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12 高貴な世界に踏み入れて

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 ハナはそれから、店員の手によってあれよあれよという間に着飾られてしまった。

 西洋の装いは、肌にぴったりとしている。用意された履物は、かかとが高くて細い。頭に乗せられた帽子は、小さくて帽子の意味がないのではないかと思う。

 けれど、全てを着て、髪を整えられ、化粧を施された自分を姿見で見ると、まるで西洋のお姫様になったような心地がした。

(これが、私……)

 あまりの嬉しさに胸がいっぱいになりながら、鷹保を振り返る。

「このような体験をさせて頂いて、本当に夢のようです! 素敵な褒美をありがとうございます、鷹保様」

 鷹保は目尻を下げて、ハナを見つめた。

「ああ、本物のおひいさんみたいだ。おいで、ハナ」

 手を差し出され、そこにちょこんと自分の手を載せた。礼儀がよく分からないのでそのままにしていると、鷹保はくるりと身をひるがえし、そのままハナの手を自分の腕に絡ませた。
 鷹保はハナの足元を気遣うようにゆっくりと歩みを進める。ハナの胸は、うるさいくらいに高鳴る。

「もう少し、私に付き合ってくれるかい?」

 鷹保が歩きながらそう言って、ハナはコクリと頷いた。


 再び馬車に揺られ、やって来たのはこれまた大きな西洋風の建物だった。モダンな白い壁が、月明かりとガス灯に照らされて輝く。

「帝国劇場だよ」

「ていこく……げきじょう……?」

「ああ。前に、本を貸そうとしたことがあっただろう? 今夜の劇は、その演目なんだよ」

 言いながら、ハナは鷹保に手を取られて馬車を降りた。途端に、自分がいるのが場違いな気がした。
 着飾った令嬢や貴族たちが、楽しそうに談笑している。聞こえてくる言葉遣いや、目に入る仕草はどれも優雅で、彼らの顔には美しい微笑みが張り付いている。
 ハナは以前、鷹保邸で行われた夜会を思い出した。

(大変なご褒美だわ。まさか、私がこちら側を体験する日が来るなんて!)

 キョロキョロしながら、ハナは鷹保に導かれ帝国劇場の中に足を踏み入れた。入り口の横の、大きな張り紙を見る。

「ハ、ム、レット……?」

 片仮名が読めたことは嬉しいが、ハナにはその意味が分からなかった。

「おや、文字が読めるようになったのかい」

 鷹保が小さく微笑んで、小声でハナに言う。

「はい、でも何のことだか……」

「今日、これからやる演目の題名さ。ハムレットという、デンマークの王子が主人公なんだよ」

 王子と聞くと、その隣にいる姫を思い浮かべる。ハナはこれから始まるその演目に、期待を膨らませた。


 ふかふかな椅子に腰掛けて、どのくらいが経っただろう。想像を超えた悲しい物語に、ハナは言葉を失っていた。
 閉じてしまった幕を呆然と見つめていると、右手に何かが触れる。鷹保の手だ。ハナの手を、そのままそっと包み込む。

「楽しかったかい?」

「悲しかったです……」

 ハナは思ったことを告げた。楽しくはない。ハムレットの苦悩がとても苦しく、悲しい物語だった。

「鷹保様は、以前、これを私にお貸ししようとしていたのですね」

「ああ、好きなんだよ『ハムレット』。……復讐に燃えた、孤独な男だ。私に似ている」

「鷹保様……」

 ハナは隣の鷹保の顔を見上げた。彼もまた、下りた幕の方を見つめていた。

「鷹保様は、お兄様を……」

 言いかけて、制された。鷹保の人差し指が、ハナの唇にそっと触れたのだ。

「おひいさん、口が過ぎてしまったようだね」

 鷹保がいつもの笑みでハナの顔を見つめる。
 ハナはハッとした。このような人の多いところで、すべき話ではなかった。

「だが、人は皆そうだ。心が弱い故に、何かに囚われて間違えてしまう」

 鷹保は前に向き直る。

「私は、できるものなら何も失いたくはない。けれど、執着すればするほど失う。人の心は移り変わる。それもまた、人の世だと私は思う」

 鷹保の言葉は、ハナの耳に悲しく響く。
 兄の身代わりという重荷のせいで、鷹保は何か大切なものを失っている。しかもそれを、仕方ないと捉えている。

(鷹保様は、きっと……お寂しいんだわ)

 気づいてしまった。けれど、女中が主に向かってそれを言うのははばかられる。
 ハナは無言で、鷹保に包まれていた右手を返してそのままキュっと繋いだ。

(主に向かって言うのではないのなら、どうか赦してください……)

