月猫

波奈海月

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月夜のエトランゼ

4.

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 眠かったわけではない。状況を整理したかった。
 横になった丈太郎は考える。何が何だか、一体全体どういうことなんだか。
 猫が人になって自分の家にいたなんて、常識をもってするならありえない。しかし初めこそ驚いたが、レンと話しているうちに、こういうのもありかと思えるようになっていた。自分は常識的な男だと思っていたが結構柔軟なようだ。
 それに、どうも自分の記憶が曖昧すぎだった。
 朝起きて、いつものように会社に行った。それからいつものように外回り営業。取引先を訪問してご機嫌窺って、いつものように僅かばかりの注文をもらって。
 俺の人生ってこんなものなのか。いつものように、いつものように。代わり映えのしない日々のルーチンワーク。
 まあ、今に始まったことではないけれど、と自嘲する。働くようになって、そうやってもう十年余りすごしてきたのだ。
 それから今日はどうしたんだっけ?
 公園にも行った。レンが言ったとおり、猫のレンにニャンキーの猫缶やって。そのあと遅くなった自分の昼飯を食いに定食屋に行った。
 食いながら何かした気がする。こういうときにするのは、プライベートなことだ。仕事の段取りを組むとかはない。だったら誰かにメールとか?
 思い出せない。そもそも誰かとは誰だ。さっきも誰かのことを考えていたはずだが、さっぱり思い当たるヤツがいない。
 会社の同僚、取引先、学生時代の友人、家族、親戚。自分を取り巻く人間関係、決して多いとはいえないにしろ、それなりにいるはずだが、誰一人として顔が浮かんでこない。
 だいたい今夜、俺はどこで夕飯を食った? どこで飲んだ? どうやって帰ってきた?
 ずるずると何かに足元から引き込まれている。そんな感覚だった。
『彼と結婚するわ』
 女の声が聞こえた。
 結婚するって? お前が? あいつと?
『彼は頼りになるもの。あなたと違って』
 ああ、確かにな。俺なんかよりもずっとあいつは頼りになる。昇進の見込みもねえ平社員の俺なんかよりも、あいつはこれから出世していくからな。仕事は順調で。
 でもな、俺さ。お前のことどうも好きだったらしいぜ? 笑っちまうだろ? お前をそんなふうに意識したことなかったくせにな。情けねえよな。結婚するって聞かされて初めて気づくなんてさ。
 何てこった、まったくよう。
 まるで悪い夢見てるみたいじゃねえか。何だかもう面倒くせえなあ。
「丈太郎さん」
 誰だよ、俺は寝てんだよ。
「丈太郎さん、起きて。起きてください」
 だから誰だって。寝てんのに起こしやがるのは。


「丈太郎さんっ!」
「だーっ! うっせいぞ、せっかく寝てんのに邪魔しやがって!!」
 いつの間にか眠ってしまったらしい。
 体を揺さぶられて丈太郎は、がばっと起き上がった。目の前には心配そうに自分を見つめるレンの顔があった。
「レン! てめえ、何考えてんだっ」
「僕のことが分かるんですね。よかった」
 ほっとしたと言わんばかりに、レンの頭上の耳は丈太郎のほうを向き、尻尾は背後でほわんほわん動いていた。
「よかねえだろうが。人がいい気で寝てるっつーのにっ」
「何がいい気ですか。そんなにうなされてて」
 心外そうにピシッと言い返したレンが、丈太郎の顔を覗き込んだ。
「お。お前! 顔近づけんじゃねえっ」
 整った顔が目の前に迫り、丈太郎はまたも鼓動が速まってくるのを感じた。猫の目は金色で縦に黒目の太さが変わるが、今のレンの目は人と何ら変わらない。ただ、何もかも見透かすような深い色をしていた。
 どこかバツの悪さを覚えた丈太郎は、ふと窓に目をやる。引きっ放しのカーテンの隙間からは、おぼろな光が差し込んでいた。
「月の光? まだ夜? 俺ずいぶん寝てた気がするんだが……」
 枕元に置いたデジタル時計の数字は、まだ五分も進んでいなかった。
「なあ、レン。お前が俺の目の前にいるってことは、さっきの話、夢じゃないってことだよな」
 レンは答えなかった。
「じゃあさ、俺の望み叶えるつー恩返しの話もホントのことで」
 構わず丈太郎は言葉を続ける。
「だったら叶えろよ。俺はあいつと結婚したい」
「あいつって、誰ですか?」
 レンの声は静かだった。静かに問い返される。
「あいつはあいつだ。えっと名前は――あれ? 何だっけ? 分から、ねえ――?」
 つい今しがた、夢に出てきた女。他の男と結婚すると言っていたが、自分だってずっと好きだった。だから願ったっていいだろう。
 なのに、女の名前が分からない。それどころか顔が浮かばない。
「い、今ちょっと今夜の酒がすぎて酔っぱらっててよ、度忘れしちまってるだけだ。よくあるんだ、俺。肝心のことを忘れちまうってえの」
「本当に結婚したいと思う相手なら、名前を忘れることはないです」
 淡々と切り返された。それが丈太郎を苛立たせた。
「分かってるよ。けどな、今夜の俺はおかしいんだ。記憶が、俺にかかわりのあるやつの名前が分からねえんだよ。顔もだぞ? 親の顔すら浮かんでこねえってどういうこった」
 思い出そうとするそばから、名前が消えていく。顔が黒く塗りつぶされていく。砂時計の砂が下に落ちていくように、丈太郎の記憶がさらさらと零れ、なくなっていくのだ。
「記憶が? 分からない?」
 レンの顔が歪んだ。
「……時間が余りないようです。早く、望みを言ってください」
「何だ、望みを叶えるって時間制限あんのか。だったらあいつと結婚だ。早いとこちょちょいと頼むわ」
「それはできません」
「何でだ? 望みを叶えると言ったじゃねえか。恩返しに願いを叶えるなんて偉そうなこと言っておいて、できねえってえのかっ!?」
 人を急かしておいて、いざ望みを口にすればできないという。ふざけるな、と言いたい。
「彼女との結婚は、それがあなたの本当の望みであれば叶えます。でもそうじゃない」
「俺がそう願ってるんだから俺の願いだろうが」
「彼女の運命はもう決まっています。それを違えることはできません。あなたがそれを受け入れているのですから」
「意味分かんねえぞ。何言ってんだ、お前。俺が何を受け入れてるって――?」
 結婚すると聞いて、何も言わなかったからか? けれどあの状況で言えるわけないだろう。幸せそうに見つめあう二人を前にして――。
 ざざっ、と頭の中にノイズが走る。
「っ! 今……?」
「どうかしましたか?」
「何でもねえよ」
 彼女って誰のことだ? あの二人とは?
 いったい自分は何を思い出していたのだろう。結婚話など、誰ので、いつ聞いた話だ?
 頭の中がはっきりしない。胸の辺りがもやもやする。
「うぐっ」
 込み上げてきた吐き気を堪えて、丈太郎はベッドから立ち上がった。くらりとめまいに襲われ、足がふらつく。
「大丈夫ですか、丈太郎さん」
「触るなっ」
 自分に伸ばされたレンの手を丈太郎は乱暴に振り払った。
「一瞬でも期待した俺がバカってことだな。出かけてくる」
「そんな……、どこへ行くというんですか?」
「どこだっていいだろ。気分悪いから飲み直してくんだよ」
 丈太郎はよれたジャケットを肩に引っかけると部屋を後にした。
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