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第11話 残り香と、揺らぐ鼓動
しおりを挟むやがて、電話を終えたリクが顔を上げる。
澪の姿が見えない。けれど、すぐそこにいる“気配”だけは、確かに感じる。
鼻腔をくすぐる甘い香り。
本能が「追え」と命じてくる。
(……隠れた?)
視線が鋭さを増す。喉奥から低く唸るような音が漏れ、近くのスタッフを睨むように見た。
「澪は、どこだ」
「え、えっと……月島さんなら、バックヤードに……」
言い終える前に、リクは歩き出していた。
バックヤードの扉の前。ノブを回すが、鍵がかかっている。
「おい、澪。そこにいるのは匂いでわかってる」
低く、少しだけ苛立ちの混じった声が、扉越しに響いた。
中で身を縮めた澪は、ビクリと震えた。
リクのその声だけで、全身の感覚が研ぎ澄まされていく。
「……勝手に嗅がないでくださいっ!」
羞恥と動揺がないまぜになり、つい声が尖った。
「いいから出てこい」
命令じみた声に、澪は思わず叫び返す。
「嫌、です! 今日は無理ですから!」
「は?」
低く落ちた声に、空気が張り詰める。
扉越しでもわかる。リクが、怒っている――いや、もっと複雑な何かを押し殺している。
「……俺から、離れたいのか?」
その一言に、澪の胸が締め付けられた。
「離れるも何も……私は、リクさんの“特別”なんかじゃ、ないですから……! リクさんが、勝手に“番”って言ってるだけで……!」
言った瞬間、空気が凍る。
「――ッ!」
ガンッ!
扉に何かが叩きつけられる音に、澪の肩が跳ねた。
「……なんでもないわけが、ないだろ」
その声には、怒りと、焦りと……悲しみのようなものが滲んでいる。
「わ、私だって……混乱してるんです……!」
胸の奥から、言葉が溢れた。
「毎日、毎日……迫られて、あんな夢まで見て……。怖くて、恥ずかしくて、どうしたらいいか……わかんないんです……!」
途切れ途切れの言葉。
喉が震えて、うまく息ができない。
沈黙とともに、扉の向こうの気配が、少しだけ変わった。
「……頼む。開けてくれ」
静かで、真っ直ぐな――懇願。
あれほど強引で自信に満ちていた彼が、縋るようにして、澪に触れようとしている。
「顔……見たい。澪が見えないと不安なんだ」
その声に、澪の手が自然と鍵に伸びた。
――カチリ。
ゆっくりと扉が開き、ほんの少しだけ顔を覗かせる澪。
頬は赤く、目元は揺れている。それでも、リクを拒むことはできなかった。
「……さっきのことは……その……」
言いかけて、言葉を探す澪に、リクが無言で近づく。
狭いバックヤード。逃げ場もない距離。
その空間が、ふたりの熱と気配で満たされていく。
「澪の顔を見ると、言葉が出なくなる」
ぽつりと、リクが呟いた。
その声は、驚くほど優しかった。
「お前……俺から隠れる前、どんな顔してたか自覚してるのか?」
「……し、知りません」
「顔、真っ赤にして、指先まで熱くなってた。俺の声にびくって反応しながら……でも、目は逸らさなかった」
「……それは……」
「可愛かった。すごく」
さらりと囁かれた一言に、澪の呼吸が止まる。
リクの手が頬に触れる。掌の温もりが、火照った肌を包み込む。
「怒ってなんかない。ただ……心配しただけだ」
「……勝手に、心配しないでください」
「勝手にしてしまうんだよ。“番”のことは、な」
またその言葉。
澪はそっと視線を落とし、唇を噛んだ。
「……その言い方、ずるいです」
「ずるいのはどっちだよ。俺は気持ちを全部さらけ出してるのに、澪は“特別じゃない”って顔をする」
リクの声が、ほんの少しだけ掠れていた。
その揺らぎが、まっすぐに澪の心に触れてくる。
「……あの夢、本当に変だったんです。すごくリアルで…」
ぽつり、と澪が言う。
「リクさんに抱きしめられて……髪とか首とか……すごく、優しく撫でられて……」
リクの目が少し見開かれる。
その視線に、澪は目を逸らせないまま、言葉を続けた。
「……あんなの、意識するなってほうが、無理です……」
その瞬間、リクがふっと笑った。
わずかに上がった口角。けれど、どこか寂しさを帯びた表情だった。
「……それ、現実でもやっていいか?」
「な……っ!」
驚きに目を見開いた澪を、リクがそっと抱き寄せる。
澪の身体は、抗えないように力が抜けて、静かに彼の胸に収まった。
「……ずっと、こうしたかった」
低く囁かれた声が、耳の奥を震わせる。
「言葉じゃなくて、体で伝えるほうが得意なんだよ。ごめんな」
「ずるい……本当に、優しくするのやめてください……揺らぐから……」
「それが狙い」
リクの指先が、澪の背中をゆっくりと撫でる。
「早く、俺のとこに来い」
その一言に、澪は何も言えなくなる。
ただ、心臓の音だけがうるさくて、息をするのも苦しくて。
しばらく二人は、言葉もなく寄り添っていた。
やがて澪が落ち着きを取り戻した頃、リクが静かに身体を離す。
その名残を惜しむように、澪の髪に優しく口づけた。
「今日は、これで帰る」
「……え……?」
「逃げてもいい。でも、忘れるな」
視線がまっすぐ、澪を捉える。
「俺は“番”だ。絶対、お前を諦めない」
最後にそう告げて、リクは静かに扉の向こうへ歩き出す。
澪は、まだリクの温もりが残る腕を見つめたまま、しばらくその場から動けなかった。
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