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第一部 罪人の涙
ガラスのツバキ 2
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塾が終わると、辺りはもう真っ暗な夜八時で、ついこの間まではそうでもなかったのになあ、とため息をついた。冷たい風が足を撫でまわし、それが思った以上に寒かったので驚く。さすりたくなったが、“みっともない”のでやめた。
駅に着くと、ちょうど電車が来たところだった。たくさんの人が階段を駆け上がっていく中、彼女は脇に避け、彼等に道を“譲る”。今急がずとも、電車はこれで終わりではないのだから。改札を抜けた時、電車の行く音がした。
ホームの椅子に座り、“勉強”を始める。とはいっても、彼女は内部進学をするつもりで、これは次の定期試験に向けてのものだった。そのうちに人が増え、椅子も埋まる。そこへ赤子を連れた若い母親が現れたので、彼女は自分の椅子を“勧めた”。勉強道具をしまい、“黄色い線の内側に立つ”。姿勢を真っ直ぐにした“まま”暫く待っていると、予定より少し遅れて電車は来た。満員だった。彼女だけは無理に“乗らず”、さらに次の電車を待つ。その間に、家に帰りが遅くなる旨の連絡を“入れて”、さっきよりも遅れてやってきた電車に乗り、空いていた席を“譲って”ドアの側に立った。
自宅の最寄り駅に着く少し前だった。隣に立つ女性が今にも泣きだしそうな顔をしているのに気付き、次いで女性のスカートに伸びる手を見つけた。電車は人に溢れていて、誰の手かは分からなかった。
電車が止まり、ドアが開いた直後、彼女は引っ込めようとした犯人の手を”捕まえた”。あとは人の流れが彼女ごと犯人を押し出してくれた。
「痴漢です!」
近くにいた駅員に掴んだ手を示しながら“叫ぶ”と、男は今更になって慌てて彼女の手を振り払い逃げようとしたが、駅員と親切な乗客の一人に取り押さえられた。駆け付けた別の駅員に事情を説明すると、被害者の女性も無事に保護された。女性は口元を覆いながら静かに嗚咽を漏らしていた。
家に帰ると、時間は九時を回っていた。愛犬のゴールデンレトリバーは既に寝ていて、“起こさないように”忍び足で通り過ぎる。やっとのことで玄関にたどり着くと、母親が中で待っていた。
「あっ……、ただいま。お母さん。遅くなってごめんなさい」
「寄り道じゃないんでしょう? なら、いいです。早く着替えなさい」
「……はい」
靴を“揃え”、家に上がる。急いで普段着に着替えると、母親の待つ仕事部屋へと向かった。“ノック”をして中に入る。
そこは、華道教室で使われる部屋の裏側だった。表は実際に教室や展示場として使われるのに対し、ここは生け花や花器を管理する作業場となる。人を招く場所を家人が使ってはならない、常に歓迎できるようにすべし、という母親の主張がもとだったが、彼女も、そして同じく高名な華道家である父も賛成した。それでも美しく整頓された室内は、静謐で神聖な場所としてそこにある。
「今度、西の間を開けます。そこに飾る作品を考えてみなさい」
「はい」
そうしてできた作品は、なかなかの出来のように思えた。
「できました」
母親に見せると、さっと眺め、講評をしてもらう。誉め言葉をいくつか貰えたが、母親はそこまで甘い人間じゃない。きっとこれも片付けられてしまう。西の間に飾られるのは別の人の作品だろう。彼女は深く“反省”し、母親の言葉を全て心に“とどめた”。それだけじゃ足りない。稽古を終えて自室に戻ると、すぐさまそれをノートに“記して”いった。
とんとん、と音がした。
「はい」
ドアを開けたのは父親だった。
「お風呂に入りなさい。その間にご飯の用意をしておくから」
「ありがとう」
