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有村親子の物語

ミクと拓海と私の日常

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「ミクさんが気付いた事なのですが、拓海君が話している時にかすかに男性の声が聞こえているという事だったのです。その状況で聞こえる声は容疑者のものだと思うのですが、我々にはその声の主が誰なのか見当もつきませんでした。ですが、ミクさんが言った『竹島さんの声だ』という一言と、有村さんのご自宅にかかってきた番号が竹島さんの家の電話番号だったという事もあって話を聞きに竹島さんの家に捜査員を派遣したのです。出てきた女性が捜査員を目にするとこちらが質問する前に全て自供したようなのです。そのまま家の中を確認すると、手足を縛られて椅子に座らされている拓海君と男性がいたそうです。男性は観念したのか抵抗する様子も見せずに署まで連行することが出来たのでした」
「その男性が北海道にいる竹島君だったって事ですか?」
「いいえ、その男性は有村さんの知っている竹島さんのお姉さんの息子さんでした」
 竹島君のお姉さんと言えば竹島君の家を出てどこかで暮らしているという話を聞いたことがあったし、旦那さんが捕まっているという話も聞いたことがある。そんな人がなぜうちの拓海を誘拐したのだろうか。それに、拓海と同い年の息子さんが一緒に拓海を誘拐したという事も気になっていた。
「事件の詳細については今後の取り調べでわかると思いますよ。ひとまず、拓海君が無事に帰ってきた事を喜びましょう。何事もなく解決してくれて、こちらとしても一安心ですからね。有村さんも気になるでしょうから、話はこれくらいにしまして、病院まで送らせますね」

 後日判明したことなのだが、竹島君の両親はお姉さんに引っ越し先を教えることは無かったのだが、家を出ていくという事を伝えて鍵も渡していたそうだ。
 家賃のかからない持ち家だったという事もあって少しでも生活が楽になればいいという思いで家を提供したという事だった。これについては竹島君も同意していたようなのだが、私がどうこう言う問題でもないだろう。
 拓海を誘拐した理由に関しては、我が家には妻が残してくれたお金と保険金で貯金がたくさんあるのだろ言うという思いと自分の息子と同い年の拓海が名門私立に受かったという逆恨みがあったという事だった。自分の息子は高校受験に失敗したから名門私立に合格した拓海が憎くなったと言っているそうなのだが、拓海は努力の末に勝ち取った合格なので恨まれる筋合いは無いと思った。
 そして、ミクがどうして竹島君の家族だと思ったのかという事なのだが、ミクが電話の向こうの人物が竹島君だと思った理由は声ではなく、言葉のイントネーションが少し違っていたからだという事だった。竹島君は時々発音が変な時があったと思うのだが、それに関してはほぼ違和感もなかった。だが、人間の言葉を必死で覚えている段階のミクにとってはそのイントネーションの違いはとても気になるものだったそうだ。私とも拓海ともテレビから聞こえる言葉とも違うイントネーションはミクにとっては印象深かったようで、私達以上に喋り方の違いを感じているとのことだったのだ。
 ミクの話では、声の違いはよくわからないが話し方で大体の人は区別出来るという事だった。私と拓海も微妙に話し方が違うようなのだが、基本的にはそこまで違いが無いらしい。
 春から拓海は一人寮生活になるのだが、私とミクも住み慣れたこの家を離れて拓海の住む予定の町に引っ越そうかと計画をしている。仕事は辞めることになるとは思うのだが、妻の残してくれたお金と今まで蓄えていた貯金で当面の生活は何とかなりそうだし、拓海が事件に巻き込まれたショックを一番受けているミクが拓海と離れたくないというわがままを言っているのだ。ただ、その気持ちは私も痛いほどよくわかっているので引っ越すことに関しては何の問題も無いと思う。
 その事を会社に相談してみると、枡花学園から少し離れた場所にある関連会社で働いてみてはどうかという話を頂けたのだ。今までとは少し勝手の違う仕事にはなってしまうのだが、拓海の側にいられるという安心感もあるので不安はそれほど感じない。むしろ、今のまま離れた場所で暮らしている方が日々不安を募らせてしまう恐れすらあるのだ。
 竹島君は事件が起こってからすぐに私のもとへ飛んできてくれて謝罪をしてくれたのだが、竹島君が主導したわけでもないので私は別に謝罪をして欲しいという思いも無かった。竹島君としては実の姉が誘拐事件を起こしたという事で責任を取って会社を辞めると言っていたのだが、私は竹島君が仕事を辞めないように説得をしたのだ。彼が悪いわけではないし、働き者の彼を失うことは私にとってもマイナスになってしまうと思ったからだ。だが、身内が誘拐事件を起こしてしまったという事もあって竹島君の事を良く思わない人もいるのは事実らしく、時々電話で話す竹島君からは以前のような元気な声は聞こえてこなくなっていたのだ。イントネーションは相変わらず私達とは少し違っていたのだが、それも今回の事件が無ければ気にならない程度のものだった。

「パパさんは新しい家で何かしたいことはありますか?」
「そうだな。特に何もしないってのもいいかもしれないな」
「それはダメですよ。知らない場所に行ったらたくさん散歩しないとダメですからね」
「本当にミクは散歩が好きだね」
「散歩も好きですけど、私はパパさんと拓海と一緒にする散歩が好きなんです。ママさんがいれば良かったんだけど、今はパパさんだけで我慢しますから」
「休みになれば拓海も帰ってくると思うし、その時は三人で散歩しような」
「やったー。みんなでする散歩は楽しいから嬉しいです」
 新しい生活も一人だったら楽しめなかったのかもしれないが、ミクがいてくれて私も助かっていた。いつも明るく元気なミクがいなければ私は妻がいなくなった段階で全てを失っていたのかもしれない。
 拓海も誘拐事件に巻き込まれたことはあっても変わらずに元気でやっているし、友達もたくさんできたようだ。週末の度に家に顔を出してくれるようになっているのだが、その時に連れてくる友達ともミクを通して仲良くなることが出来ていた。
 竹島君も時々電話をくれるのだが、私とミクと三人で話していると少しずつではあるが以前のような明るい竹島君に戻りつつあったのだ。
 誰からも愛されるミクではあるが、愛される理由はミクから無償の愛を相手に与えているからなのだろうな。今ではミクも一人で出歩けるようになっていたし、ちょっとした買い物くらいだった出来るようになっていた。これはミクだけの努力ではなく、近くに住んでいる人達の協力もあって出来ている事なのだが、ミクが誰からも好かれているという事も大きな要因になっていると思う。
 他の誰よりも人間が好きなミクは誰とでも仲良くなっているのだ。私もそんなミクを見習って少しは社交的に生きていこうと思うのだが、ミクのように誰の事も好きになるという域に達するまでにはまだ時間がかかりそうだ。
 ただ、行きつけの定食屋に少しだけ気になる女性がいるので話だけでもしてみたいとは思っている。

 話をするくらいだったら妻も怒ったりはしないだろうしね。
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