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空虚さを抱いて
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しおりを挟むテリアの誘った夜会はある資産家の邸宅で行われる演奏会だった。その資産家が彼の大学の支援者になっていて、教授はその機嫌を損ねたくない。しかし教授本人は「出たくない」という。それで助手でもあるテリアに代理の役が回ってきたらしい。
リゼが応諾すると彼はひどく喜んでくれた。肩の荷が降りたと笑った。単純な数合わせのお誘いだ。それでも選ばれたことで胸が高鳴った。
「もしわたしが断ったら、どうなさるの?」
「……田舎の幼なじみくらいしかあてがない」
ハンサムな人である。この彼の同伴者なら喜ぶ女性は多いだろう。なぜ自分を、とは思うが、
(近くにいたから)
に過ぎない。
理由はどうあれ、リゼの日常にドレスに悩むという課題が生まれた。しかもその悩みは華やいだ気分を連れてくる。
いい衣装屋を知らないかと秘書のネロリにぽろりともらしたところから、夜会の件が工房全体に伝わった。離婚で憑き物が落ちたのだ、厄が去って色男が舞い込んだ、と皆がかしましい。
「この前のホテルの契約といい、風向きが変わりましたよ。これも腐れ縁をぶった斬ったおかげ」
「西に向かって拝まなくちゃならない。どうぞそこから動かないでおくんなまし」
西はキッドの実家のある方向だ。妹夫妻と共にフランと住っているのは元義母から聞いている。リゼの珍しい社交の話題に作業場が盛り上がった。
「いつもの仕立て屋ではいけないのですか? ご贔屓の店なら信頼があるでしょう。亡くなった奥方もそこで仕立てなすってたのじゃ?」
確かに腕のいい贔屓の店はある。子供の頃から一家の仕立てものはその店に頼んで事足りてきた。品のいい衣装は作ってもらえるが、ドレスのような夜会服となると違うような気がする。
一人が、近所の奥さんで仕立ての仕事を請け負っている人の納め先が有名な衣装屋だ、という情報をくれた。
「ありがとう。ちょっと行ってみるわ」
「帰りじゃ閉まってしまって間に合いませんよ。善は急げ。出先に寄ったらいかがです?」
そういうものかと、出先のついでに立ち寄ることに決めた。
「物入りね、単なるおつき合いなのに」
照れ隠しだが半分本音でもある。今更社交に励むつもりもなく、使い道の少ないドレスは箪笥の肥やしだから。
「今までがなさ過ぎたんですよ。先代だってきっと喜んでいらっしゃる」
囃し立てるような声は気恥ずかしい。しかし自分の経験値の低さは承知している。応援に押されてリゼは頷いた。
所用の帰りに目当ての店に入った。すぐに店員のがかかる。
「いらっしゃいませ。ご予約の方でしょうか?」
一見らしい客を見る店員の探るような目にリゼは居心地が悪くなった。本屋やパン屋のような気さくな雰囲気はない。人に会うから身ぎれいには装っているが、婦人客を見慣れた側にはどう映るのやら、と落ち着かない。
「いえ、予約はないの。ドレスを頼みたくて……」
「どなたかのご紹介はおありでしょうか?」
「いえ……、ないわ」
リゼの返答に店員は色んな意味を含んだような笑みを浮かべて頷いた。店内はたくさんの既成のドレスが飾られ、華やぎつつも高級感のある雰囲気だ。果実とははっきり異なる甘い香りもする。
「どういったタイプのドレスをお求めでしょう?」
店員は吊られた衣装が並ぶブースへ彼女を導いた。ここで好みの型やデザインを決めた後、採寸の流れのようだ。
「こちらはこの季節の流行のデザインでございます。胸元に切り替えを……」
幾つか見せてもらう。鏡の前で軽くあてがってもらった一点が特に目を引いた。落ち着いたアイボリーとグリーンのドレスで我ながら顔色に映える気がした。
「これにお願いしようかしら。いつ頃仕上げてもらえるの?」
