1 / 7
第一章
記憶のない少年
しおりを挟む
ノルディア王国の北の果て、辺境の町クルゼラ。
長く厳しい冬は町を沈黙の中に閉ざし、雪は音もなく降り積もる。屋根も道も、森の木々の枝さえも、すべて白一色に染まり、世界から色と熱を奪っていく。
けれど、その冷たさの中で、リセルの心はむしろ穏やかに澄んでいた。
十五歳のリセルは、この町の片隅でひとりきりで生きている。
幼い頃に両親を亡くし、祖母に引き取られて数年。その祖母も病でこの世を去ってからは、誰の手も借りず静かに日々を過ごしてきた。
寂しさは、胸の奥にある。
けれどそれを口にすることはない。誰かにすがるより、自分の手で火を灯し、薪を割り、布を織り、物を作って町の市で売る。その暮らしにいつの間にか慣れてしまった。
雪は、嫌いじゃない。
音もなく降り積もる白い世界は、まるで夢の中のようで、人の喧騒も、心のざわつきも、静かに包みこんでくれるから。
この町に春が来るのは、きっとあと三ヶ月は先。
町の人たちは寒さに文句ばかり言うけれど、私はこの雪の季節がいちばん好きだった。
誰も干渉してこない、真っ白で静かな時間。
今朝、目を覚ますと、外はまた一面の雪景色だった。
軒先に干した果物にうっすら積もった粉雪を払いながら、私はぽつりと独り言をこぼす。
「……今日は染め仕事はやめておこうかな。布も乾かないし」
昨日のうちに煮ておいた染料は、まずまずの出来だった。けれど、こんな天気では染めた布を干しても乾かない。市に出すのも、明日に延ばそう。
ふと時間が空いた。なら、あの大好きな場所へ行こう。
厚手のコートを羽織り、毛糸の手袋をはめる。雪靴を履いて扉を開けると、ひやりとした冷気が頬を撫でた。
「……さむっ」
それでも足は止まらない。
町はずれの、誰も気にも留めない古びた納屋。けれど私にとっては、両親が遺してくれたたったひとつの宝物。
埃をかぶった本、破れかけの地図、誰かが書いた詩。古くて、誰にも必要とされないものたちが、そこでは静かに息をしている。
私は、あの場所が好きだった。
誰のものでもない、けれど私だけが知っている、ひっそりとした世界。
膝まで積もった雪をかき分け、ゆっくりと歩いていく。
風が強くなってきた。少し吹雪いてきているかも。それでも、あと少し。何度も通った道だ。目を閉じても歩けるくらいには、もう慣れている。
そう、思っていたその時だった。
「……え?」
足が止まった。
白い雪の中に、誰かが倒れている。
一瞬、幻かと思った。けれど、それは確かに人だった。
雪に埋もれかけた人影。黒い髪に白い肌、凍りついた睫毛。そのあまりにも儚くどこか現実離れした美しさに息を呑んだ。まるで、雪の精霊でも見ているような気がしたからだ。
「ね、ねぇ、大丈夫……っ?」
見惚れていたのは一瞬だった。
すぐに我に返り、駆け寄る。雪を払って、頬に触れた瞬間、凍りつくような冷たさが手袋越しにも伝わってきた。
「しっかりして。こんなところで寝てたら、凍えちゃうよ!」
返事はない。けれど、微かに呼吸をしている気配があった。
私は彼の体を抱き起こし、全力で引きずるようにして納屋へ向かう。
……重い。正直、私の力では無理があったかもしれない。
それでも、不思議と体が動いた。ただ助けなきゃという想いだけが、胸にあった。
納屋の扉を押し開け、中の木箱の上に彼を寝かせる。
毛布をかけ、急いで薪をくべ、火を点ける。古い暖炉がぱちりと音を立てて、ゆっくりと温もりを広げていく。
「ねぇ……生きてるよね?」
誰にともなくそう呟きながら、彼の顔をじっと見つめた。
まだ若い。けれど、その少年はどこか大人びた雰囲気をまとっていた。
この人、いったい誰なの? どうして、あんなところで……?
