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12 高貴な世界に踏み入れて
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ハナはそれから、店員の手によってあれよあれよという間に着飾られてしまった。
西洋の装いは、肌にぴったりとしている。用意された履物は、かかとが高くて細い。頭に乗せられた帽子は、小さくて帽子の意味がないのではないかと思う。
けれど、全てを着て、髪を整えられ、化粧を施された自分を姿見で見ると、まるで西洋のお姫様になったような心地がした。
(これが、私……)
あまりの嬉しさに胸がいっぱいになりながら、鷹保を振り返る。
「このような体験をさせて頂いて、本当に夢のようです! 素敵な褒美をありがとうございます、鷹保様」
鷹保は目尻を下げて、ハナを見つめた。
「ああ、本物のおひいさんみたいだ。おいで、ハナ」
手を差し出され、そこにちょこんと自分の手を載せた。礼儀がよく分からないのでそのままにしていると、鷹保はくるりと身を翻し、そのままハナの手を自分の腕に絡ませた。
鷹保はハナの足元を気遣うようにゆっくりと歩みを進める。ハナの胸は、うるさいくらいに高鳴る。
「もう少し、私に付き合ってくれるかい?」
鷹保が歩きながらそう言って、ハナはコクリと頷いた。
再び馬車に揺られ、やって来たのはこれまた大きな西洋風の建物だった。モダンな白い壁が、月明かりとガス灯に照らされて輝く。
「帝国劇場だよ」
「ていこく……げきじょう……?」
「ああ。前に、本を貸そうとしたことがあっただろう? 今夜の劇は、その演目なんだよ」
言いながら、ハナは鷹保に手を取られて馬車を降りた。途端に、自分がいるのが場違いな気がした。
着飾った令嬢や貴族たちが、楽しそうに談笑している。聞こえてくる言葉遣いや、目に入る仕草はどれも優雅で、彼らの顔には美しい微笑みが張り付いている。
ハナは以前、鷹保邸で行われた夜会を思い出した。
(大変なご褒美だわ。まさか、私がこちら側を体験する日が来るなんて!)
キョロキョロしながら、ハナは鷹保に導かれ帝国劇場の中に足を踏み入れた。入り口の横の、大きな張り紙を見る。
「ハ、ム、レット……?」
片仮名が読めたことは嬉しいが、ハナにはその意味が分からなかった。
「おや、文字が読めるようになったのかい」
鷹保が小さく微笑んで、小声でハナに言う。
「はい、でも何のことだか……」
「今日、これからやる演目の題名さ。ハムレットという、デンマークの王子が主人公なんだよ」
王子と聞くと、その隣にいる姫を思い浮かべる。ハナはこれから始まるその演目に、期待を膨らませた。
ふかふかな椅子に腰掛けて、どのくらいが経っただろう。想像を超えた悲しい物語に、ハナは言葉を失っていた。
閉じてしまった幕を呆然と見つめていると、右手に何かが触れる。鷹保の手だ。ハナの手を、そのままそっと包み込む。
「楽しかったかい?」
「悲しかったです……」
ハナは思ったことを告げた。楽しくはない。ハムレットの苦悩がとても苦しく、悲しい物語だった。
「鷹保様は、以前、これを私にお貸ししようとしていたのですね」