「さようでございますか……。当店では初めてのお客様にはお仕立てに入る前に一部ご入金を頂戴する規定になっております。このドレスですと、お品代金の半額分をご入金いただきましてからの作業になってしまいます。金額は……」
それを申し訳なさそうもなく告げる。大した金額だったが、リゼはさもありなんだとは思う。紹介もなく信用もない一見の客の注文は危うい。代金の回収が見込めるかも不安だ。仕立て上がった品を渡さなければ済む訳でもない。客の身体に合わせたドレスを別の客に正規の値ではさばくのは難しい。
リゼだって新規の取引はかなり気を揉む。少量の契約にして支払いの実績を見るのが常だ。だから店員の言い分は納得ができた。
言い値を小切手でその場で支払った。その途端、態度が変わった。薄っぺらい微笑が消え恭しくなった。椅子やお茶まで勧める。
「お茶は採寸の後でいただくわ」
「何なりと申し付け下さいませ。よろしければ美味しいケーキもございますの」
その変化がやや急でおかしくなる。衣装屋だってここだけではない。金払いのいいお客は他との奪い合いだ。飛び込みのリゼなど他へ逃す手はない。
採寸が済み、細かなことを打ち合わせた。出されたお茶を飲んでいると甲高い声が聞こえる。他の客の声か。
「……んなボンネットでは嫌よ。子供っぽくてうんざりしちゃう」
しかし声は子供のもののようだ。
「リボンばっかりあしらえば満足すると思わないで。ドレスとの調和が大事なのよ。流行りのデザインに右ならえのものばっかりね。創造性に乏しいのは顧客としてがっかりよ」
リゼよりよほどお洒落をわきまえている少女のようだ。セリフに似ず声が幼いからつい聞き耳を立てた。担当の店員がひっそりと教えてくれた。
「当店を厚くご贔屓のお客様ですわ」
「そうなの」
どれほどかして軽い足音がした。ぱたぱたと駆けるようだ。リゼのすぐ側を装った少女が早足で行く。先ほどの声の主だとわかる。
「お父様、早く。パイを食べるってお約束でしょ。急がないと売り切れちゃう」
おませなセリフには驚いたが、父親に甘える様子は普通の少女らしい。十歳ほどだろう。亜麻色の髪の愛らしい少女だった。彼女に遅れて父親が現れた。
「違うものを食べたらいいだろ」
その声にリゼはふと顔を上げた。居合わせた客を何気なく見たその彼と目が合う。ティーカップをつまむ指が滑りそうになった。その人はエルだった。
互いに驚きで数秒見つめ合った。先にそれを拭ったのはリゼだ。カップを置き微笑んで辞儀をした。驚きを引きずったままエルがそれに応じた。
「…お元気ですか?」
「ええ」
「こちらは贔屓なのですか?」
「いえ、初めてです」
「今日僕は娘の用で…」
リゼは二人のやり取りを興味津々と眺める少女に微笑んだ。ショパン婦人の甥で大きなホテルのオーナーとしか知らない。まだ若い彼の娘にしては大きい気がしたが、結婚が早いとかそういう理由だろう。
「工房は順調ですか?」
「はい、おかげさまで。ご存知かしら? そちら様と契約をいただけました。それで忙しくさせていただいていますわ」
「僕は何も。ここへは何のご用で?」
リゼは小首を傾げる。ややおかしい。衣装屋に妙齢の女性が客でいる。ドレスを買いに来た以外の何の用があるというのだろう。口調に皮肉は匂わないが、華やいだドレスが相応しくないと暗に示されているようでもある。
「予定があってそのための衣装をあつらえに来ました。ご存知のように縁がなかったもので、慌てて駆け込んできましたの」
「ここは娘が贔屓にしています。僕の名を出してくれれば融通が利く。仕立てを急がせたいのなら、ぜひに。ブーケ、彼女にご挨拶を。リゼ・カンパネラ嬢。ほら大叔母様の大家さんだよ」
ブーケと呼ばれた少女は父親の前に進み出るとリゼに微笑んだ。歯の生え替わり時期で欠けた前歯が愛らしい。見た目より幼いのかもしれない。
二人とは辞儀を交わして別れた。エルの言葉のおかげで衣装は急いでもらえそうだ。
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