ノートを片付ける。入浴し、“いただきます”をして、食べ終わったのはもう十一時をかなり過ぎた頃だった。食器を“洗い”、もう誰もいない台所の電気を“消す”。眠気を抑えて机に向かうと、“勉強”を始めた。
……終わったのは、一分一秒の狂いもない十二時ちょうどだった。時計にかじりつくようにしてそれを確認した彼女は、安堵のあまり長いため息をついていた。
「よかった……」
それはジンクスのようなものだ。
時計を見た時に十二時ぴったりだと、その日を“正しく”過ごせた証で、明日も良い事があるという約束。
昨日もぴったりだった。一昨日もそうだ。その前も、そのまた前の日も……。
ずっと十二時〇〇分〇〇秒だ。
スタンドライトに手を伸ばそうとして、彼女は机の上に水滴が落ちているのに気が付いた。まさかと思って頬に手をやると、確かにそこは濡れていた。何故だか分からず、暫し呆然と小さなしずくを見下ろす。
そして、一二時八分、彼女は眠りにつく。
「ショウコ、いいですか。いつでも礼儀正しく、良い子でいるんですよ」
そう言って、お母様は亡くなりました。
お母様のお墓はお庭に造られました。わたくしは毎日そこへ行き、泣いていました。お屋敷の中には暗くどんよりとした空気が漂うようになりました。
ところが、お母様のお墓に積もった美しい雪が解ける前のことです。
お父様が新しい奥さんを連れて帰ってきました。
小柄で、手足が細くて、唇を固く引き締めた、お母様にそっくりな女の人を。
たとえお母様に似ていようと、こんなにも早く心変わりしたお父様に、わたくしは失望しました。
……うたいましょう ユメのように
……おどりましょう ユメのように
継母には二人の連れ子がいました。どちらもわたくしに似ているのに、わたくしよりも礼儀正しくて、良い子でした。お父様も二人を可愛がりました。
いつの間にか、わたくしは忘れられた子になっていました。
汚い古着を纏った、醜い娘となっていました。
わたくしはお母様と約束したのに、お母様は天国で悲しんでいるに違いありません。いえ、忘れられたわたくしは、きっと、お母様にも見えなくなっているでしょう。本当は、わたくしは最初から醜い娘だったのかもしれません。
……うたいましょう ユメのように
……おどりましょう ユメのように
……いやいや これはユメなのだ
……いやいや ここがユメなのだ
……なにをしても ユメだから
……なにがあっても ユメだから
だとしたら、何をいまさら構う必要があるのでしょうか。
醜いのが真のわたくし。ならば、その通りに生きてみようではありませんか。
襤褸を脱ぎ捨て、重たい木靴を放り出すと、突然のわたくしの行動に驚いて心配なんかをしようとする姉妹から服を奪い、靴を奪い、アクセサリーを奪い、そして外に飛び出しました。
裸足で駆け回る大地は優しくて、力強くて。
広げた腕から吹き抜けていく風は軽やかで、乱暴で。
わたくしは大きく大の字になって、野原に寝転がりました。
ふわり、と包み込んでくれるような青臭い匂い。
気持ちいい……。
うたいましょう ユメだから
おどりましょう ユメだから
風に獣の臭いが混じり、わたくしは起き上がりました。
「メエエエ~」
そして、目が合ったのです。
羊を連れた小さな女の子と。
女の子は金糸のように細く美しい髪と、澄んだ青い瞳を持っていました。その形の良い唇が動き――距離があったので聞き取れませんでしたが――、向日葵のような笑顔になると、いきなり走ってきてわたくしに抱きついたのです。わたくしは受けとめきれず、一緒に倒れました。
「なっ、なっ、……!?」
戸惑うわたくしに、女の子は至近から笑顔を向けてきます。純朴で真っ直ぐな、ただ喜びだけを乗せた笑顔が、わたくしを射抜きました。
「あそぼっ!」
「えっ……? あ、でも、羊さんが……」
「じゃあ、羊さんも!」
女の子は跳ね起きると、もこもこと集まる羊達に向かってジャンプをします。楽しそうに白い綿の中ではしゃぐ姿に、わたくしの中の幼児心がよみがえり、気付いたらわたくしも飛び込んでいました。
