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番外編

リィの小心な取り越し苦労

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 ――夜明け前。

 リィはいつも通りの頃合いに、ぬくい寝台の上で目を覚ました。腰に回されたイグルシアスの腕を静かに解いて身を起こしたところで、まだ眠っている彼をじっと見下す。

 端正で綺麗な寝顔だ。

 空色の瞳も好きだが、眠っている時の顔も好きだ。起きている時よりずっと若く見えて、歳の差を感じさせない。

 ……もっと早くに自分が生まれていたのなら、子どもじみた扱いはされなかっただろうか。頭を撫で回されて良い子だと褒められたりするのが嫌いなのではないが、公爵として国のために活躍しているイグルシアスが、それによって更に遠い人間に見えてしまうこともあるのだ。

 穏やかな寝息を聞きながら、リィは小さく溜息をつく。

 ――主従の契りを結んで以降、彼には何度も屋敷へ引っ越して来て欲しいとせがまれている。こうして泊まりに来ることはあるが、独り住まいをしている平屋を引き払うことにまだ踏み切れない。

 イグルシアスとは……、こそばゆい言い方をすれば、恋人とかいう辺りの関係だ。好きな相手と少しでも一緒に居たいとおもうのなら、同居には賛成だ。

 ……しかし、相手が公爵ともなると単純な『二人暮らし』という雰囲気とは程遠い。

 彼の住む公爵邸はリィからしてみればとてつもなく立派だ。あのような屋敷に住むのは少しばかりでなく気後れしてしまう。それに、屋敷には常に侍女達が居る。イグルシアスが不在であっても良くしてくれる彼女達には悪いが、他人にあれこれと世話を焼かれることなどなかった身としては、どうにも落ち着かない。何度か顔を合わせるうちに少しは慣れてはきているが、まだあの屋敷の空気に馴染むにはほど遠いのだ。

 それから、会えば頻繁に体を求められるのも、悩みの種だ。

 欲しがられるのは嬉しいし、幾らでも抱かせてやりたい。いや、抱かれたい。どんなに激しい抱かれ方をしても気持ちが良いし、身も心も満たされる。奥深くまで暴かれる瞬間を思い出すだけで、体が疼くようにまでなってしまった。

 だが、殴り合いの喧嘩をすれば必ず負けるほど非力だろうに、体力は底なしだ。行為の直後などまともに歩けず、抱えられて浴室に運ばれるのが毎度のことになっている。回数を抑えずに体調を崩して負けが込んでしまっては、闘士として恰好がつかない。

 無様な姿を見せたくはない。彼の闘士としてもっと立派な男になりたい。そのためには、求められるままに体を許してばかりいては駄目なのだ。
   
 ……もう少し堪え性を付けてくれたらと思わないでもないが、我慢をさせて良いのだろうか。あれだけの精力がある男なのだから、不満を感じて他の男や女の所に行ってしまうのではないのか……。

 引っ越しのことも、引け目を感じていない訳ではない。

 いくら贅沢な暮らしに慣れないからとはいえ、同居に踏み切れないでいる今の状況は彼にとって面白くはないだろう。腕っぷしだけが取り得の融通が利かない若造に、いつまで目を向けていてくれるだろうか。そのうちに愛想を尽かされてしまうかもしれない。

 ――言いようのない不安に胸の奥がきゅっと締め付けられた。

「……俺、どうしたらアンタに愛想尽かされねぇ男になれるんだろうな……」

 眉根を寄せて金色の髪を撫でながら紡がれたのは、か細い声での問い掛けだった。柄にもなく心細くなり、寝台に再び身を横たえてイグルシアスに擦り寄る。

 「シア……」

 切ない想いを名を呼ぶことで紛らわせながら、形の良い唇に触れるだけの口付けをした。

「――もうっ! 朝からなんて可愛いことしてくれるのっ!」
「ひっ!」

 眠っていると思っていたイグルシアスにいきなり抱き付かれて、驚きのあまり身を震わせた。

「なっ、シ、シアっ! 起きてやがったのかっ!」
「うん! 珍しく目が覚めたんだよ! そのお陰で良い思いが出来たね!」
「お、起きてるなら、目ぇ開けてろよバカっ! アホっ!」

