったら、顔に落書きするから」
「先に帰んなかったのは美伽ちゃんがのんびりしてたせいだからな!?」
カバンクイオマ教の花丸の上にくっきりと描かれた、髭とハート、眼鏡にねぼすけの文字。
「本間さああああああああああんっ!!」
上昇。
途端に襲いかかったのは、臀部の異常な痛みだった。
「いっ──たあああああああああああ!?」
目が覚めるなり、魔追は起き上がることもできずにうつ伏せのままじたばたともがく。痛い。痛すぎて尻が熱を持っている。制服のスラックスが当たるだけでもじんじんじわじわして、痛みを通り越して麻痺してきた。
なんだ。どういうことだ。一体、何が……。
半ば四つん這いの体勢でひいひい言っている魔追の前に、誰かがひょいとしゃがみこんだ。
「おはよう、魔追くん」
「お、おはよう……ノア」
なんとか顔を上げると、ちょうど鮮やかなオレンジ色の西日が当たって、ノアの金髪を燃えるように輝かせていた。眩しさに目を眇めながらも、ノアが申し訳なさそうなくせに、人の不幸を見て笑うかのように口元をぷるぷると震わせているのをしっかり確認した。
「おい」
「いや、だってさ。追夢ちゃんが」
「……」
その言葉だけで全てを察する。なんともまあ、便利な魔法の言葉である。ただし、黒魔法だが。
あの時、追夢は魔追の夢に入ってアリスを退治してくれた。であるならば、当然、魔追の選択も知っていて当然である。
「……」
一気に気分が元通りに急降下して、魔追はべったりとコンクリートに転がった。枕代わりにか、頭の所にだけノアのパーカーが畳んで置いてあった。
もう一度、顔を上げる。
「ノア」
「うん?」
「ただいま」
「おう、おかえり」
ノアはにっと笑った。
それだけでも、救われたような気がした。
頬に書かれたカバンクイオマ教のおまじないにそっと触れた。
「うっ、ゴフォッ」
「な、なんだよ!?」
突然咽せたノアに驚いてのけぞると、ノアはなんでもないと首をぶんぶん横に振る。
訝しく思って詰問しようとしたら、まだあつあつのお尻に何かがどっすんと落ちてきた。
「いぎゃああ!」
「うるさい、この唐変木」
追夢は人の尻を座布団にしただけでは飽きたらず、腰の上に移動して再び尻をばしばし叩き始める。
「いだいっ、いだいっ! ちょ、もう勘弁して、まじで!」
「何が勘弁だ、このへたれへなちょこへっぽこ。ずっと一発蹴ってやりたいと思ってたんだ、このぐらい我慢しろ」
「一発じゃないじゃないか! しかも、オレが起きるより前に何発もやってるよな!?」
「それは、辜露ちゃんの分だ」
「っ」
瞬時に喉が詰まって、何も言えなくなる。
魔追が動かなくなると、反応がなくなったのがつまらなかったのか、追夢は叩くのをやめてどっかりと尻に腰掛け直した。
「追夢ちゃん、あの子はどうしたの?」
ノアが代わりに訊くと、追夢はむっすりしながらも寝てると答えた。
「今回の夢視はちょっと特殊だった。だから、今は普通に睡眠を取ってる」
「ふうん?」
ノアは分かったような分からないような曖昧な相槌を打って、
「つまり、起こしちゃだめってこと?」
「そういうこと。今はテラとルナちゃんが見てくれてる」
「なるほど」
ノアは頷いて立ち上がった。
「だってさ。──どうする、美伽ちゃん」
「え?」
動けないながらも首を回すと、校舎内に続く扉の脇に美伽が腕組みをして立っていた。
「あ、本間さん……。いたんだ」
「失礼ね。神居宮」
ちらりと見下ろされて、魔追は慌ててすいませんと謝る。
「ほら、てっきり、先に帰ってると思ってたから」
「私だって、あんたのせいで欠席扱いなのよ。無駄に警備体制が整ってるのが私立の難点ね。下手に動けやしない」
「す、すいませんでした……」
コンクリートに這いつくばったまま平身低頭する魔追。美伽はしばらくそれを見下してから、ノアに向き直った。
「もうすぐ部活動も終わりだす頃だから、今のうちに出た方がいいわね」
「人波に乗った方がばれないんじゃないのか?」
「門には先生が出てくるわよ。第一、人波に紛れるような人間がここにいるの?」
「……いないな」