はしゃぐわたくし達を乗せて、羊達は野原を駆け、青空まで駆け上がっていきました。まるで綿雲のようにふわふわと浮かんで、わたくし達は遥か彼方に広がる地上を眺めました。
しかし、喜びというものは、この世のありとあらゆるものは、たいてい長続きしないものなのです。
「あーあ」
わたくしは立ち上がりました。
「飽きちゃった」
羊達から降りて、わたくしは今度は町へと向かいました。町では、お城が国中の女の子を集めて舞踏会をするとの噂でもちきりになっており、わたくしも奪った服と靴とアクセサリーで飾って参加してみることにしました。
お城は豪華な装いの女の子たちで溢れていて、金髪の王子様はそのみんなに声を掛けているようでした。王子様は確かにかっこいいのですが、なんだかこなれているような感じがして好きになれそうにありません。出ていこうとしたところで、わたくしも王子様に話しかけられました。
「あれ? きみ、もう帰っちゃうの?」
「はい」
「なら、一回踊ってからにしない? 実は俺さ、ちょっと疲れちゃったんだよね、目が。みんなキンキラキンだからさ」
きみのはそこまで派手じゃない。寧ろ落ち着いてて、きみの雰囲気によく似合ってるよ。
褒められて嬉しくない女などいません。わたくしは少し王子様に対する印象を改め、一度だけお付き合いすることにしました。
お城を出たわたくしは、舞踏会が三日間行われることを知り、次の日も顔を出してみました。王子様はまたわたくしと踊ってくださいました。それでわたくしは満足し、興味も薄れていきました。
「明日も来るんだろう?」
別れる直前、王子様が耳元で囁きました。
わたくしはきっぱりと否定しました。
「いいえ」
驚いて目を丸くする王子様から離れ、わたくしは人混みに紛れます。さようなら、王子さま。やっぱり、わたくし、あなたのことを好きになれそうにありません。
お城の階段を下りながら、次はどこに行こうかと考えます。町とお城はもう飽きてしまいました。海。海なんてどうでしょう。すると、この靴やアクセサリーはもう必要ありません。そこで、わたくしはあることを思いつき、靴の中にアクセサリーを入れて階段の途中に置いていきました。
海に着きました。初めての潮の香りを胸いっぱいに吸い込みます。下着姿になって海に入り、たくさん泳いで、全身で海を味わいます。
「おねーさん!」
振り返ると、羊飼いの女の子が砂浜から手を振っていました。
「貝、拾おうよ!」
そろそろ泳ぐのにも疲れてきた頃です。海から上がり、女の子と貝を集めました。それから、砂のお城を作って、そこに貝殻を貼り付けました。見事な出来映えに女の子と二人で手を叩いて喜びました。
夜になると、二人で砂浜に転がって星空を眺めました。
「今はね、ちょうどいて座がてっぺんに来るんだよ」
女の子が指さした先には数億の星が瞬いていて、どれが射手座か分かりません。
「どれ?」
「えっと……」
女の子は口ごもり、それから腕を下ろしました。
「華くんだったら分かるのになあ……」
お友達からの受け売りだったようです。わたくしはつい教えていました。
「射手座は、とっても見つけにくいのよ」
「えっ!?」
「オリオン座は分かる? あれみたいに、他よりも強く光っている星がないの。それに、星雲や星団もあって」
「セイウン? セイダン?」
「あの、赤紫っぽく光っている所とか、星がいっぱい集まってキラキラしている所」
「へえー! じゃあ、あそこにいて座あるんだねっ? おねーさん、すごいね! 物知りだね!」
だって、勉強したもの。
笑い返しながら、なんだか不快な感覚が広がり始めます。
「もう、華くんちゃんと教えてよー」
華くん。
どこかで聞いたことのあるような気がしました。
湧き上がる衝動を必死に堪えているのに気付かない女の子は、なおも続けます。