問いは胸の奥に沈んだまま、私はそっと毛布を整えた。
体はひどく冷えていたけれど、怪我はなさそうで安心した。
すると、微かに、彼のまぶたが動いた。
「……っ」
目が開くと、宝石のような赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。心臓がどくりと跳ねる。
「……ここは」
掠れた声が、かすかに震えていた。
私は頷き、落ち着いた声で言う。
「ここは町はずれの納屋。私の、秘密の場所なの。あなた、雪の中で倒れていたのよ。私がここまで運んできたの」
彼は何も言わず、焦点の合わない目でぼんやりと私を見つめていた。
その表情には、言葉にできない戸惑いが滲んでいた。
「……ねえ、何があったの?」
私の問いに、彼は眉をひそめ、首を横に振る。
その仕草が、答えられない苦しさを物語っていた。
しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりと呟いた。
「わからない」
「……何も覚えてないの? 自分のことや名前は?」
「自分のこと?……名前も、わからない」
その言葉に、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
何も思い出せないなんて、それはどれほど不安だろう。
「それは……困ったわね。でも、大丈夫。しばらくここにいて。町の人にも聞いてくるから」
「それはやめて!」
突然、彼が強い声を上げた。
「ど、どうして? ここにいること、知られたくないの?」
「……わからない。でも……誰にも言わないで」
怯えたようなその表情に、私は迷いながらも頷いた。
「わかった。あなたのことは、私だけの秘密にする。だから、安心して」
「……ありがとう」
彼の顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。
その笑顔があまりにも綺麗で、胸が少しだけ高鳴った。
私はふと思いつき、口を開いた。
「えっと、名前がわからないままだと不便だし……仮の名前考える?」
彼は私をじっと見つめ、目を細める。
その視線には、どこか柔らかさが宿っていた。少しは私のこと信用してくれたのかな。
「……好きに、呼んでいい」
「んー……じゃあ、そうね。ノクってどう? 夜の雪っていう意味」
彼は小さく目を閉じ、わずかに口元を緩めた。
それが笑みだったのか、私にはわからなかったけれど、雪の中で出会った名もなき少年と私の時間は、こうして静かにゆっくりと重なり始めた。
長く厳しい冬は町を沈黙の中に閉ざし、雪は音もなく降り積もる。屋根も道も、森の木々の枝さえも、すべて白一色に染まり、世界から色と熱を奪っていく。
けれど、その冷たさの中で、リセルの心はむしろ穏やかに澄んでいた。
十五歳のリセルは、この町の片隅でひとりきりで生きている。
幼い頃に両親を亡くし、祖母に引き取られて数年。その祖母も病でこの世を去ってからは、誰の手も借りず静かに日々を過ごしてきた。
寂しさは、胸の奥にある。
けれどそれを口にすることはない。誰かにすがるより、自分の手で火を灯し、薪を割り、布を織り、物を作って町の市で売る。その暮らしにいつの間にか慣れてしまった。
雪は、嫌いじゃない。
音もなく降り積もる白い世界は、まるで夢の中のようで、人の喧騒も、心のざわつきも、静かに包みこんでくれるから。
この町に春が来るのは、きっとあと三ヶ月は先。
町の人たちは寒さに文句ばかり言うけれど、私はこの雪の季節がいちばん好きだった。
誰も干渉してこない、真っ白で静かな時間。
今朝、目を覚ますと、外はまた一面の雪景色だった。
軒先に干した果物にうっすら積もった粉雪を払いながら、私はぽつりと独り言をこぼす。
「……今日は染め仕事はやめておこうかな。布も乾かないし」
昨日のうちに煮ておいた染料は、まずまずの出来だった。けれど、こんな天気では染めた布を干しても乾かない。市に出すのも、明日に延ばそう。
ふと時間が空いた。なら、あの大好きな場所へ行こう。
厚手のコートを羽織り、毛糸の手袋をはめる。雪靴を履いて扉を開けると、ひやりとした冷気が頬を撫でた。
「……さむっ」
それでも足は止まらない。
町はずれの、誰も気にも留めない古びた納屋。けれど私にとっては、両親が遺してくれたたったひとつの宝物。
埃をかぶった本、破れかけの地図、誰かが書いた詩。古くて、誰にも必要とされないものたちが、そこでは静かに息をしている。
私は、あの場所が好きだった。
誰のものでもない、けれど私だけが知っている、ひっそりとした世界。
膝まで積もった雪をかき分け、ゆっくりと歩いていく。
風が強くなってきた。少し吹雪いてきているかも。それでも、あと少し。何度も通った道だ。目を閉じても歩けるくらいには、もう慣れている。