神居宮兄妹はその赤目で有名だし、ノア達に至っては金髪や中二病感溢れる眼帯である。美伽も図書委員長として、それなりに知られている。
美伽は追夢を見た。
「あの子が目覚めるまでどのくらいかなんて、分からないわよね」
「さすがに、それはね。でも、れい子が来てくれれば、なんとかなる」
「れい子?」
「れい子はろくろ首だ。ここはそんなに高さがないし、たぶん届くと思う」
「……へえ」
美伽はややあってから、それだけ返した。気にしないことにしたらしい。
「それなら、代表して一人か二人が先に出て、その人をカメラに見つからない場所に案内してもらいましょう。口頭だけだと難しいから」
「んー、てことは美伽ちゃんと誰かってこと?」
「はっ?」
途端、美伽は心底信じられないという顔でノアをまじまじと見つめた。
「どうして、私が行かなきゃいけないの」
「え? だって、口頭じゃ伝わらないんだろ?」
「今、教えるわ。それを覚えて行きなさい」
「えっ──めんどくさくない?」
「何のために言葉と文字があると思っているの。それに、人間には地図という伝達手段もある。それを活用しないなんて、とんだ呆れた話だわ。宝の持ち腐れにする気?」
「いやいやいや、美伽ちゃんが行ってくれれば一発じゃん!」
「適材適所の問題よ。私はみんなに解決法を提示する。神居宮妹が折衝役として話をまとめる。あんたはそれを実行する係」
「それ、美伽ちゃんが動きたくないだけじゃ……」
「違うわね。先生に見つからないように行動するには、普通に考えても男であるあんたの方が適材よ」
「ああ、分かった分かった。つまり、美伽ちゃんは自分じゃ見つかる恐れがあると」
「たぶん、あんたでも見つかるわね」
「……おい」
半目になるノア。美伽は肩を竦めた。
「だって、しょうがないでしょう。階段を下りたらすぐ目の前に職員室があるのよ。しかも、生徒指導の滝本が社会科準備室とを頻繁に往復する。金髪なんて格好の餌食でしょうね」
「それじゃあ、ますます美伽ちゃんの出番じゃないか」
「そして、少なくとも自分の担当である三年の遅刻欠席は把握している」
「……追夢ちゃんは」
「私は欠席が多くて目を付けられてるし、そもそも体育なんて消滅してしまえと思ってる」
「あ、終わったな……」
ノアが遠くを見やると、示し合わせたかのように風がひゅるると吹いていった。
魔追は脳内に校舎の図を浮かべる。
確かに、普通に昇降口まで行こうとすると、どうしても職員室の前を通ることになる。特別教室棟を回ろうとしても、滝本のいる社会科準備室が微妙な場所だ。そもそも、特別棟の方が音楽系部活動の生徒が多くて、その分顧問の出入りも激しい。それなら、人の流れが一方だと確定している職員室側の階段からの方が見つかる確率は低い。ただし、それは低いだけであって、見つからない保証はない。見つかったが最後、職員室に連れ込まれて説教ルートだろう。
より安全を期すのならば、別のルートを採るということになる。
「まさか……」
魔追が呟くのと、美伽が言うのはほぼ同時だった。
「だから、職員室の上の階で、窓から外に出ればいい。ちょうど雨樋がいい感じに飛び出しているところがあって、そこなら人目やカメラにも見つからずに下まで下りられる」
「……は」
「でも、スカートなんて履いてたらできないから、やっぱりあんたで正解なのよ。金豚、そう呼ばれたくなかったら、少しでも脳味噌の脂肪を落としてきなさい」
「……いやいやいや、いや、ちょ、えええええっ!?」
ノアはぎょっと目を剥いて、ずざざっと後ずさった。
「待って待って、それおかしい! それこそ見つかったら説教どころじゃないし、ていうか落ちたらどうすんだよ!?」
「そのくらいの高さなら大丈夫でしょう。それに、案外安全に下りられるわよ」
「試したことあるのかよ! なら、美伽ちゃんが行けよ!?」
いつになく声を荒げるノアに、魔追は思わず美伽をほうと感心して見てしまった。ノアはひょうひょうとしていてノリがいいが、やはりどこか一線を引いたところがあると魔追は感じていた。どういうわけか、魔追にはほぼ始めからその線がなかったのだが、美伽にもどうやら同じ──または振り回されている──ようだった。
