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リゼ
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しおりを挟む工房を出てリゼは歩いた。目的の場所まで早足で向かいながら、これからのことを考えた。
目指す相手は老舗のレストランの支配人だ。オーナーの親族で権限も強いらしい。リゼの工房の商品を仕入れてもらえるように丁寧に打診を繰り返していたが、答えを延ばされた挙句に拒絶された。
朝その件を秘書から聞き、もう一度お願いしてみようと向かっている。試食をしてもらった際に厨房では好評の声を直に聞いている。「予算的に」無理との判断は当然として、のちの再考につながるかもしれない種はまいておきたい。
リゼが訪ねると支配人は会ってくれた。しかし、困り顔だ。
「くどく頼まれては困りますねえ」
「お店のカウンターなどに置いていただくだけでもご無理でしょうか? 委託販売をお願いするのではなく、ただ置くだけ。ちょっとした花の代わりにどうでしょう?」
リゼは持参した商品を差し出した。小さなカゴに詰めた商品は愛らしい様子だ。ちょこんとテーブルにでも置いてもらえるだけで大助かりだ。お客の何らかの反応を得られる可能性は高い。
支配人は商品とリゼを見比べ、やがて首を振った。小さく手を挙げ、
「わかりました。置くだけですよ」
と了承してくれた。その答えに彼女はほっと息をつく。まずは前進だ。
「あなたのようなお嬢さんに足繁く通われては降参です」
「お嬢さんだなんて、そう若くはありませんわ。結婚もしておりますし」
「ほう、奥様ですか」
支配人は意外そうにリゼを眺めた。ちょっとした契約を交わしたいとオフィスに招かれた。彼について店舗奥に足を向ける。厨房の賑やかさが壁の向こうから伝わる。晩餐前の支度で忙しい様子だ。
部屋に入ると椅子を示され、リゼは腰を下ろした。支配人はデスクに紙を置きさらさらと記した。彼女が見るとレストランに工房の品を置くだけの内容が記載されている。そこに費用は発生しないことも。
確認したリゼがペンを持ちサインし終わると不意に手を握られた。握手ではなく包むような触れ方に違和感を持った。
(何?)
支配人は手を緩めず指を絡めてくる。側にあるぬれたように艶のある髪と髭をこの時気味悪く感じた。
「人妻であるのなら、こちらの望みがわかるでしょう?」
「あの……、何をおっしゃっているのですか?」
「私に楽しい時間を持たせてくれるのなら、契約に色をつけてもいい。悪いようにはしません。そう勿体ぶらずに」
言葉と嫌らしい視線に状況を悟ったリゼは、相手の手を振り解こうとした。
「お止め下さい。仕事の話をしに伺っただけです」
「それでこちらに何の旨味があるのです? 厨房の連中は気に入っていたようだが、大した品でもない。あなた込みでなら、考えなくもないというわけですよ」
無礼で破廉恥な言葉にリゼは頭に血が上りかけた。身の危険より工房の品を貶され、仕事を馬鹿にされたことの悔しさが強い。
気強く彼女が支配人をにらみ返した時だ。
「君はまたそんなことをやっているのか」
鋭い声がした。振り返るとドアの付近に男性が立っている。その姿を認めた支配人が慌ててリゼの手を放した。彼女は取り戻した手を胸元に引き寄せる。
「いや、あの……、これはそういうわけでは……」
支配人はうろたえて答えに詰まっている。女性に不埒な行為を行う現行犯なので、抗弁のしようもない。
リゼはその隙に立ち上がった。この場を去るいいチャンスだ。デスクのサイン入りの契約書は忘れずに頂戴しておく。出来事はショックはショックだが、交わした契約は無駄にしたくない。
「では、契約通り商品を置かせていただきますね。商品は追ってお持ちいたします」
その際は自分だけではなくジンを連れて来ようと思った。
軽く辞儀をし身を翻した。ドアでは先ほどの紳士が彼女を外へ促してくれた。ちらりと目を向けたが、品のいいタイを見たところでドアが閉じてしまった。
支配人の振る舞いの件の後、リゼは出先での行動に気をつけるようになった。今後も何かの折に彼女を侮って嫌らしい誘いを持ちかけられることもあり得た。
