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第12話 抑えきれない本能
しおりを挟む夕方の風が街を撫で、閉店後の静けさが店内を包み込む。
澪が最後の鍵を閉めた、そのとき。
ふいに、背後から影が伸びる。
振り返る間もなく、耳元に低い声が落ちた。
「……終わったなら、こっちに来い」
その声音には、いつもと違う熱が滲んでいて。
次の瞬間、手首を掴まれる。
その掌は熱く、澪に拒む隙を与えない。
「え、ちょ、待って……っ」
困惑の声も虚しく、リクは澪を引いたまま歩き出す。
リクから伝わる温度が、まるで彼の感情そのものみたいに熱くて、強くて――逃げられない。
「リクさん、どこに…っ」
「いいから、着いてこい」
短く、けれど一切の迷いがない言葉。
リクの瞳が、じりじりと肌の奥を焼くように澪を捉える。
「限界だろ、お前」
「限界って、そんな……」
反論しかけた言葉は、足元がふらついたことで飲み込まれた。
リクの腕が、即座に澪を支える。
「……やっぱりな。俺の目はごまかせねぇ」
澪の身体は、無意識のうちに限界を迎えていた。
火照った頬に浅い呼吸、汗ばんだ額。
そして――
澪自身がまだ気づいていない変化に、リクは気づいていた。
彼は、何も言わず澪を抱き上げて車へ連れて行く。
「ちょ……っ!待って……!」
抗う声も弱々しい。
それ以上に、リクの腕の中が心地よくて、澪の身体から自然と力が抜けてしまう。
スーツ越しのリクの匂いが、ふわりと鼻をくすぐると、澪の眠気を誘う。
「本当に……強引すぎますよ……」
「番に何かあったら、強引どころか、何でもする。覚悟しておけ」
その声には、どこか切羽詰まった様子があって
車内の静寂が、その緊迫感をより際立たせていた。
あたたかく、甘く、くすぐったい。
――夢の中で見た彼と、今そばにいる彼が、重なって見えた。
*
そして――数十分後。
澪の姿はリクの自宅にあった。
静寂に包まれた彼の自宅にあるソファーの上。
澪の身体がそっと横たわっていた。
「少し、横になれ」
低く抑えた声で囁きながら、リクは澪の髪を撫でる。
額には汗が滲み、頬は熱を帯び、吐息は浅い。
――これは、ただの体調不良ではない。
(……やっぱり、兆候が出てる)
番の香りが、澪の身体から立ちのぼっていた。
甘く、濃く、抗いがたい衝動を掻き立てる匂い。
それはまるで、リクの理性を溶かす甘美な毒だった。
「……リク、さん……」
ふるりと澪の唇が震える。
寝言のように、リクの名を呼ぶ。
その瞬間、リクの喉がひくりと鳴る。
己の身体が、意思とは関係なく勝手に前へ傾こうとする。
(……ずるいだろ、それは)
無防備に名を呼ぶその声に、理性が音を立てて軋む。
獣の本能が、リクの内側で熱を噴き上げていた。
触れたい。抱きたい。
肌を重ね、その奥まで自分で満たしたい――
けれど。
リクは拳を握りしめた。
爪が手のひらに食い込み、痛みで本能を押しとどめる。
(……匂いだけで、ここまで……)
喉奥から漏れる唸り。
尾の根元が熱く痺れ、腰が疼く。
「……ックソ」
澪の身体は、確かに変わり始めていた。
彼女の中に、番としての本能が芽吹き始めている。
そして、同時に――
番を見つけた“獣”としての自分も、限界に近づいていた。
このまま近づいたら、絶対に、戻れなくなる。
彼女を、自分のものにしたい。
心も、身体も、なにもかも――自分で埋め尽くしたい。
それは獣人としての本能。
“番”を得た者の、どうしようもない欲望だった。
リクは荒く息を吐き、ソファから身を引いた。
理性をかき集め、澪から距離を取ろうとするも、体中の血が熱く脈打っていた。
「……リクさん……やだ……いかないで……」
夢の中の声だと分かっていても、心臓が軋む。
その言葉を、どれだけ欲していたか。
どれだけ待ち続けたか。
(……だめだ)
自制の綱を、必死に掴み直す。
(今、手を出したら、きっと後悔する)
番として、彼女が心から自分を選ぶまでは――
リクはゆっくりと立ち上がる。
けれどその尾は、彼の意思に逆らい、名残惜しげに彼女の近くを漂う。
その先端が震えるのは、未練か、欲か。
リクは目を閉じる。
そして最後に、彼女へそっとブランケットをかける。
「……ゆっくりでいい。お前が、俺を選ぶその時まで……待つよ」
リクの顔に浮かんだ微笑は、優しくて――どこか切なかった。それは、自らの身を焦がすほどの、深い愛情。
*
やがて澪が目を覚ますと、肩にかけられていたブランケットがはらりと滑り落ちた。
ふわりと立ち昇るのは、リクの匂い。
甘く、深く、身体の奥まで染み込んでくるような香りだった。
(……また、あの夢を見たの……?)
熱く、濃密な口づけ。
肌を這う掌、耳をくすぐる囁き。
抗おうとした意識は溶けていき、全身が甘く蕩けていって――
「っ……」
一気に顔が火照る。耳の先までじんじん熱い。
あまりにもリアルな夢だからこそ、恥ずかしくてたまらなかった。
背を丸めて顔を覆った瞬間――
「目が覚めたか。……澪」
びくりと肩が跳ねる。
振り返ると、すぐそこに、ラウンジウェア姿のリクがいた。
けれどその瞳は、鋭く熱を帯びている。
「リクさん……どうして、私ここに……」
起き上がろうとしても、身体に力が入らず、混乱する。
「体調が悪そうだった。だから連れてきた。それだけだ」
低く押し出された声。
リクはゆっくりとソファの背に手をつき、澪を囲うように近づく。
その体温と匂いが、空気ごと澪の肌を染めた。
「そんな強引なこと……」
抗議のつもりが、声がうわずり、目を逸らしてしまう。
「……澪の本能が目覚めかけてた。だから、一人にするわけにはいかなかった」
リクの手が額に触れる。
ひんやりとした指先が、逆に熱を誘う。
「……まだ、熱いな」
撫でられた皮膚が跳ねる。
まるで身体中が、リクの指先を待っていたかのように。
「私、帰らないと……」
ようやく絞り出した言葉に――
「帰さない」
ぴしゃりと落とされた声は、鋭く、熱を帯びていた。
「お前が俺の番である以上、俺の許可なしに帰すつもりはない」
その言葉の熱に、澪の胸が高鳴る。
彼は、本気で――私を……
再びブランケットがかけ直され、額に触れるリクの指が、ぬるい熱を確かめるように頬を撫でた。
「飲め」
差し出されたグラス。
リクの指に触れただけで、心臓が跳ねた。
水を飲み干すと、氷嚢が額に当てられる。氷の冷たさと、リクの熱い体温の落差に、意識がふらりと揺れる。
そして、澪は気づいた。彼の熱は、澪の身体の奥まで染み込んでいて、どうやっても逃れられないことを。
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