 ……起きていたということは、今の気弱な問い掛けを聞かれてしまったのだ。

 とてつもなく情けなくて恰好が悪い。顔を火照らせながら寝台から逃げ出そうとしたが、床に転がり落ちる前に長い腕に腰を捕らえられてあっさりと引き戻された。

「抱き付くなっ! も、やだぁ!」
「こんな可愛い君を抱き締めないでどうするのっ!」
「バ、バカっ! やっ、やだっ! バカ、離れろ! んっ……んぅ……!」

 混乱してあどけない声を上げるリィの唇を、イグルシアスが奪う。

「ん……っ、逃げないで。僕が君に愛想を尽かすなんて有り得ないよ。どうしてそう思うの?」
「だ、だってっ、アンタ、抱きたいって言っても俺っ、あんまさせてやんねぇし、引っ越して来いって、いうのだって……、結局、言うこときいてねぇだろ……。アンタがして欲しいこと、ロクにしてやれてねぇからっ……!」
  
 情けなさに涙が出そうで声を詰まらせながら、たどたどしく心の内を吐き出す。
 
「僕が我儘ばかり言うから、悩ませてしまっていたんだね」
「んんっ、あっ、舐めるなよ……っ」

 イグルシアスが苦笑いをして、唇を何度もついばんでくる。ぺろりと目尻の涙を舐められくすぐったさに首を竦めると、頭を抱き込まれ優しく撫でられた。

「泣き虫の君も可愛いけれど、元気で強気な君の方が好きだよ。何度でも言うけど、僕は君を手放す気なんてないのだから、そんな顔をして不安がらないで……。なんの心配もいらないよ」

 優しい言葉と手つきに、新しい涙がぽたりと微かな音を立ててシーツに落ちる。

「……どう言ったら良いのかな。……万年盛ってるみたいで恥ずかしいけど、その、はっきり言えば毎日でも君と……いやらしいことをしたい。だけど、それだと身体が辛いのでしょ? 無理して許してくれなくていい。引っ越しのことだってそうだよ。……今までの暮らしとは違うのだから、戸惑うのも仕方のないことだもの。その辺は、これから一緒に考えていこうね」

 背中を軽く叩いて子守歌を謡う様に囁かれ、不安とはまた違う意味で強く胸を締め付けられた。

「ひ、引っ越しはともかく、アンタ底なしなのにっ、俺だけで満足できるのかよっ! 他の奴んとこ、行っちまうんだろ!」
 
 ……低く甘い声に心を揺さぶられて、リィはしゃくりあげながら最も不安に思っていたことをぶちまけてしまった。

「ええっ! ちょ、底なしって! 浮気の心配までしてたのっ? 信じられない! 他の人なんて嫌だよ! リィったらすごく可愛くて色っぽいから、いつも抱き過ぎてしまうんだよ! 最近は大人っぽい色気が出てるし、誰かに狙われないか心配してるくらいなのに! それに僕、君以外はもう抱けないよ!」
「この大バカッ! なに恥ずかしいこち言ってやがんだ色ボケがっ! 誰が俺なんか狙うかっ!」
「色ボケなんて酷い! 君はきちんと自分のことを自覚すべきだよ!」
「あぁ? 意味わかんねぇし! 引っこ抜くぞコラァ!」 
「いたっ! ちょ、髪は引っ張らないで! 止めて!」
「うるせぇアホがっ! 色ボケ! 潰すぞ!」
「酷いし痛い! あっ、駄目っ! 抜けちゃうっ!」

 ……本当にアホなのは自分だ。 

 イグルシアスは、呆れる程あけすけに好いてくれているのだ。今まで有り余るほどにそれを受けて取っていたというのに、まだ彼を信じられずに疑ってしまったことを後悔した。
 
「……ごめんな」

 恥かしさから散々に髪を引っ張った後、小声で謝りながら胸元に顔を埋めてぎゅっと抱き付くと、痛いなぁとぼやきながらも、彼は大きな手で何度も何度も頭を撫でてくれた。

 ……イグルシアスのために、なにができるのかを少しずつ考えていこう。

 そう強く思いながら、リィは優しく心地良い手に身を任せたのだった。
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