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キッド
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しおりを挟む小さな鞄を一つ持ってフランは家に居着いた。三食に加え他に光熱費や雑費はリゼ持ちということで、給金上げの請求はなかった。
稀とはいえ夜中の看護も担うのに肩透かしな反応で、リゼはちょっと拍子抜けた気分だった。てっきり現給金の倍額ほどをふっかけられると思っていただけに、ほっとするやら不思議やらでちょっと落ち着かなかった。
日々をこなしていくにつれ、彼女へ妙な先入観を持っていたようだとリゼは自分を恥じた。「ふっかけられる」という発想自体が彼女に失礼だった。請求して当然の報酬なのに。
家にも慣れた様子の彼女へ給金の増額を促すと、
「いいえ。こちらこそ奥様に寝室を譲っていただくなど、大変なご不便をおかけしているのですもの。お気になさらないで下さい。家族同然に住まわせていただけるだけで満足しておりますわ」
慇懃に断った。言葉は飾りだけではなく本心のようで、居間で寛ぐ様子からも家での暮らしを楽しんでくれているのがわかる。
キッドに内緒で深夜の呼び出しを聞けば、少し眉を顰めた。呼び出しはもう二度あったという。当然、離れた客間のリゼにはノックの音は聞こえない。
「お辛い様子でお気の毒ですわ。ホットミルクを飲んでいただいて、痛む箇所に香油を塗って差し上げると楽になるようです」
「そう、悪いわね。あなたも眠いでしょ。キッドの都合を聞いて昼間にも休んでいいのよ」
「わたしは眠りが浅いたちで。辛くもないのですよ。お気になさらず」
三人の生活は考えていた以上に円滑に過ぎていく。何よりキッドが機嫌良くしてくれるのが嬉しい。食事の席でも彼が何かを取り落とすことはなくなった。振り返れば、あれも何らかの心因的なものだったのかもしれない。
リゼの暮らしの変化はじき工房の皆にも伝わった。彼女が話すこともあるし、フランを気遣って彼女が手土産を用意したりすることなどで詳細が知られた。
秘書のネロリもベテラン従業員も皆が顔を見合わせた。
「一緒に住んでもらわなきゃならないほど悪いのなら、サナトリウムにでも療養に行かれた方がご主人のためですよ。温泉療法が随分いいって近所の爺様が言っていましたよ」
「お医者にはちゃんとかかっているのよ。転地療養を勧められたこともあるけれど、王都を出るのは嫌だって。ああいう療養所は空気はいいけれど、すごく田舎にあるのでしょ? キッドは都会っ子だもの、合わないのもわかるから。無理は言えないわ」
「寝たきりでも重病でもないのに、住み込みの看護人が必要だなんて妙な話ですよ」
「症状の辛さは本人にしかわからないでしょ。それに、フランは看護だけでなく彼の執筆のパートナーなのよ。わたしはほら、そういった教養がないから助言もできないけど、博識な彼女ならキッドの相談相手にはうってつけなの。秘書みたいなもの」
「ネロリ、あんたも秘書なんだから若社長のお宅に寝泊まりしないと」
誰かの当てこすりに笑いが広がった。リゼはむっとして口を尖らせた。
「茶化さないで」
「ジン、あんた同じ男としてどう思う? 奥さんに気を遣わせてまで住み込みの看護人が欲しい?」
急に話を振られたジンは困ったように笑った。二十二になるが今もどこか少年っぽい。
「奥さんはいないけど、代わりにうるさい母さんがいるから喧嘩しちゃうよ」
とリゼを非難せずに上手く返した。相手を悪く言わない優しい性格も彼が好かれる理由だ。しかし「いいね」とも言わなかった。ジンにとっても不可解な事情なのだろう。
「ジンのところのおっかさんはうるさ方だわね。それに料理はピカイチだし、あんたのお嫁さんになる人は勇気が必要ね。候補はまだいないの?」
「遊びに行く子はいるよ。でもどうかな?」
話が逸れてリゼはほっとした。皆には寝室をフランに譲ったことは伏せてある。きっと集中砲火を受けるだろうし、彼女自身今に至っても事態にどこか納得がいっていないところもあった。
そこへ郵便の配達があった。秘書のネロリが受け取りざっと検めている。ある一通を手に訝しげだ。
「工務店に修繕の支払いなんてあったかしら?」
「それ、わたしに回して。キッドのお義母様の家の修理の請求よ」
ネロリから受け取った請求書を開いていると、聞き捨てならないといった調子の声が上がった。
「ご主人の実家の修理代も支払ってあげるんですか?」
「実家ではないわ。お義母様は再婚なさったし……」
「なおのこと変じゃないですか。何で若社長が他人みたいな人の家の面倒を見なくちゃならないのか、全くわかりませんよ」
「お困りだったのよ。それに他人ではないわ。キッドのお母様だもの」
「ご主人本人はまだしも、母親まで嫁の細腕にぶら下がってくるだなんて、図々し過ぎますよ」
「お姑さんとはいえ、おつき合いを考え直しなさった方がいいですよ」
「大袈裟よ」
これまで姑の要求を負担に思うことはあったが、拒否すれば関係はぎくしゃくしたものになるに決まっている。姑もキッドもリゼの拒絶を冷淡だとなじるだろう。それに何と応じればいいのかわからない。彼らの願いを叶えてやらない自分が悪いように思えてもくる。
痛いものもあるがのめない要求や出費でもない。それで家庭の安寧が保たれるのなら安いものだとも思う。
(お父様もお母様を怒らせた時、特別な贈り物をして機嫌を取っていたわ)
それと何が違うのか。
それにリゼは決して姑を嫌いではなかった。何でも大袈裟に褒めてくれるし意地悪をされたこともない。根が陽気で裏表のないところも気楽だった。キッドも母親思いだし妻の自分もそうありたいと思う。
実の母親には冷めた感情しか持てない分を姑への孝行で埋めようとしているのかもしれない。母の愛情を求め続けてそれが得られないとわかった時、自分は母をどこかであきらめたのだと思う。母が彼女の何かで見切りをつけたのと同じように。
(もう間違えたくない)
求められたら応じる。応分の見返りなどなくたって構わない。そんな期待をしてしまうのは愛情を損得で考えてしまっている証拠だ。
皆の意見はリゼとキッド、その母の関係の機微を知らないが故のお節介だ。
「いいのよ、わたしがお義母様に言って請求書を回してもらったの。わたしから言い出したことよ」
きっぱりと告げ不毛な議論を打ち切った。
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