「おねーさんは、本当に良い人だね!」
うたいましょう ユメだから
おどりましょう ユメだから
あなたのたのしい ワールドを
あなただけの ワールドを
すべてゆるされる ワールドを
じゆうのための ワールドを
決壊した
駅に着くと、ちょうど電車が来たところだった。たくさんの人が階段を駆け上がっていく中、彼女は脇に避け、彼等に道を“譲る”。今急がずとも、電車はこれで終わりではないのだから。改札を抜けた時、電車の行く音がした。
ホームの椅子に座り、“勉強”を始める。とはいっても、彼女は内部進学をするつもりで、これは次の定期試験に向けてのものだった。そのうちに人が増え、椅子も埋まる。そこへ赤子を連れた若い母親が現れたので、彼女は自分の椅子を“勧めた”。勉強道具をしまい、“黄色い線の内側に立つ”。姿勢を真っ直ぐにした“まま”暫く待っていると、予定より少し遅れて電車は来た。満員だった。彼女だけは無理に“乗らず”、さらに次の電車を待つ。その間に、家に帰りが遅くなる旨の連絡を“入れて”、さっきよりも遅れてやってきた電車に乗り、空いていた席を“譲って”ドアの側に立った。
自宅の最寄り駅に着く少し前だった。隣に立つ女性が今にも泣きだしそうな顔をしているのに気付き、次いで女性のスカートに伸びる手を見つけた。電車は人に溢れていて、誰の手かは分からなかった。
電車が止まり、ドアが開いた直後、彼女は引っ込めようとした犯人の手を”捕まえた”。あとは人の流れが彼女ごと犯人を押し出してくれた。
「痴漢です!」
近くにいた駅員に掴んだ手を示しながら“叫ぶ”と、男は今更になって慌てて彼女の手を振り払い逃げようとしたが、駅員と親切な乗客の一人に取り押さえられた。駆け付けた別の駅員に事情を説明すると、被害者の女性も無事に保護された。女性は口元を覆いながら静かに嗚咽を漏らしていた。
家に帰ると、時間は九時を回っていた。愛犬のゴールデンレトリバーは既に寝ていて、“起こさないように”忍び足で通り過ぎる。やっとのことで玄関にたどり着くと、母親が中で待っていた。
「あっ……、ただいま。お母さん。遅くなってごめんなさい」
「寄り道じゃないんでしょう? なら、いいです。早く着替えなさい」
「……はい」
靴を“揃え”、家に上がる。急いで普段着に着替えると、母親の待つ仕事部屋へと向かった。“ノック”をして中に入る。
そこは、華道教室で使われる部屋の裏側だった。表は実際に教室や展示場として使われるのに対し、ここは生け花や花器を管理する作業場となる。人を招く場所を家人が使ってはならない、常に歓迎できるようにすべし、という母親の主張がもとだったが、彼女も、そして同じく高名な華道家である父も賛成した。それでも美しく整頓された室内は、静謐で神聖な場所としてそこにある。
「今度、西の間を開けます。そこに飾る作品を考えてみなさい」
「はい」
そうしてできた作品は、なかなかの出来のように思えた。
「できました」
母親に見せると、さっと眺め、講評をしてもらう。誉め言葉をいくつか貰えたが、母親はそこまで甘い人間じゃない。きっとこれも片付けられてしまう。西の間に飾られるのは別の人の作品だろう。彼女は深く“反省”し、母親の言葉を全て心に“とどめた”。それだけじゃ足りない。稽古を終えて自室に戻ると、すぐさまそれをノートに“記して”いった。
とんとん、と音がした。
「はい」
ドアを開けたのは父親だった。
「お風呂に入りなさい。その間にご飯の用意をしておくから」
「ありがとう」
ノートを片付ける。入浴し、“いただきます”をして、食べ終わったのはもう十一時をかなり過ぎた頃だった。食器を“洗い”、もう誰もいない台所の電気を“消す”。眠気を抑えて机に向かうと、“勉強”を始めた。
……終わったのは、一分一秒の狂いもない十二時ちょうどだった。時計にかじりつくようにしてそれを確認した彼女は、安堵のあまり長いため息をついていた。
