わたしの方が好きでした

帆々

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空虚さを抱いて

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 次の支配人との約束までリゼは商品の試作を繰り返した。従来より小型にしたボトルを飾るため、布に包んだり紙で巻いたり、あれこれと試した。

 人の意見も聞いた結果、くるんとレースを巻く形が一番上品に思われた。仕上がったそれを持って再び商談に入る。

「この状態の品を一度に幾つお願いできますか?」

「ご予約の前日までに百はご用意可能です。当日にずれ込むこともありますが、多少の融通は利きますのでご安心を」

「なるほど。こちらも特色のある品をと考えあぐねていたので満足です」

 支配人はあまり迷いもなく契約を決断してくれた。これまでの売り込みに比してあっさりと成果が出た。興味があると呼ばれて出かけても、契約に至らずに終わることは多々あった。予想以上の結果に帰路は足が軽い。

 しかも、とりわけ嬉しいのが一度きりの契約でないことだ。

「まず三ヶ月の取り決めでどうでしょう。定期の催しが月毎にあり、それに併せて発注をいたします。互いに支障がなければその後も引き続き更新ということで。後、この品を卸すのはホテルではうちだけでお願いします」

「ありがとうございます。ええ、願ってもないことです」

 今も幾つか卸し先はあるが、定まった販路が増えるのは何よりありがたかった。一つ一つ丁寧な梱包でそれ専用の人員も要る。今の従業員だけでは追いつかないかもしれない。新たに求人をかける頃合いのようだ……。

 リゼはその足で新たな契約にちなんだ用を済ませに回った。つき合いの長いガラス舎に行き容器の相談をしてから布地問屋でレースを物色した。工房に戻る頃には日も暮れかけ、早上がりの者は帰宅した後だった。

「ホテルの大きな仕事が取れたの」

 残っていた皆に報告してお茶で乾杯をした。

 離婚後は帰宅を急ぐ理由はなかったが、今は子猫のピッピがいる。辻馬車に乗りいつもの停車場で降りた。表通りではなく近道に裏通りを使った。子供はもう遊んでいないが、人や自転車の往来はある。家の付近でふと風に乗ったタバコの煙を感じた。何となく振り返ると、どこかのバルコニーに人影がある。点とともった小さな火が見えた。

 振り返った彼女と手すりにもたれた辺りを眺める誰かの視線が重なるように合った。家からの明かりで薄く姿が浮き立っている。

 知らない誰かがリゼへ手を振った。

「ご近所さん」

 つられて彼女も小さく手を挙げ応じた。それだけのこと。

 家はすぐだ。玄関から入るとその音でもうピッピが駆けてくる。抱き上げてやりながらキッチンに向かう。帰宅まで待っていてくれるメイドに上がるように告げた。以前から同じメイドだが、一人になったリゼにはより手の込んだ美味しいものを作り置いてくれている気がした。

 寝室でショールや帽子を取り戻る。そこで思い出した。再びキッチンに戻ると窓からさっきの誰かの姿がよく見える。何度かここでタバコを吸う誰かの人影を眺めたことがあったっけ……。

 リゼから手を振った。遅れて相手も手を振り返してくれる。

 ささやかな出来事で食事を済ます頃には忘れていた。



「ご近所さん」の人物には二日後に出会った。朝、停車場まで歩くリゼに若い男性が声をかけた。斜めがけのバックを提げた彼はリゼに微笑んだ。

「初めまして、の感じがしませんね。でも初めまして」

 蜂蜜色の髪が日の光に眩しく映えた。彼はテリア・ゼニファーと名乗り大学の講師をしていると言った。

「あなたを何度もお見かけしたことがあります。いつも急ぎ足だから、忙しい人なのだと思っていました」

「せっかちなだけ。急がないと馬車に乗り遅れるのじゃないかと思って」

 せかせかした姿を見られていたことが恥ずかしい。何となく連れ立って歩いた。テリアが話を絶やさず、それが停車場まで途切れなかった。

「では、いい一日を」

 手を振る彼に応じてリゼは馬車に乗った。いつも前のめりに歩く道も連れがいたため緩い歩調になった。それでも馬車には十分間に合った。

 キッドが彼女を「小鼠」とたとえたことはまだ忘れられない。でも自分の癖がそう連想させるのだとも気づいた。今は一人身で時間のゆとりがある。

(せかせかは必要ないわ)

