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ただ目と耳をふさいだ(2)
しおりを挟む父が死を選んだのは、母との口論が増えてほどなくだった。
車で行き先も告げずに出かけ、三日も帰らなかった。行先を教えてくれたのは、警察からの連絡だった。
存在も知らないある峠道の崖からの墜落。身体の損傷は大きかったけれども、顔はきれいだったという。
母の希望でもあり、葬儀は密葬で行った。寂しいそれを終えると、わたしは母にねだった。母と二人で別の土地に住みたかった。
大きな家は、今では分不相応であるし、何より気分を変えたかった。現状から逃げたかったのだ。
しかし、これに母はうなずいてくれなかった。父が自ら命を絶ったのは、わたしに生まれ育った家を残すためなのだという。
「保険のお金で、借金がなくなるから。それで…」
死の間際、父が自暴自棄に賭博にはまっていたことも、その時知った。
「お金なら、お母さんもっと働くし。取ってある分もあるから。心配しなさんな」
自分と背丈も変わらず、同じく華奢な母に、わたしはその時泣いて甘えた。母は背をなぜてくれたけれど、本当に泣きたいのは母だったのに。
父を亡くし、悲しくはあったが、平和な日々が続いた。
わたしは短大の奨学金制度を利用することを決め、アルバイトも始めた。二年生からの就職活動についても、おぼろげではあるけれど考え始めた。
忙しい日々が、嫌でも前に向かせてくれていたように思う。
そんなわが家に、父の妹になる叔母がやって来た。
父の負債の件で寄り付きもしなかったのに、今更何だろう。葬儀にも来なかったほどであるのに。
叔母が持ち込んだ話は、まったく寝耳に水で、わたしも母も驚きを隠せず、馬鹿な内容に顔を見合わせた。
父の事業を買い取った山崎という人が、わたしを後妻に迎えたがっているというのだ。その縁談の橋渡しに叔母が選ばれたという。
「50ちょっと過ぎているけど、まだまだ男ぶりもいい頼もしい男性よ。財産家だし…」
その先を告げさせることなく、母は言下に断った。腹を立てているのが、そばにいてよくわかった。
「ゆらはまだ子供ですし。そんな大人の方にはふさわしくないです。何より主人のことで喪も明けてないのに、こういうお話は止めましょう」
「お兄さんの借金の件、まだ清算がきちんとしていないらしいじゃない。社長さんが肩代わりして下さってる分が、結構あるらしいじゃないの」
「そんな、馬鹿な。あれはちゃんと証文も返してもらって…」
「まだ一通あるようよ」
母の反応を楽しむのが明らかな叔母の態度に、わたしも同じく怒り、何か言ってやりたいのに、喉がひりついて声もろくに発せなかった。
「闇バカラにはまっていて、あんなぽっちの借金のわけ、あるはずないでしょう。のんきな人ね」
公正証書のある書類なのだと、叔母は付け足した。
「逃げられないわよ」と。
母が顔を両手でおおった。
「お母さん…」
わたしは不安にのまれて、そんな母をうかがった。「だましたのね」。指の間から、母の低い声がもれてきた。
「あの人たちは、わたしたちをだましたのでしょう? 賭け事なんて、する人じゃなかったのに。渚さん、知ってるんでしょ?」
「だましただなんて、人聞きの悪い。お兄さんに社長さんが融資する件は、聞いたわ。それだけよ」
母は返事をしなかった。
もともと、仲の良い間柄ではなかったし、今となっては嫌悪の対象だろう。叔母はのんびりと出されたお茶を飲み、うなだれる母の様子をたっぷりと眺めた後で口を開いた。
「ゆらちゃんには外してもらって、義姉妹どうしでちょっと相談しましょう。いいアイディアが出るかもしれない」
「…ゆらちゃん、叔母さんの言う通りにして」
母に促され、わたしは気になりつつも部屋を出た。
叔母が帰った後で、何の相談だったのか、母に問い詰めた。
母はぎこちなく笑い、叔母に仕事を頼まれたのだと言った。
何の仕事かは教えてくれなかった。
叔母の訪れからしばらくして、母が『仕事』に出かけることが増えた。
その仕事を終えた後は、うつろな表情を見せるのが常で、それとわかるのだ。無理にわたしに笑っても、目がちっとも緩んでいない。
夜のこともあり、タクシーに乗って出かけていく。そんな晩は、帰宅が深夜を過ぎ未明になることもあって、回を重ねるごとに、母が憔悴していくのがわかった。
何をする仕事のなのか。母は、叔母に紹介された人に会っているのだという。
会うだけのはずがない。無知なわたしにも想像がつく。
「もう止めて」
母は薄く笑って、わたしの涙をぬぐってくれた。
「ゆらちゃんは気にしなくていいの」
けれども、困ったときに必ず口にしてくれた、励ましの「大丈夫よ」という言葉は、耳にすることがなかった。
もう大丈夫などではなかったのだ。
母が亡くなった時は事件になり、ニュースにも流れた。死因は急性アルコール中毒で、無理な飲酒による発作が原因だった。
お酒なんか、飲まない人なのに。
苦痛に顔を歪めた半裸の母に対面した時、自分のどこかがちぎれたような痛みを感じた。本当にそこから血がふき出すような気がした。
母はわたしの一部だったのだ。
その母がこんな風に可哀そうな姿で死んでしまい、同時にわたしの一部も死んでしまった。
母のそばには、自分で命を絶ったと見られる失血死した男性の遺体もあり、『熟年不倫無理心中!』などとワイドショーでも取り上げられた。
そこからの数日をどう過ごしたのか。
いつの間にか、わたしは喪主の席に座らされ、葬儀が行われている。父の時は密葬だったのが、母の際は、知らない人々が家を出入りしていた。
ぼうぜんと座る、置き物のようなわたしのかたわらには叔母がおり、わたしの知らない誰彼とよくわからない話をしていた。
胸を刺すような悲しみと向き合い出したのは、慌ただしいすべてが終わった頃だ。
自分を、あちこちもぎ取られた人形のように感じ、一人縮こまって過ごした。
そんな痛みがいつか薄れるのか、それとも抱えていくものなのか。答えの出ない闇の中を、うろうろとさまよっているようだった。
父が消え、次は母も消えた。
わたしはとうとう一人になった。
そんな時、合鍵でも使うのか、叔母が勝手知った風に家にやって来る。両親が健在な頃は、ろくにつき合いもなかった人なのに。
「男でも女でも、つき合う人が良くない」などと、父が母にこぼしていたのを思い出す。それでも、わたしは投げる言葉も浮かばずに、眺めているだけだ。
「ゆらちゃん」
甘い声を出して、手土産のドーナツショップのドーナツを差し出した。欲しくもないけど、断るのも面倒で受け取った。
「ねえ、山崎社長がゆらちゃんにぜひ会いたいって」
「え」
「葬儀の件もマスコミのうるさいのも、あの方が上手くさばいてくれたのよ。お礼を申し上げないと失礼でしょ」
叔母はにっこりと笑った。
「長いおつき合いになるんだから。可愛がっていただかないと」
あ。
わたしは手のドーナツをそのまま床に落としてしまった。
この叔母が、母へわたしの社長との縁談を突きつけたのがよみがえる。
顔を伏せ、何気なく拾いながら思い知った。
次はわたしの番なのだ。
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