「よかった……」
それはジンクスのようなものだ。
時計を見た時に十二時ぴったりだと、その日を“正しく”過ごせた証で、明日も良い事があるという約束。
昨日もぴったりだった。一昨日もそうだ。その前も、そのまた前の日も……。
ずっと十二時〇〇分〇〇秒だ。
スタンドライトに手を伸ばそうとして、彼女は机の上に水滴が落ちているのに気が付いた。まさかと思って頬に手をやると、確かにそこは濡れていた。何故だか分からず、暫し呆然と小さなしずくを見下ろす。
そして、一二時八分、彼女は眠りにつく。
「ショウコ、いいですか。いつでも礼儀正しく、良い子でいるんですよ」
そう言って、お母様は亡くなりました。
お母様のお墓はお庭に造られました。わたくしは毎日そこへ行き、泣いていました。お屋敷の中には暗くどんよりとした空気が漂うようになりました。
ところが、お母様のお墓に積もった美しい雪が解ける前のことです。
お父様が新しい奥さんを連れて帰ってきました。
小柄で、手足が細くて、唇を固く引き締めた、お母様にそっくりな女の人を。
たとえお母様に似ていようと、こんなにも早く心変わりしたお父様に、わたくしは失望しました。
……うたいましょう ユメのように
……おどりましょう ユメのように
継母には二人の連れ子がいました。どちらもわたくしに似ているのに、わたくしよりも礼儀正しくて、良い子でした。お父様も二人を可愛がりました。
いつの間にか、わたくしは忘れられた子になっていました。
汚い古着を纏った、醜い娘となっていました。
わたくしはお母様と約束したのに、お母様は天国で悲しんでいるに違いありません。いえ、忘れられたわたくしは、きっと、お母様にも見えなくなっているでしょう。本当は、わたくしは最初から醜い娘だったのかもしれません。
……うたいましょう ユメのように
……おどりましょう ユメのように
……いやいや これはユメなのだ
……いやいや ここがユメなのだ
……なにをしても ユメだから
……なにがあっても ユメだから
だとしたら、何をいまさら構う必要があるのでしょうか。
醜いのが真のわたくし。ならば、その通りに生きてみようではありませんか。
襤褸を脱ぎ捨て、重たい木靴を放り出すと、突然のわたくしの行動に驚いて心配なんかをしようとする姉妹から服を奪い、靴を奪い、アクセサリーを奪い、そして外に飛び出しました。
裸足で駆け回る大地は優しくて、力強くて。
広げた腕から吹き抜けていく風は軽やかで、乱暴で。
わたくしは大きく大の字になって、野原に寝転がりました。
ふわり、と包み込んでくれるような青臭い匂い。
気持ちいい……。
うたいましょう ユメだから
おどりましょう ユメだから
風に獣の臭いが混じり、わたくしは起き上がりました。
「メエエエ~」
そして、目が合ったのです。
羊を連れた小さな女の子と。
女の子は金糸のように細く美しい髪と、澄んだ青い瞳を持っていました。その形の良い唇が動き――距離があったので聞き取れませんでしたが――、向日葵のような笑顔になると、いきなり走ってきてわたくしに抱きついたのです。わたくしは受けとめきれず、一緒に倒れました。
「なっ、なっ、……!?」
戸惑うわたくしに、女の子は至近から笑顔を向けてきます。純朴で真っ直ぐな、ただ喜びだけを乗せた笑顔が、わたくしを射抜きました。
「あそぼっ!」
「えっ……? あ、でも、羊さんが……」
「じゃあ、羊さんも!」
女の子は跳ね起きると、もこもこと集まる羊達に向かってジャンプをします。楽しそうに白い綿の中ではしゃぐ姿に、わたくしの中の幼児心がよみがえり、気付いたらわたくしも飛び込んでいました。
はしゃぐわたくし達を乗せて、羊達は野原を駆け、青空まで駆け上がっていきました。まるで綿雲のようにふわふわと浮かんで、わたくし達は遥か彼方に広がる地上を眺めました。