 新たな知人は彼女に己の仕草を振り返る余裕をくれた。

 近所のテリアとはそれからも会った。彼が本屋から出るところと彼女が入るのがかち合ったり。荷物を抱えた彼女を追いかけた彼が手伝ってくれることもある。

 これまでもすれ違っていたことは多々あったはず。しかし意識せず通り過ぎてきた。視界に入ったのはリゼの生活が変わったからだ。一人になり帰宅時間がずれたし、気ままに買い物する機会も増えた。またキッドと別れる前であれば、知らぬ男性に手を振り返すなど決してしなかったはず。

 友達が増えたようなもので、不意の偶然はリゼには楽しかった。
 
 ある日の仕事帰りにも声をかけられた。話しながらゆったりとした歩調で並んで歩く。テリアは自分の講師の仕事のことや家族のことを話した。

「伯父の持ち物だった家を相続して住んでいます。大学にも通い易くなって快適ですよ。それ以前は馬車と自転車でニ時間近くかかっていたのに。僕はトネルコ出身なんです」

「まあ、郊外のトネルコならわたしも馴染みがあります。家の農場がある場所だから。ご家族は今もそちらに?」

 テリアは意外な接点に目を瞬いた。

「ええ、両親と弟が住んでいます。あの辺りは領地が込み入っているからもしかしたら、あちらでもご近所かもしれませんね」

「我が家の地所は領地と呼べるほどの規模じゃないんです。果樹園を持っている程度で領主館もありませんわ。テリアさんのところは領主様のお家なのね」

「僕は伯父の家を継いだので領主館は弟のものです。テリアと呼んで下さい。僕もリゼと呼んでも構いませんか?」

「ええ、もちろん」

「では、あなたの工房で使う果物は皆その果樹園から? なら、実に合理的ですね」

「せっかくの果物を腐らせてしまうのが惜しくて、父が始めたことです。やっと軌道に乗ってきたところ。ちょっと前に運よく大きな契約を結べて嬉しいんです。人手を募ろうかと悩み中です」

「それはすごいな。こんなご婦人がいらっしゃるだなんて。レースを編んだり刺繍をしたりするのがご婦人と思っていたのに。いや、それだって僕には逆立ちしたってできないが」

「わたしもそちら系は不得手です。大学で難しいことを教えている学者のあなたの方がずっとすごいと思いますけど」

「いやちっとも。大学には僕みたいなのがごろごろしていますよ。世間知らずで自分だけが賢いという顔をした輩が」

 テリアは辛辣に学者を評したが、リゼには彼を決してそうは思わなかった。生物の研究をしていると聞いたが、それについて話すときは表情は活き活きとし自信もうかがえた。上流と言っていい男性だが、尊大なそぶりもない。

 彼女はこれまでキッドしか男性を知らずにきた。幼なじみで初恋の人。他の男性の存在は眼中になかった。彼より魅力的な男性はいない。そう信じ込んできた。裏切られて破局に至った後もその思いは残る。

(でも……)

 キッドとは違ったタイプの違う魅力を持った男性はいるのだと思った。

「こんなことを言い出して、気味悪がられたりしないといいが……。ある夜会に行くことになっています。大学の教授からの筋の話で断れない。リゼ、僕と一緒に行ってもらえませんか?」

 思いがけない言葉だった。男性の誰かから誘われるなど絶えてなかった。離婚後も自分にそんなことがあるとは想像できなかった。

 驚きと妙な感動で答えが遅れた。それをテリアは拒絶と受け取ったのか、苦笑いを見せた。

「ほら、おかしな男だと思ったでしょう?」

「いえ、その……、驚いたの。とても……、だから……」

「だから?」

「……ええ。あの、…喜んで」
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