本音で語り合えるのはよいことだとほんわかとしていたら、いつのまにか標的は魔追に変わっていた。
「それに、なにも一人で行けとは言っていないわ。監視役に神居宮でも連れていけばいいって言ってるでしょう」
「んん?」
「それはまあ、当然連れていくけどさあ、それとこれとは別だろ」
「え? 当然? え?」
「そんなことないわ。神居宮は夢の中ではもっとアクロバティックに動いてる。現実の体の方も十分についていけるはずよ」
「だから、そうじゃなくてね? 一番説明のできる美伽ちゃんがどうして行きたくないなどと我が儘を言うのかってことよ」
「そんなの、当然」
美伽の視線がいきなりこちらを向き、魔追は慌てふためく。
「あんたたちのせいで欠席になったからだって言っているでしょう。ねえ、神居宮」
「あ、は、はいっ」
つい答えてしまい、ノアが仰け反って叫んだ。
「魔追くん!!」
「だ、だって!」
「だってじゃないよ、なに答えちゃってんのよ魔追くんはもう! 美伽ちゃんに強制就寝してもらったのは確かに魔追くんの責任だけどさあ、先に帰んなかったのは美伽ちゃんがのんびりしてたせいだからな!?」
「なによ、神居宮のことを心配して残ってあげたんじゃないの」
「え、それならなおさらオレが……」
「騙されるな、魔追くん。美伽ちゃんはそう言って、ずっとここでのんびり本を読んでいたんだ」
「で、でも、警備があったから抜け出せなかったって」
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美伽はドアノブを掴んだまま、ちらりと首だけ振り向く。
「あんた、一人じゃまともに動けないでしょう。せめて運動のできる奴がついてないと」
「でも、本間さんだけよりはずっと動けると思う」
「確証のないことを言うんじゃないわ」
「……でも、オレはこれ以上本間さんに迷惑をかけたくない」
「……」
美伽は試すようにすっと目を細める。
それでも魔追は、美伽から手を離さなかった。
「あー、もう……」
先に折れたのはノアだった。
「分かったよ、完敗だよ。てか、魔追くんアホすぎだよ」
「ご、ごめん」
がしがしと頭を掻きながらノアは鞄を取り、美伽のを代わりに置く。
「美伽ちゃん、これで満足かい」
「ええ」
魔追はあっ、と目を見開いた。
にやりと、美伽はそれはそれはご満悦な笑みを浮かべていた。
「じゃあ、よろしく」
そう言って魔追とノアは放逐され。
「魔追くん、いいぞ。こっち、あああ、ストップ戻れ戻れっ」
「あ、待って待って、落ちる落ちる!」
「えっ! ふざけんないててて、うわあ!」
「「アーッ!!」」
それは、よたよたと尻を庇って動く魔追には非常に過酷な道のりなのであった。
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「いたたたた……。うう、もう二度とやるもんか、いてて……」
文句を言いながらも、なんとか無事に家までたどり着く。
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「おお、帰ったか、魔追……」
「?」
妖追は近寄ってくると、框の上から魔追をまじまじと見下ろしてきた。
「……」
「妖追?」
「……ブフォ」
至近距離で唾を吹き掛けられた。
「うおっ、うぇ、なにすんの!?」
「いや、すまんすまん。なんとも愉快な顔で帰ってきたんじゃなあと思うて」
「え……?」
嫌な予感がする。なんだか、非常にまずい気がする。
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「先に帰んなかったのは美伽ちゃんがのんびりしてたせいだからな!?」
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「本間さああああああああああんっ!!」
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