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第二十話 その背中に
しおりを挟む「ハァ、ハァ、ハァ」
シェラは逃げていた。
イシュタリアの宮殿に来て日が浅いシェラは道に疎い。
だから彼女が向かっているのは、唯一頼れるリヒムの家だった。
(癪だけど、将軍の家に駆けこめばあいつらも手出しできないはず)
だからその前に捕まえてしまえばいいと奴らが考えるのは自明の理だった。
道の先に兵士が現れた。
「いたぞ! 脱走者だ!」
「火の宮から通報があったが、本当に……!」
(どういうこと!? あの男が手を回したんじゃないの!?)
シェラを火の宮から連れ出すために正規の手続きを踏んだはずだ。
そうでなければ月の宮に移動することなどできないだろうし。
まさか天下の黄獣将軍が人さらいじみた真似などしないだろう。
(………………しないよね?)
なんだか不安になってきたシェラだった。
思い返せばリヒムは割と強引なところがある。
シェラに対する態度なんて特にそうだ。
もしかしたら政治的・派閥的理由なんてすっぽ抜いて自分を引き抜いたのかも。
(だとしたらそれは……私を)
思考が明後日のほうへ向き始めたその時だった。
「見つけたぜぇ、シェラぁ」
「っ!?」
ぬぅ。と影から手を突き出しながらクゥエルが現れた。
いきなり首根っこを掴まれ、シェラは子猫のように持ち上げられてしまう。
じたばたと足を動かすけれど、クゥエルは器用に身体を守って振りほどけない。
「ぐ……はな、して……!」
「嫌だね。お前は俺のもんだ。絶対に離してやるもんか」
ぷ、とシェラはクゥエルの顔面に唾を吐いた。
シェラの目は道端に落ちる生ごみを見るよりさらに冷たい。
「あんたのものになるくらいなら、死んだほうがマシ」
「テメェ……!」
「きゃっ!?」
廊下の壁に叩きつけられ、シェラは肺を圧迫されて呻いた。
クゥエルは怒りの形相で睨みつけてくる。
「大人しくしときゃ連れ帰るだけのつもりだったが、やめだ。テメェにはどっちが上なのか思い知らせてやる……!」
「ひッ」
上衣に手をかけられてシェラは思わず悲鳴を上げた。
これから起こることを想像すると、足が竦んで動けない。
しかし、その悲鳴がクゥエルの嗜虐心を掻き立てたようだ。
「ははっ、いいぜ。テメェのその面が見たかった……!」
「……っ」
「みっともなく泣きわめけ! すぐに俺がいい思いさせてやるからよぉ……!」
(いや、いや、いや……!)
誰か。誰か助けて。
こんな男に触られたくなんてない。怖い。いやだ。気持ち悪い。
(助けて、お姉ちゃん──!)
シェラが目を閉じた瞬間だった。
「俺の家族に何をしている」
「ぐへえッ!?」
クゥエルの顔面が面白いぐらいに歪み、彼はきりもみ打って吹き飛んだ。
地面を二転、三転したクゥエルの四肢に槍の穂先が突き立ち、悲鳴が上がる。
ずるずると、床にへたり込んだシェラの前に見慣れた男が手を差しのべた。
「大丈夫か、シェラ」
「ぁ……」
さぁ、と風が吹き抜け、銀色の髪が翻った。
虎の紋章が入ったマントをシェラに羽織らせて、彼は微笑む。
「ギリギリ間に合ったか?」
リヒム・クルアーンがいた。
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