しかし、喜びというものは、この世のありとあらゆるものは、たいてい長続きしないものなのです。
「あーあ」
わたくしは立ち上がりました。
「飽きちゃった」
羊達から降りて、わたくしは今度は町へと向かいました。町では、お城が国中の女の子を集めて舞踏会をするとの噂でもちきりになっており、わたくしも奪った服と靴とアクセサリーで飾って参加してみることにしました。
お城は豪華な装いの女の子たちで溢れていて、金髪の王子様はそのみんなに声を掛けているようでした。王子様は確かにかっこいいのですが、なんだかこなれているような感じがして好きになれそうにありません。出ていこうとしたところで、わたくしも王子様に話しかけられました。
「あれ? きみ、もう帰っちゃうの?」
「はい」
「なら、一回踊ってからにしない? 実は俺さ、ちょっと疲れちゃったんだよね、目が。みんなキンキラキンだからさ」
きみのはそこまで派手じゃない。寧ろ落ち着いてて、きみの雰囲気によく似合ってるよ。
褒められて嬉しくない女などいません。わたくしは少し王子様に対する印象を改め、一度だけお付き合いすることにしました。
お城を出たわたくしは、舞踏会が三日間行われることを知り、次の日も顔を出してみました。王子様はまたわたくしと踊ってくださいました。それでわたくしは満足し、興味も薄れていきました。
「明日も来るんだろう?」
別れる直前、王子様が耳元で囁きました。
わたくしはきっぱりと否定しました。
「いいえ」
驚いて目を丸くする王子様から離れ、わたくしは人混みに紛れます。さようなら、王子さま。やっぱり、わたくし、あなたのことを好きになれそうにありません。
お城の階段を下りながら、次はどこに行こうかと考えます。町とお城はもう飽きてしまいました。海。海なんてどうでしょう。すると、この靴やアクセサリーはもう必要ありません。そこで、わたくしはあることを思いつき、靴の中にアクセサリーを入れて階段の途中に置いていきました。
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「おねーさん!」
振り返ると、羊飼いの女の子が砂浜から手を振っていました。
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そろそろ泳ぐのにも疲れてきた頃です。海から上がり、女の子と貝を集めました。それから、砂のお城を作って、そこに貝殻を貼り付けました。見事な出来映えに女の子と二人で手を叩いて喜びました。
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「どれ?」
「えっと……」
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「華くんだったら分かるのになあ……」
お友達からの受け売りだったようです。わたくしはつい教えていました。
「射手座は、とっても見つけにくいのよ」
「えっ!?」
「オリオン座は分かる? あれみたいに、他よりも強く光っている星がないの。それに、星雲や星団もあって」
「セイウン? セイダン?」
「あの、赤紫っぽく光っている所とか、星がいっぱい集まってキラキラしている所」
「へえー! じゃあ、あそこにいて座あるんだねっ? おねーさん、すごいね! 物知りだね!」
だって、勉強したもの。
笑い返しながら、なんだか不快な感覚が広がり始めます。
「もう、華くんちゃんと教えてよー」
華くん。
どこかで聞いたことのあるような気がしました。
湧き上がる衝動を必死に堪えているのに気付かない女の子は、なおも続けます。
「おねーさんは、本当に良い人だね!」
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