わたしの方が好きでした

帆々

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リゼ

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「これ美味しいね。新作かい?」

 キッドの声にリゼは笑顔が浮かんだ。夫の言葉は何よりもの賞賛に思えた。実際彼は味にうるさく、旨くない時は顔を曇らせてフォークを止めてしまうのだから。

 工房でも皆で散々試食して自信のあったパイだった。でも、本音では夫の反応を見るまでは安心できなかった。

「ええ。今度出す商品なの。良かった。あなたが美味しいと言ってくれるのなら、きっと成功ね」

 キッドはにこやかにパイを食べ切り、お茶を飲んだ。

 夕飯を待たせないよう仕事を終え、急いで帰ってきた。通いのメイドが夫の苦手な家事を補ってくれるとはいえ、帰宅しても休んではいられない。

(パイの残りがあるから、それとスープを温めて……)

 リゼが夕飯の段取りをつけて居間を出かけた時だ。からん、とフォークが床に落ちる音がした。振り返ると、さっきちゃんと皿の上に乗っていたフォークがなぜか床に転がっている。

 彼女は戻り、夫の足元に跪いてそれを拾った。

「悪いね。手が滑った」

 青い瞳を向け優しげに彼女に微笑んだ。少し障るのか左手をさすっている。キッドは手の関節が強張って動かし辛いことがある。今もその症状が出て、引っ掛けるかなどしてフォークが皿から転がり落ちたのだろう。

 こんなことはよくあった。彼女が何かに意識を向けたり忙しい時に多いような気がしていた。しかし、それが何だというのだ。

「いいの」

 キッドは彼女が仕事で工房に出かける留守の間に、彼女に代わって家事をこなしてくれている。彼は症状のこともありメイドが多くをカバーをしてくれるが、それでも家を守ってくれているという感謝の気持ちは大きい。そのおかげで自分が好きに仕事に励めているとも思う。

 彼女は二十一歳の時に六つ年上のキッドと結婚した。彼は幼なじみの兄でその存在は幼い頃から知っていた。初恋が実った結婚で、キッドの症状の不安もあるが、三年経った今も彼女は幸せだ。

 自分にできることはしてあげたい。そんな思いで彼に寄り添っている。キッドもそんな彼女の愛情と優しさに満足しているように見えた。仕事で疲れた彼女を労ってもくれる。愛し合う夫婦の温かい家庭そのもの。

 足りないものがあるとすれば、キッドと一緒に過ごす時間だろうか。しかし、生活費と彼の趣味の費用の他、姑への仕送りもかさむ。リゼが仕事を減らせる事情にはない。

(わたしがもうちょっと頑張ればいいだけ)

 キッドは忙しげに動く妻をにこやかに眺めながら、今度はさっきとは逆の手をさすっていた。



 メイドに後を頼み、リゼは仕事のため家を出てきた。朝のこんな時間は後ろ髪引かれる思いだ。夫のキッドにはくれぐれも無理をしないように声をかけた。

「今日は図書室の整理をしておくよ。ここは分類もややこしいからメイドに頼めないからね」

 夫はもう二年も同じ図書室の整理を続けていた。壁三面の書棚の小部屋で彼の書斎を兼ねている。元新聞社で記事を書いていた人物だから、活字に触れる時間が心地いいのだろう。本人もそう言い、リゼもよく理解し、値段を気にせず好きな本の購読を勧めてもいる。

 とにかく、キッドには

(気持ちをふさいでほしくない)

 と彼女はそればかりを願っている。結婚して半年で身体の不調で職を辞した彼に、間違っても妙な遠慮をしてほしくなかった。夫婦は元気で動ける方が働けばいいのだし、幸い彼女は仕事が好きで苦にならない。

 家を出て通りを歩く。昨夜降った雨が石敷きの道をぬらしていた。ドレスの裾を汚さないように気にしながら、いつもの乗合馬車に乗る。混み合う馬車には顔見知りも多く、微笑み合ったり挨拶を交わした。

 工房はすでに早出の従業員が掃除を始めていた。彼女もそれに交じり窓を開けて風を通した。奥のオフィスに落ち着いてすぐ、秘書のネロリがやって来た。いつも通り彼女の幼い息子が一緒だ。

「戻ったら、ちょっと報告が……」

 と自分のデスクに荷物を置いて、慌ただしく出て行った。工房には併設の育児室があり専門のシッターもいる。従業員は子供を預けることができた。女性が多い職場での働き易さを考えての設備だ。父の代にも似たものがあったが、リゼが継いですぐ充実させた。

 戻ってきたネロリにお茶のカップを渡し、話を促した。

「取引をお願いしていたあのレストランは断りが入りました。価格が折り合わないのですって」

 昨日は出先から家に直接帰った。その不在の間に連絡があったらしい。何度も交渉に足を運んだ。期待をかけていただけに落胆は小さくない。

「そう、残念ね」

 小さくため息をつく。しかし、嘆いてばかりはいられない。

 そろそろ始業でリゼはオフィスを出た。作業場には二十人ほどの女性従業員がいて、めいめいがお茶のカップを持ちおしゃべりに花を咲かせている。小さくチャイムが鳴り、話し声が止んだ。

 皆の前に進み出て、リゼは朝のミーティングを始めた。お茶を飲みながら今日の予定を話し合う。作業の進捗の報告もここで受ける。果実を利用した加工品を作るのが工房のメインの業務だ。ジャムやコンポート、それらを使った菓子も手がける。

 四年前に父が亡くなり、一人娘のリゼがその後を継いだ。父の頃は素朴で品のいいだけだったが、そこに彼女は商品価値を上げる女性らしい工夫を加えた。包装や見た目にもこだわり、王都でちょっとした評判になったこともある。

 ミーティングの終わり頃、若い男性がのっそりと入ってきた。釜の担当をしているジンだ。工房唯一の男性従業員で皆に可愛がられている。おっとりマイペースで遅刻癖はなかなか治らない。

 皆の手前リゼも彼に渋い顔をして見せるが、彼の愛嬌のある性格で多めに見てしまっている節もある。仕事は真面目にこなしてくれるし、文句はない。

 ミーティングを終えそれぞれが仕事の持ち場についた。製造や出荷の準備にはリゼも手伝うことがままある。従業員は女性が主で家庭の主婦が大半だ。残業はし辛い。

「さあ今日も予定をこなして、さっさと帰りましょう」

 リゼがいつもの発破をかけると「はーい」と声が返るが、中にはくすくす笑い声も混じる。彼女が家に残した夫を心配し、気もそぞろになることがあるのを皆が知っていた。

 先代の頃からの働き手の古株たちは、リゼがお嬢さんでいた頃もよく知る。

「疲れた顔をして見えるけど、細腕で無理をしていなければいいがね」

 交わされる囁きはリゼに届くものがあるが、素通りしてしまう。夫との暮らし、工房のこと。そのために自在に動かせるものは自分しかない。そんな覚悟の彼女には自分を振り返ることもないのかもしれない。
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