わたしの方が好きでした

帆々

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キッド

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 キッドが小説を書き出した。元々新聞社で記事を書いていた人なので素養もありそうだ。それが彼の生活の張りになればいいと、リゼは芯から応援した。

 内容を聞いても、

「ある程度まとまってから話すよ」

 と教えてくれない。フランには相談もしているようなのに。こればかりは寂しく思った。先だってのハガキの件で、日々のことに屈託はあるのは知れた。そこからの行動なのは想像できるから問いかけ辛い。

 キッドは創作欲が溢れるのか、深夜にも執筆している気配もある。意欲的なのは嬉しいが、無理が身体に障らないかだけは気がかりだ。本人にも声をかけ、フランにも気を配ってくれるように頼んだ。

 そんな日々に、キッドに持ちかけられた。

「フランを住み込みに頼めないかな。実は夜更けに発作的に痛み出してどうにも辛いことがある。自分で何とかしようにもそんな時は決まって動悸もするし、下手に動けないんだ」

 思いがけない申し出にリゼは一瞬呼吸も止まった。

「わたしを起こしてくれたらいいのに。いつだって構わないのよ」

「君は翌日も仕事で忙しいだろう。夜も僕の世話をしていれば、君が倒れてしまうよ」

「わたしは平気。強いわ。丈夫にできているの」

 キッドは困ったようにちょっと笑う。実は彼女を起こすために何度も声をかけたが、起きてもらえなかったという。

「それは……、ごめんなさい。わたし……」

「いいんだ。リゼは仕事で疲れているから。眠りが深いのはしょうがない。だから、フランにその代わりをお願いしようかと思う。もう決めたことなんだ。彼女の了承も得ている」

「え」

 フランはリゼと入れ替わりに先ほど帰って行った。しかし彼女は何も言わなかった。キッドからこのことを伝えてもらった後に、との配慮だったのかもしれない。しかし、住み込みになれば給金の変更だってある。それはリゼの管轄で、確認すべきことだってあっただろうに。

(キッドが言い値を払うと伝えたのかもしれないわ)

 ほっそりとため息をつく。

 夫が「もう決めたこと」と言ったからには彼女の言葉は届かない。

「彼女がいてくれれば創作の話もできるしね、それもありがたいことなんだ。博識で時代考証も指摘してくれて実に助かっているよ。君には教養の点は期待できないからね、悪いけれど」

 リゼは中流のお嬢さん向けのフィニッシングスクールを出ただけだ。家庭教師を務めていたフランにはきっと学識の点では遠く及ばない。そんなところも夫が彼女を重宝する理由に違いない。

「部屋を掃除しないと……」

 あきらめの境地で口にした。フランが住み込みの勤めになるのなら居室が必要になる。家自体は大きいが、住まいにしている階以外は人に貸し出している。なので余分の部屋は一つしかない。姑が来た時に泊まる手狭な客間だ。今後姑が宿泊する際は近場に宿を取るしかない。

「これはアイディアなんだけど。君の寝室をフランに使ってもらうのはどうだろう。僕の部屋と隣り合っているし、緊急の時にも呼び易いから」

「それは……」

 さすがにリゼも異論の声が出た。主人が寝室を使用人に譲るのはおかしいだろう。夫の言う利便性もわかるが、拒否感がある。

「呼び鈴の工事をしてもらうわ。あなたが紐を引けば客間に伝わるように」

「それで、真夜中に彼女が寝巻き姿で玄関前の廊下を通り居間を抜けて、更に廊下を歩いて僕の寝室に介護に来るのかい? 妙齢の婦人に気の毒ではないかと思うね。隣の部屋ならものの十秒でノックでいるというのに。ちょっと人の尊厳を軽んじて思える」

 その声はリゼをなじる色合いがにじんでいた。正しいことを自信を持って言う時の夫の声だ。

(それは間違っていないけれど……)

 妻である彼女がその「妙齢の婦人」に寝室を譲る気持ちは汲んでもらえないのか、と喉元まで出かかった。しかし苦い思いでそれをのみ込んだ。

 代わりに遠回しな非難が口を出た。

「お義母様がいらしたら困るわね。お泊まりになれないわ」

「それは僕も悩んだよ。母はこの家を別宅と考えているから歓迎してあげたい。でもいい案がある。君の客間にマットレスを入れれば、女性なら窮屈な思いをせずに二人は眠れるよ。二人は親子なんだから寝室を同じくするのはちっとも変じゃない。こんな当たり前のことに遅れて気づくなんて、僕も迂闊だったよ」

 思わずしゃっくりのような変な声が出かけた。口元を手で抑え彼から顔を背けた。この時ばかりは夫の言葉に頷きを返すのが難しかった。

 キッドはリゼの沈黙を納得と取ったようで、満足げに本を開いた。

 もやもやした思いが胸を占める中、彼女はバスを使いに居間を出た。気持ちは乱れて落ち着かないが、せめて身体だけでもさっぱりとしたかった。『行動に気持ちはついてくる』。亡父の持論だった。時に思い出すそれをこの時呪文のように胸で唱えた。

 熱い湯を頭に浴びながら、

「お父様の嘘つき」

 と呟く。髪を洗っても身体を湯に浸しても、心は晴れなかったからだ。
 
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