「ああ、好きなんだよ『ハムレット』。……復讐に燃えた、孤独な男だ。私に似ている」
「鷹保様……」
ハナは隣の鷹保の顔を見上げた。彼もまた、下りた幕の方を見つめていた。
「鷹保様は、お兄様を……」
言いかけて、制された。鷹保の人差し指が、ハナの唇にそっと触れたのだ。
「おひいさん、口が過ぎてしまったようだね」
鷹保がいつもの笑みでハナの顔を見つめる。
ハナはハッとした。このような人の多いところで、すべき話ではなかった。
「だが、人は皆そうだ。心が弱い故に、何かに囚われて間違えてしまう」
鷹保は前に向き直る。
「私は、できるものなら何も失いたくはない。けれど、執着すればするほど失う。人の心は移り変わる。それもまた、人の世だと私は思う」
鷹保の言葉は、ハナの耳に悲しく響く。
兄の身代わりという重荷のせいで、鷹保は何か大切なものを失っている。しかもそれを、仕方ないと捉えている。
(鷹保様は、きっと……お寂しいんだわ)
気づいてしまった。けれど、女中が主に向かってそれを言うのははばかられる。
ハナは無言で、鷹保に包まれていた右手を返してそのままキュっと繋いだ。
(主に向かって言うのではないのなら、どうか赦してください……)
鷹保を見上げる。彼はまだ、幕の降りた舞台を見つめていた。
「ハムレットは、寂しかったんだと思います。父が死んでしまったのが悲しかった。母の心が変わってしまったのが悲しかった。愛されたいのに、周りが皆死んでしまって寂しかった。叔父の犯した真実も苦しかった。だから、復讐することで、寂しさを紛らわせたかった……」
鷹保がこちらを向いた。目が合った。鷹保の瞳に、ハナが映った。
そこにいる自分は、自分ではないような気がする。喋っているのは自分なのに、そうでないような変な感覚に襲われた。
「孤独って、自分を苦しめてしまうものなのですね。私は周りの人に恵まれて幸せなのだと、改めて思い知りました」
自分の話にこじつけて、心を誤魔化すように笑みを浮かべた。
それなのに、目の前の鷹保はじっと真顔のままハナを見つめる。
(やっぱり、鷹保様は私の言いたいことをお見通しなのね)
苦しくなりながらも笑みを浮かべ続けていると、不意に鷹保の右手がハナの顔に伸びてきた。
「やはり、おひいさんは――」
その指先がハナの左頬をかすめる。ハナはどうしていいか分からず、ドクドク高鳴る胸のまま、動けないでいた。
「中條公のご子息様でしたか」
不意に声をかけられ、ハナはドキリとした。鷹保は名を呼ばれた方を振り向く。ハナも同じ方を向いた。
そこにいた人物は、ずんぐりとした熊のような姿。ハナはその顔を見た途端に、背筋が凍り、ぷるりと身震いした。
「財前侯……」
そこにいたのは、以前ハナが頬を叩いた宝華亭の客、財前だった。
「今夜はどこのご令嬢とご一緒ですか?」
財前が口元にだけ笑みを浮かべて、ハナの顔をじっと見た。悪意のあるその言い方に、ハナは思わず顔を伏せる。
「私が誰と一緒だろうが関係ないだろう。それとも、財前侯は他人の逢引の邪魔をするのがお好きかな? 横恋慕に、風情があるとは思えないが」
鷹保は牽制するように、するどい視線で財前に笑みを向ける。ハナはこの笑みを知っていた。
(鷹保様、なんて悪い笑みをするの……?)
けれども、以前は不快で怖かった笑みが、今はとても心強く感じる。
ハナは思わず、繋いだままだった鷹保の手を強く握った。
鷹保はその手を握り返し、一瞬こちらを向く。目が合った瞬間、その口元がふわりと綻んだ。優しい笑みに、心が落ち着いてくる。ハナも笑みを返した。
「横恋慕とは鷹保様も口が悪い。今日は見たことのない顔のご令嬢をお連れだったから、いやあどこの家のお方かと、気になりましてね」
財前はもう一度、ハナの顔を覗こうと屈んだ。ハナは必死に顔をそむけた。けれども、限界だった。
「青い目に、黒髪……? お前、宝華亭の……っ!」
バレた、と思うと同時に鷹保に繋いでいたままの手を引かれた。
「財前侯、おなごの記憶力だけはいいのですね!」
鷹保は皮肉いっぱいに笑みを浮かべた。そして、そのまま――
「逃げるよ、おひいさん!」
「きゃぁっ!」
そう言うと、ハナの手を握ったまま帝国劇場から走り出した。
「鷹保様、待って下さいっ!」
劇場を出て路地を横切った所で、ハナは叫んだ。高いかかとの靴では、走りにくくて仕方がない。現に、片一方はすでに脱げて、どこかへ落としてきてしまった。
慌ててもう片方を脱ぐと、それを手に「もう一方が……」と泣きそうな声で鷹保に告げた。
「そんなものはどうでもいいさ。おひいさんらしいじゃないか」
鷹保は楽しそうな笑みを浮かべていた。
「さあもう少し、敵はしつこいみたいだからねえ」
鷹保はくるりと身体を翻す。するとそのままハナの手を引き、夜の闇に紛れるように、帝都の街を走り抜けた。
「おひいさんは、やっぱり脚が速いねえ」
どれくらい走ったのだろう。街灯の少ない小さな路地裏で、鷹保は笑いながらハナにそう告げた。
こうして走るのは二度目だ。あの時は藁草履だったが、今は裸足である。
ハナも可笑しくなって、思わずクスリと笑った。
「さすがに少し疲れただろう。ここで休ませてもらおうか」
鷹保は尖った屋根の西洋作りの建物の、観音開きの戸を少しだけ押した。キィィと音を立てて戸が開き、身体を滑り込ませる。
「そんな、勝手に人のお宅に入っては……」
「大丈夫だ、ここは『教会』という場所だから」
そう言われて、ハナも中へとその身を滑り込ませた。
中を見回して驚いた。高い天井、正面は舞台のように少し高くなっている。そこに続く道のように、床には赤い絨毯が敷かれており、その横には木製の長椅子がいくつも並んでいる。
鷹保は一番後ろの椅子に腰掛けた。ハナもその隣に、腰を下ろす。
「教会には、西洋の神様がいるのさ」
「神社、みたいなものですか?」
「まあ、そうだな。人々は、ここで祈りを捧げる」
ハナはそう聞いて、思わず手を合わせ頭を下げた。
(西洋の神様、お邪魔致します。少しだけ、休ませてくださいな)
すると、ハナの頭を鷹保が優しく撫でた。
「せっかく可愛くしてもらったのに、髪が乱れてしまったね」
「いえ……そんなことより、靴の片一方が!」
自分の髪などどうでもいい。鷹保がお代を払ってくれた、高価な靴の方が気になった。
「大丈夫だよ、おひいさん。劇場内に落としたなら、誰かが拾ってくれるさ。靴なんて、片一方では使い道もないのだから」
鷹保がそう言って笑うと、本当に大丈夫な気がしてくる。ハナはやっと胸を撫で下ろし、背もたれに背をついた。
教会の正面には、絵画のように色の付いたガラス窓が広がっていた。月明かりが差し込んで、キラキラと輝くそれを、ハナはぼうっと見つめる。
「あの中央にいるのが、聖母マリア」
ハナがガラス窓に見惚れているのに気付いたらしい。鷹保の声に、ハナはガラスに描かれた女性をじっと見つめた。美しい人だ。
「西洋の、神様ですか?」
「まあ、そんなところだ」
鷹保がそう言ったから、ハナはもう一度、今度は彼女に向かって手を合わせた。
西洋人はすごい。彼らの信仰心は、こうしてガラスに絵をしたためてしまうほどなのだ。
美しいそれをうっとりと眺めていると、彼女の周りにピンク色の花弁が舞っていることに気が付いた。
「桜……?」
「いや、アーモンドだ」
鷹保がすぐに訂正した。ハナは鷹保邸に植わっていた、アーモンドの木を思い出す。
(鷹保様のお兄様が植えた木。……たしか、西洋かぶれとおっしゃっていたわね)
「アーモンドの花にはね、『希望』とか『永久の優しさ』なんて意味があるのさ。西洋の宗教画では、よく描かれる花なんだ」
「へえ……」
ハナは納得すると同時に、アーモンドの花を鷹保邸に植えた鷹保の兄のことを考えた。
きっと彼も、鷹保邸に『希望』や『永久の優しさ』を見出したかったに違いない。
「だがな、その実にはまた別の意味がある。『軽率』『愚かさ』『無分別』。……異国の女と駆け落ちし、家を飛び出した兄のようだ」
さらりと告げられた事実に、ハナは耳を疑った。
「駆け落ちして、家を飛び出した……?」
「ああ、そうだよ。その事実を隠そうと、父が私を兄に仕立てたんだ。私は元々妾の子で、世間からは隠されてきたからね。ちょうど良かったんだろう」
鷹保は目一杯、自分を皮肉るように笑う。けれども、その目は笑っておらず、ハナの胸は苦しくなった。
ハナはすぐ隣りにあった鷹保の手を、ぎゅっと握った。
「鷹保様は、鷹保様です」
そんな言葉でしか、気持ちを伝えられなくてもどかしい。
ハムレットが父の亡霊に言われ復讐に取り憑かれたように、鷹保もまた父や兄の言動に取り憑かれているのかもしれない。
けれど、鷹保には鷹保らしくいて欲しいと思った。
「ありがとう、おひいさん」
鷹保はハナの手をきゅっと握り返す。ハナは胸の奥まで握られたように苦しくなった。けれど、それは温かく優しい苦しみだった。
「『永久の優しさ』ですよね。……私は、アーモンドは鷹保様らしいと思います」
(鷹保様はお優しい。一女中を気にかけ、こんなに素敵な夜をくださるんだもの)
「だから、そんな悲しい顔をなさらないでください」
ハナが告げると、鷹保の目が見開かれる。
「お前さんは、不思議な女だ」
鷹保が呟いて、ハナに微笑んだ。今まで見た中で、一番優しい笑みだった。
「それじゃあ、おひいさんはずっと私と共にいてくれるかい?」
「もちろんです!」
即答した。鷹保はククっと笑った。
何かおかしなことを言ったかと首をかしげると、鷹保は声を出して笑い出す。
「おひいさんは、そのままでいてくれよ」
迎えの馬車が来るまで、鷹保はずっと笑っていた。
西洋の装いは、肌にぴったりとしている。用意された履物は、かかとが高くて細い。頭に乗せられた帽子は、小さくて帽子の意味がないのではないかと思う。
けれど、全てを着て、髪を整えられ、化粧を施された自分を姿見で見ると、まるで西洋のお姫様になったような心地がした。
(これが、私……)
あまりの嬉しさに胸がいっぱいになりながら、鷹保を振り返る。
「このような体験をさせて頂いて、本当に夢のようです! 素敵な褒美をありがとうございます、鷹保様」
鷹保は目尻を下げて、ハナを見つめた。
「ああ、本物のおひいさんみたいだ。おいで、ハナ」
手を差し出され、そこにちょこんと自分の手を載せた。礼儀がよく分からないのでそのままにしていると、鷹保はくるりと身を翻し、そのままハナの手を自分の腕に絡ませた。
鷹保はハナの足元を気遣うようにゆっくりと歩みを進める。ハナの胸は、うるさいくらいに高鳴る。
「もう少し、私に付き合ってくれるかい?」
鷹保が歩きながらそう言って、ハナはコクリと頷いた。
再び馬車に揺られ、やって来たのはこれまた大きな西洋風の建物だった。モダンな白い壁が、月明かりとガス灯に照らされて輝く。
「帝国劇場だよ」
「ていこく……げきじょう……?」
「ああ。前に、本を貸そうとしたことがあっただろう? 今夜の劇は、その演目なんだよ」
言いながら、ハナは鷹保に手を取られて馬車を降りた。途端に、自分がいるのが場違いな気がした。
着飾った令嬢や貴族たちが、楽しそうに談笑している。聞こえてくる言葉遣いや、目に入る仕草はどれも優雅で、彼らの顔には美しい微笑みが張り付いている。
ハナは以前、鷹保邸で行われた夜会を思い出した。
(大変なご褒美だわ。まさか、私がこちら側を体験する日が来るなんて!)
キョロキョロしながら、ハナは鷹保に導かれ帝国劇場の中に足を踏み入れた。入り口の横の、大きな張り紙を見る。
「ハ、ム、レット……?」
片仮名が読めたことは嬉しいが、ハナにはその意味が分からなかった。
「おや、文字が読めるようになったのかい」
鷹保が小さく微笑んで、小声でハナに言う。
「はい、でも何のことだか……」
「今日、これからやる演目の題名さ。ハムレットという、デンマークの王子が主人公なんだよ」
王子と聞くと、その隣にいる姫を思い浮かべる。ハナはこれから始まるその演目に、期待を膨らませた。
ふかふかな椅子に腰掛けて、どのくらいが経っただろう。想像を超えた悲しい物語に、ハナは言葉を失っていた。
閉じてしまった幕を呆然と見つめていると、右手に何かが触れる。鷹保の手だ。ハナの手を、そのままそっと包み込む。
「楽しかったかい?」
「悲しかったです……」
ハナは思ったことを告げた。楽しくはない。ハムレットの苦悩がとても苦しく、悲しい物語だった。
「鷹保様は、以前、これを私にお貸ししようとしていたのですね」
「ああ、好きなんだよ『ハムレット』。……復讐に燃えた、孤独な男だ。私に似ている」
「鷹保様……」
ハナは隣の鷹保の顔を見上げた。彼もまた、下りた幕の方を見つめていた。
「鷹保様は、お兄様を……」
言いかけて、制された。鷹保の人差し指が、ハナの唇にそっと触れたのだ。
「おひいさん、口が過ぎてしまったようだね」
鷹保がいつもの笑みでハナの顔を見つめる。
ハナはハッとした。このような人の多いところで、すべき話ではなかった。
「だが、人は皆そうだ。心が弱い故に、何かに囚われて間違えてしまう」
鷹保は前に向き直る。
「私は、できるものなら何も失いたくはない。けれど、執着すればするほど失う。人の心は移り変わる。それもまた、人の世だと私は思う」
鷹保の言葉は、ハナの耳に悲しく響く。
兄の身代わりという重荷のせいで、鷹保は何か大切なものを失っている。しかもそれを、仕方ないと捉えている。
(鷹保様は、きっと……お寂しいんだわ)
気づいてしまった。けれど、女中が主に向かってそれを言うのははばかられる。
ハナは無言で、鷹保に包まれていた右手を返してそのままキュっと繋いだ。
(主に向かって言うのではないのなら、どうか赦してください……)
鷹保を見上げる。彼はまだ、幕の降りた舞台を見つめていた。
「ハムレットは、寂しかったんだと思います。父が死んでしまったのが悲しかった。母の心が変わってしまったのが悲しかった。愛されたいのに、周りが皆死んでしまって寂しかった。叔父の犯した真実も苦しかった。だから、復讐することで、寂しさを紛らわせたかった……」
鷹保がこちらを向いた。目が合った。鷹保の瞳に、ハナが映った。
そこにいる自分は、自分ではないような気がする。喋っているのは自分なのに、そうでないような変な感覚に襲われた。
「孤独って、自分を苦しめてしまうものなのですね。私は周りの人に恵まれて幸せなのだと、改めて思い知りました」
自分の話にこじつけて、心を誤魔化すように笑みを浮かべた。
それなのに、目の前の鷹保はじっと真顔のままハナを見つめる。
(やっぱり、鷹保様は私の言いたいことをお見通しなのね)
苦しくなりながらも笑みを浮かべ続けていると、不意に鷹保の右手がハナの顔に伸びてきた。
「やはり、おひいさんは――」
その指先がハナの左頬をかすめる。ハナはどうしていいか分からず、ドクドク高鳴る胸のまま、動けないでいた。
「中條公のご子息様でしたか」
不意に声をかけられ、ハナはドキリとした。鷹保は名を呼ばれた方を振り向く。ハナも同じ方を向いた。
そこにいた人物は、ずんぐりとした熊のような姿。ハナはその顔を見た途端に、背筋が凍り、ぷるりと身震いした。
「財前侯……」
そこにいたのは、以前ハナが頬を叩いた宝華亭の客、財前だった。
「今夜はどこのご令嬢とご一緒ですか?」
財前が口元にだけ笑みを浮かべて、ハナの顔をじっと見た。悪意のあるその言い方に、ハナは思わず顔を伏せる。
「私が誰と一緒だろうが関係ないだろう。それとも、財前侯は他人の逢引の邪魔をするのがお好きかな? 横恋慕に、風情があるとは思えないが」
鷹保は牽制するように、するどい視線で財前に笑みを向ける。ハナはこの笑みを知っていた。
(鷹保様、なんて悪い笑みをするの……?)
けれども、以前は不快で怖かった笑みが、今はとても心強く感じる。
ハナは思わず、繋いだままだった鷹保の手を強く握った。
鷹保はその手を握り返し、一瞬こちらを向く。目が合った瞬間、その口元がふわりと綻んだ。優しい笑みに、心が落ち着いてくる。ハナも笑みを返した。
「横恋慕とは鷹保様も口が悪い。今日は見たことのない顔のご令嬢をお連れだったから、いやあどこの家のお方かと、気になりましてね」
財前はもう一度、ハナの顔を覗こうと屈んだ。ハナは必死に顔をそむけた。けれども、限界だった。
「青い目に、黒髪……? お前、宝華亭の……っ!」
バレた、と思うと同時に鷹保に繋いでいたままの手を引かれた。
「財前侯、おなごの記憶力だけはいいのですね!」
鷹保は皮肉いっぱいに笑みを浮かべた。そして、そのまま――
「逃げるよ、おひいさん!」
「きゃぁっ!」
そう言うと、ハナの手を握ったまま帝国劇場から走り出した。
「鷹保様、待って下さいっ!」
劇場を出て路地を横切った所で、ハナは叫んだ。高いかかとの靴では、走りにくくて仕方がない。現に、片一方はすでに脱げて、どこかへ落としてきてしまった。
慌ててもう片方を脱ぐと、それを手に「もう一方が……」と泣きそうな声で鷹保に告げた。
「そんなものはどうでもいいさ。おひいさんらしいじゃないか」
鷹保は楽しそうな笑みを浮かべていた。
「さあもう少し、敵はしつこいみたいだからねえ」
鷹保はくるりと身体を翻す。するとそのままハナの手を引き、夜の闇に紛れるように、帝都の街を走り抜けた。
「おひいさんは、やっぱり脚が速いねえ」
どれくらい走ったのだろう。街灯の少ない小さな路地裏で、鷹保は笑いながらハナにそう告げた。
こうして走るのは二度目だ。あの時は藁草履だったが、今は裸足である。
ハナも可笑しくなって、思わずクスリと笑った。
「さすがに少し疲れただろう。ここで休ませてもらおうか」
鷹保は尖った屋根の西洋作りの建物の、観音開きの戸を少しだけ押した。キィィと音を立てて戸が開き、身体を滑り込ませる。
「そんな、勝手に人のお宅に入っては……」
「大丈夫だ、ここは『教会』という場所だから」
そう言われて、ハナも中へとその身を滑り込ませた。
中を見回して驚いた。高い天井、正面は舞台のように少し高くなっている。そこに続く道のように、床には赤い絨毯が敷かれており、その横には木製の長椅子がいくつも並んでいる。
鷹保は一番後ろの椅子に腰掛けた。ハナもその隣に、腰を下ろす。
「教会には、西洋の神様がいるのさ」
「神社、みたいなものですか?」
「まあ、そうだな。人々は、ここで祈りを捧げる」
ハナはそう聞いて、思わず手を合わせ頭を下げた。
(西洋の神様、お邪魔致します。少しだけ、休ませてくださいな)
すると、ハナの頭を鷹保が優しく撫でた。
「せっかく可愛くしてもらったのに、髪が乱れてしまったね」
「いえ……そんなことより、靴の片一方が!」
自分の髪などどうでもいい。鷹保がお代を払ってくれた、高価な靴の方が気になった。
「大丈夫だよ、おひいさん。劇場内に落としたなら、誰かが拾ってくれるさ。靴なんて、片一方では使い道もないのだから」
鷹保がそう言って笑うと、本当に大丈夫な気がしてくる。ハナはやっと胸を撫で下ろし、背もたれに背をついた。
教会の正面には、絵画のように色の付いたガラス窓が広がっていた。月明かりが差し込んで、キラキラと輝くそれを、ハナはぼうっと見つめる。
「あの中央にいるのが、聖母マリア」
ハナがガラス窓に見惚れているのに気付いたらしい。鷹保の声に、ハナはガラスに描かれた女性をじっと見つめた。美しい人だ。
「西洋の、神様ですか?」
「まあ、そんなところだ」
鷹保がそう言ったから、ハナはもう一度、今度は彼女に向かって手を合わせた。
西洋人はすごい。彼らの信仰心は、こうしてガラスに絵をしたためてしまうほどなのだ。
美しいそれをうっとりと眺めていると、彼女の周りにピンク色の花弁が舞っていることに気が付いた。
「桜……?」
「いや、アーモンドだ」
鷹保がすぐに訂正した。ハナは鷹保邸に植わっていた、アーモンドの木を思い出す。
(鷹保様のお兄様が植えた木。……たしか、西洋かぶれとおっしゃっていたわね)
「アーモンドの花にはね、『希望』とか『永久の優しさ』なんて意味があるのさ。西洋の宗教画では、よく描かれる花なんだ」
「へえ……」
ハナは納得すると同時に、アーモンドの花を鷹保邸に植えた鷹保の兄のことを考えた。
きっと彼も、鷹保邸に『希望』や『永久の優しさ』を見出したかったに違いない。
「だがな、その実にはまた別の意味がある。『軽率』『愚かさ』『無分別』。……異国の女と駆け落ちし、家を飛び出した兄のようだ」
さらりと告げられた事実に、ハナは耳を疑った。
「駆け落ちして、家を飛び出した……?」
「ああ、そうだよ。その事実を隠そうと、父が私を兄に仕立てたんだ。私は元々妾の子で、世間からは隠されてきたからね。ちょうど良かったんだろう」
鷹保は目一杯、自分を皮肉るように笑う。けれども、その目は笑っておらず、ハナの胸は苦しくなった。
ハナはすぐ隣りにあった鷹保の手を、ぎゅっと握った。
「鷹保様は、鷹保様です」
そんな言葉でしか、気持ちを伝えられなくてもどかしい。
ハムレットが父の亡霊に言われ復讐に取り憑かれたように、鷹保もまた父や兄の言動に取り憑かれているのかもしれない。
けれど、鷹保には鷹保らしくいて欲しいと思った。
「ありがとう、おひいさん」
鷹保はハナの手をきゅっと握り返す。ハナは胸の奥まで握られたように苦しくなった。けれど、それは温かく優しい苦しみだった。
「『永久の優しさ』ですよね。……私は、アーモンドは鷹保様らしいと思います」
(鷹保様はお優しい。一女中を気にかけ、こんなに素敵な夜をくださるんだもの)
「だから、そんな悲しい顔をなさらないでください」
ハナが告げると、鷹保の目が見開かれる。
「お前さんは、不思議な女だ」
鷹保が呟いて、ハナに微笑んだ。今まで見た中で、一番優しい笑みだった。
「それじゃあ、おひいさんはずっと私と共にいてくれるかい?」
「もちろんです!」
即答した。鷹保はククっと笑った。
何かおかしなことを言ったかと首をかしげると、鷹保は声を出して笑い出す。
「おひいさんは、そのままでいてくれよ」
迎えの馬車が来るまで、鷹保はずっと笑っていた。
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