前回は運良く客人が来て救われたが、そうでなかったらどうなっていたか。悲鳴を上げるなりして逃げただろうが、そうなれば契約などは御破算だったに違いない。
(密室で男性と二人にならないこと)
と肝に銘じた。夫のキッドには心配をかけるし打ち明けられないが、秘書のネロリにはぼやいてみせた。彼女は泣き出しそうな顔で十分用心するように強く諭された。
「足元を見てものを言ってくる連中もいますから」
「そうね、気をつけるわ。あの男性、支配人に対して叱りつけるような声だった。オーナーに近い人物かも。その人が「また」とも言っていたし前科もありそう」
出来事から一月も経たずに、当のレストランから置いた商品について工房へ逆の打診があった。デザートに使いたいために仕入れを行いたいという。願ったり叶ったりの成果にリゼは小躍りしたい気分だった。
営業が結果に結びつくことは少ないが、少しずつ工房の品が世間に広がっていく手応えはある。父の代からの質に定評のある品で、そこに今風の色を乗せていけば販路も広がるはず。彼女はそんな思いに自信を深めた。
そんな折、キッドが高熱を出した。珍しく外出した翌日のことで、その無理がたたったのではとリゼは同行しなかったことを悔いた。
往診の医師は、
「流感でしょうが、ご主人は心音がやや弱い印象です。すぐにどうというものではありません。しかし、身体に強い負荷のかかる労働はなさらないほうがよろしい。ご自宅で軽い家事? ああそれなら安心ですね。あまり深く悩まれずに。普通の生活は健康に支障がありませんよ」
と応じた。その言葉を彼女は重く受け止めた。何気ないことがキッドにとって負荷になる恐れもある。軽い家事のうち、メイドの手の届かない埃はらいや絨毯の手入れなども手伝っていると聞く。
(わたしよりずっと家の事で気の回る人だもの。放って置けないのだろうけれど……)
日中を留守にする彼女には感じられないこだわりゆえの繊細さもあるはずだ。書斎の書籍の整理も手掛けて長い。
寝込んだ夫の看病に励みながら、メイドをもう一人増やす余裕はあるだろうかを考えた。出費は痛いが、夫がそれで安楽に過ごせるのならばその意味はある。
幸い、キッドは五日寝込んで回復した。リゼは熱が高い間は付ききりで看病し、平熱に戻った後も仕事を早く切り上げて帰った。夫も気にかかるが工房も放っては置けない。
彼の病気でより忙しい一日を終えて帰宅すると、来客があった。夫の母親の来訪だ。
「近くに寄ったから、せっかくだから顔を出してみたのよ」
何泊かすると言う。リゼは歓待した後でキッチンの様子をのぞいた。メイドに頼んであった買い物内容はあくまでも二人分だった。姑がいれば食材が足りない。
(今夜はわたしが我慢すればいいわ)
余ったリンゴをかじってその夜は済ませた。
翌朝、朝食の席で姑にキッドの様子を見てくれるように頼んだ。彼は回復はしたが、まだ本調子とはいかないようだ。母親がついていれば、リゼが仕事に出かけても安心できる。
「あら、困るわ。わたし予定があるの。昼前には出かけるのよ。もちろんお夕食前には戻りますよ」
「リゼ、いいよ。僕はもう大丈夫だから。何かあればメイドもいるのだし。母さんの好きにさせてやって」
夫が母親に優しいのは知っている。奔放で何かと噂のあるこの母を彼は少年期からずっと庇い続けていた。父との死別後再婚してからも金銭的な援助は続けたいとリゼに伝えている。
「母に窮屈な思いをしてほしくないんだ」。との夫の言葉に、彼女は自身の母親へのあまり良くない感情と比べて羨ましくも、その優しさにちょっと感動してもいた。現に夫は収入がなく、姑への仕送りはリゼが行なっているが、夫婦なのだから当然だとも思う。
「いいの。お母様がお忙しいのなら、わたしが早めに仕事を切り上げてくるわ」
「そうかい? 君も忙しいのに悪いね。そうだ、工房のパイを母さんに食べさせてあげたいんだ。すごく美味いから。分けてもらってきてくれないか?」
夫はリゼに微笑みながら左手をさすっている。
「嬉しいわ。お安いご用よ」
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