 鷹保を見上げる。彼はまだ、幕の降りた舞台を見つめていた。

「ハムレットは、寂しかったんだと思います。父が死んでしまったのが悲しかった。母の心が変わってしまったのが悲しかった。愛されたいのに、周りが皆死んでしまって寂しかった。叔父の犯した真実も苦しかった。だから、復讐することで、寂しさを紛らわせたかった……」

 鷹保がこちらを向いた。目が合った。鷹保の瞳に、ハナが映った。
 そこにいる自分は、自分ではないような気がする。喋っているのは自分なのに、そうでないような変な感覚に襲われた。

「孤独って、自分を苦しめてしまうものなのですね。私は周りの人に恵まれて幸せなのだと、改めて思い知りました」

 自分の話にこじつけて、心を誤魔化すように笑みを浮かべた。
 それなのに、目の前の鷹保はじっと真顔のままハナを見つめる。

(やっぱり、鷹保様は私の言いたいことをお見通しなのね)

 苦しくなりながらも笑みを浮かべ続けていると、不意に鷹保の右手がハナの顔に伸びてきた。

「やはり、おひいさんは――」

 その指先がハナの左頬をかすめる。ハナはどうしていいか分からず、ドクドク高鳴る胸のまま、動けないでいた。

「中條公のご子息様でしたか」

 不意に声をかけられ、ハナはドキリとした。鷹保は名を呼ばれた方を振り向く。ハナも同じ方を向いた。
 そこにいた人物は、ずんぐりとした熊のような姿。ハナはその顔を見た途端に、背筋が凍り、ぷるりと身震いした。

「財前侯……」

 そこにいたのは、以前ハナが頬を叩いた宝華亭の客、財前だった。

「今夜はどこのご令嬢とご一緒ですか?」

 財前が口元にだけ笑みを浮かべて、ハナの顔をじっと見た。悪意のあるその言い方に、ハナは思わず顔を伏せる。

「私が誰と一緒だろうが関係ないだろう。それとも、財前侯は他人の逢引の邪魔をするのがお好きかな? 横恋慕よこれんぼに、風情があるとは思えないが」

 鷹保は牽制するように、するどい視線で財前に笑みを向ける。ハナはこの笑みを知っていた。

(鷹保様、なんて悪い笑みをするの……?)

 けれども、以前は不快で怖かった笑みが、今はとても心強く感じる。
 ハナは思わず、繋いだままだった鷹保の手を強く握った。
 鷹保はその手を握り返し、一瞬こちらを向く。目が合った瞬間、その口元がふわりと綻んだ。優しい笑みに、心が落ち着いてくる。ハナも笑みを返した。

「横恋慕とは鷹保様も口が悪い。今日は見たことのない顔のご令嬢をお連れだったから、いやあどこの家のお方かと、気になりましてね」

 財前はもう一度、ハナの顔を覗こうと屈んだ。ハナは必死に顔をそむけた。けれども、限界だった。

「青い目に、黒髪……? お前、宝華亭の……っ!」

 バレた、と思うと同時に鷹保に繋いでいたままの手を引かれた。

「財前侯、おなごの記憶力だけはいいのですね!」

 鷹保は皮肉いっぱいに笑みを浮かべた。そして、そのまま――

「逃げるよ、おひいさん!」

「きゃぁっ!」

 そう言うと、ハナの手を握ったまま帝国劇場から走り出した。


「鷹保様、待って下さいっ!」

 劇場を出て路地を横切った所で、ハナは叫んだ。高いかかとの靴では、走りにくくて仕方がない。現に、片一方はすでに脱げて、どこかへ落としてきてしまった。
 慌ててもう片方を脱ぐと、それを手に「もう一方が……」と泣きそうな声で鷹保に告げた。

「そんなものはどうでもいいさ。おひいさんらしいじゃないか」

 鷹保は楽しそうな笑みを浮かべていた。

「さあもう少し、敵はしつこいみたいだからねえ」

 鷹保はくるりと身体を翻す。するとそのままハナの手を引き、夜の闇に紛れるように、帝都の街を走り抜けた。


「おひいさんは、やっぱり脚が速いねえ」

 どれくらい走ったのだろう。街灯の少ない小さな路地裏で、鷹保は笑いながらハナにそう告げた。
 こうして走るのは二度目だ。あの時は藁草履だったが、今は裸足である。
 ハナも可笑しくなって、思わずクスリと笑った。

「さすがに少し疲れただろう。ここで休ませてもらおうか」

 鷹保は尖った屋根の西洋作りの建物の、観音開きの戸を少しだけ押した。キィィと音を立てて戸が開き、身体を滑り込ませる。

「そんな、勝手に人のお宅に入っては……」

「大丈夫だ、ここは『教会』という場所だから」

 そう言われて、ハナも中へとその身を滑り込ませた。

 中を見回して驚いた。高い天井、正面は舞台のように少し高くなっている。そこに続く道のように、床には赤い絨毯が敷かれており、その横には木製の長椅子がいくつも並んでいる。