そう、思っていたその時だった。
「……え?」
足が止まった。
白い雪の中に、誰かが倒れている。
一瞬、幻かと思った。けれど、それは確かに人だった。
雪に埋もれかけた人影。黒い髪に白い肌、凍りついた睫毛。そのあまりにも儚くどこか現実離れした美しさに息を呑んだ。まるで、雪の精霊でも見ているような気がしたからだ。
「ね、ねぇ、大丈夫……っ?」
見惚れていたのは一瞬だった。
すぐに我に返り、駆け寄る。雪を払って、頬に触れた瞬間、凍りつくような冷たさが手袋越しにも伝わってきた。
「しっかりして。こんなところで寝てたら、凍えちゃうよ!」
返事はない。けれど、微かに呼吸をしている気配があった。
私は彼の体を抱き起こし、全力で引きずるようにして納屋へ向かう。
……重い。正直、私の力では無理があったかもしれない。
それでも、不思議と体が動いた。ただ助けなきゃという想いだけが、胸にあった。
納屋の扉を押し開け、中の木箱の上に彼を寝かせる。
毛布をかけ、急いで薪をくべ、火を点ける。古い暖炉がぱちりと音を立てて、ゆっくりと温もりを広げていく。
「ねぇ……生きてるよね?」
誰にともなくそう呟きながら、彼の顔をじっと見つめた。
まだ若い。けれど、その少年はどこか大人びた雰囲気をまとっていた。
この人、いったい誰なの? どうして、あんなところで……?
問いは胸の奥に沈んだまま、私はそっと毛布を整えた。
体はひどく冷えていたけれど、怪我はなさそうで安心した。
すると、微かに、彼のまぶたが動いた。
「……っ」
目が開くと、宝石のような赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。心臓がどくりと跳ねる。
「……ここは」
掠れた声が、かすかに震えていた。
私は頷き、落ち着いた声で言う。
「ここは町はずれの納屋。私の、秘密の場所なの。あなた、雪の中で倒れていたのよ。私がここまで運んできたの」
彼は何も言わず、焦点の合わない目でぼんやりと私を見つめていた。
その表情には、言葉にできない戸惑いが滲んでいた。
「……ねえ、何があったの?」
私の問いに、彼は眉をひそめ、首を横に振る。
その仕草が、答えられない苦しさを物語っていた。
しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりと呟いた。
「わからない」
「……何も覚えてないの? 自分のことや名前は?」
「自分のこと?……名前も、わからない」
その言葉に、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
何も思い出せないなんて、それはどれほど不安だろう。
「それは……困ったわね。でも、大丈夫。しばらくここにいて。町の人にも聞いてくるから」
「それはやめて!」
突然、彼が強い声を上げた。
「ど、どうして? ここにいること、知られたくないの?」
「……わからない。でも……誰にも言わないで」
怯えたようなその表情に、私は迷いながらも頷いた。
「わかった。あなたのことは、私だけの秘密にする。だから、安心して」
「……ありがとう」
彼の顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。
その笑顔があまりにも綺麗で、胸が少しだけ高鳴った。
私はふと思いつき、口を開いた。
「えっと、名前がわからないままだと不便だし……仮の名前考える?」
彼は私をじっと見つめ、目を細める。
その視線には、どこか柔らかさが宿っていた。少しは私のこと信用してくれたのかな。
「……好きに、呼んでいい」
「んー……じゃあ、そうね。ノクってどう? 夜の雪っていう意味」
彼は小さく目を閉じ、わずかに口元を緩めた。
それが笑みだったのか、私にはわからなかったけれど、雪の中で出会った名もなき少年と私の時間は、こうして静かにゆっくりと重なり始めた。
21
あなたにおすすめの小説
マジメにやってよ!王子様
猫枕
恋愛
伯爵令嬢ローズ・ターナー(12)はエリック第一王子(12)主宰のお茶会に参加する。
エリックのイタズラで危うく命を落としそうになったローズ。
生死をさまよったローズが意識を取り戻すと、エリックが責任を取る形で両家の間に婚約が成立していた。
その後のエリックとの日々は馬鹿らしくも楽しい毎日ではあったが、お年頃になったローズは周りのご令嬢達のようにステキな恋がしたい。
ふざけてばかりのエリックに不満をもつローズだったが。
「私は王子のサンドバッグ」
のエリックとローズの別世界バージョン。
登場人物の立ち位置は少しずつ違っています。
【完結】今更、好きだと言われても困ります……不仲な幼馴染が夫になりまして!