 鷹保は一番後ろの椅子に腰掛けた。ハナもその隣に、腰を下ろす。

「教会には、西洋の神様がいるのさ」

「神社、みたいなものですか?」

「まあ、そうだな。人々は、ここで祈りを捧げる」

 ハナはそう聞いて、思わず手を合わせ頭を下げた。

(西洋の神様、お邪魔致します。少しだけ、休ませてくださいな)

 すると、ハナの頭を鷹保が優しく撫でた。

「せっかく可愛くしてもらったのに、髪が乱れてしまったね」

「いえ……そんなことより、靴の片一方が!」

 自分の髪などどうでもいい。鷹保がお代を払ってくれた、高価な靴の方が気になった。

「大丈夫だよ、おひいさん。劇場内に落としたなら、誰かが拾ってくれるさ。靴なんて、片一方では使い道もないのだから」

 鷹保がそう言って笑うと、本当に大丈夫な気がしてくる。ハナはやっと胸を撫で下ろし、背もたれに背をついた。

 教会の正面には、絵画のように色の付いたガラス窓が広がっていた。月明かりが差し込んで、キラキラと輝くそれを、ハナはぼうっと見つめる。

「あの中央にいるのが、聖母マリア」

 ハナがガラス窓に見惚れているのに気付いたらしい。鷹保の声に、ハナはガラスに描かれた女性をじっと見つめた。美しい人だ。

「西洋の、神様ですか?」

「まあ、そんなところだ」

 鷹保がそう言ったから、ハナはもう一度、今度は彼女に向かって手を合わせた。

 西洋人はすごい。彼らの信仰心は、こうしてガラスに絵をしたためてしまうほどなのだ。
 美しいそれをうっとりと眺めていると、彼女の周りにピンク色の花弁が舞っていることに気が付いた。

「桜……?」

「いや、アーモンドだ」

 鷹保がすぐに訂正した。ハナは鷹保邸に植わっていた、アーモンドの木を思い出す。

(鷹保様のお兄様が植えた木。……たしか、西洋かぶれとおっしゃっていたわね)

「アーモンドの花にはね、『希望』とか『永久の優しさ』なんて意味があるのさ。西洋の宗教画では、よく描かれる花なんだ」

「へえ……」

 ハナは納得すると同時に、アーモンドの花を鷹保邸に植えた鷹保の兄のことを考えた。
 きっと彼も、鷹保邸に『希望』や『永久の優しさ』を見出みいだしたかったに違いない。

「だがな、その実にはまた別の意味がある。『軽率』『愚かさ』『無分別』。……異国の女と駆け落ちし、家を飛び出した兄のようだ」

 さらりと告げられた事実に、ハナは耳を疑った。

「駆け落ちして、家を飛び出した……?」

「ああ、そうだよ。その事実を隠そうと、父が私を兄に仕立てたんだ。私は元々めかけの子で、世間からは隠されてきたからね。ちょうど良かったんだろう」

 鷹保は目一杯めいっぱい、自分を皮肉るように笑う。けれども、その目は笑っておらず、ハナの胸は苦しくなった。

 ハナはすぐ隣りにあった鷹保の手を、ぎゅっと握った。

「鷹保様は、鷹保様です」

 そんな言葉でしか、気持ちを伝えられなくてもどかしい。
 ハムレットが父の亡霊に言われ復讐に取り憑かれたように、鷹保もまた父や兄の言動に取り憑かれているのかもしれない。
 けれど、鷹保には鷹保らしくいて欲しいと思った。

「ありがとう、おひいさん」

 鷹保はハナの手をきゅっと握り返す。ハナは胸の奥まで握られたように苦しくなった。けれど、それは温かく優しい苦しみだった。

「『永久の優しさ』ですよね。……私は、アーモンドは鷹保様らしいと思います」

(鷹保様はお優しい。一女中を気にかけ、こんなに素敵な夜をくださるんだもの)

「だから、そんな悲しい顔をなさらないでください」

 ハナが告げると、鷹保の目が見開かれる。

「お前さんは、不思議な女だ」

 鷹保が呟いて、ハナに微笑んだ。今まで見た中で、一番優しい笑みだった。

「それじゃあ、おひいさんはずっと私と共にいてくれるかい?」

「もちろんです!」

 即答した。鷹保はククっと笑った。
 何かおかしなことを言ったかと首をかしげると、鷹保は声を出して笑い出す。

「おひいさんは、そのままでいてくれよ」

 迎えの馬車が来るまで、鷹保はずっと笑っていた。
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