Rohdea
恋愛
──私の事を嫌いだと最初に言ったのはあなたなのに!
婚約者の王子からある日突然、婚約破棄をされてしまった、
侯爵令嬢のオリヴィア。
次の嫁ぎ先なんて絶対に見つからないと思っていたのに、何故かすぐに婚約の話が舞い込んで来て、
あれよあれよとそのまま結婚する事に……
しかし、なんとその結婚相手は、ある日を境に突然冷たくされ、そのまま疎遠になっていた不仲な幼馴染の侯爵令息ヒューズだった。
「俺はお前を愛してなどいない!」
「そんな事は昔から知っているわ!」
しかし、初夜でそう宣言したはずのヒューズの様子は何故かどんどんおかしくなっていく……
そして、婚約者だった王子の様子も……?
女避けの為の婚約なので卒業したら穏やかに婚約破棄される予定です
くじら
恋愛
「俺の…婚約者のフリをしてくれないか」
身分や肩書きだけで何人もの男性に声を掛ける留学生から逃れる為、彼は私に恋人のふりをしてほしいと言う。
期間は卒業まで。
彼のことが気になっていたので快諾したものの、別れの時は近づいて…。
やさしい・悪役令嬢
きぬがやあきら
恋愛
「そのようなところに立っていると、ずぶ濡れになりますわよ」
と、親切に忠告してあげただけだった。
それなのに、ずぶ濡れになったマリアナに”嫌がらせを指示した張本人はオデットだ”と、誤解を受ける。
友人もなく、気の毒な転入生を気にかけただけなのに。
あろうことか、オデットの婚約者ルシアンにまで言いつけられる始末だ。
美貌に、教養、権力、果ては将来の王太子妃の座まで持ち、何不自由なく育った箱入り娘のオデットと、庶民上がりのたくましい子爵令嬢マリアナの、静かな戦いの火蓋が切って落とされた。
愛に死に、愛に生きる
玉響なつめ
恋愛
とある王国で、国王の側室が一人、下賜された。
その側室は嫁ぐ前から国王に恋い焦がれ、苛烈なまでの一途な愛を捧げていた。
下賜された男は、そんな彼女を国王の傍らで見てきた。
そんな夫婦の物語。
※夫視点・妻視点となりますが温度差が激しいです。
※小説家になろうとカクヨムにも掲載しています。
側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、孤独な陛下を癒したら、執着されて離してくれません!
花瀬ゆらぎ
恋愛
「おまえには、国王陛下の側妃になってもらう」
婚約者と親友に裏切られ、傷心の伯爵令嬢イリア。
追い打ちをかけるように父から命じられたのは、若き国王フェイランの側妃になることだった。
しかし、王宮で待っていたのは、「世継ぎを産んだら離縁」という非情な条件。
夫となったフェイランは冷たく、侍女からは蔑まれ、王妃からは「用が済んだら去れ」と突き放される。
けれど、イリアは知ってしまう。 彼が兄の死と誤解に苦しみ、誰よりも孤独の中にいることを──。
「私は、陛下の幸せを願っております。だから……離縁してください」
フェイランを想い、身を引こうとしたイリア。
しかし、無関心だったはずの陛下が、イリアを強く抱きしめて……!?
「離縁する気か? 許さない。私の心を乱しておいて、逃げられると思うな」
凍てついた王の心を溶かしたのは、売られた側妃の純真な愛。
孤独な陛下に執着され、正妃へと昇り詰める逆転ラブロマンス!
※ 以下のタイトルにて、ベリーズカフェでも公開中。
【側妃の条件は「子を産んだら離縁」でしたが、陛下は私を離してくれません】
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる