雪の記憶は君のもの

あめのあられ

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第一章

記憶のない少年

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 ノルディア王国の北の果て、辺境の町クルゼラ。
 長く厳しい冬は町を沈黙の中に閉ざし、雪は音もなく降り積もる。屋根も道も、森の木々の枝さえも、すべて白一色に染まり、世界から色と熱を奪っていく。
 けれど、その冷たさの中で、リセルの心はむしろ穏やかに澄んでいた。

 十五歳のリセルは、この町の片隅でひとりきりで生きている。
 幼い頃に両親を亡くし、祖母に引き取られて数年。その祖母も病でこの世を去ってからは、誰の手も借りず静かに日々を過ごしてきた。

 寂しさは、胸の奥にある。
 けれどそれを口にすることはない。誰かにすがるより、自分の手で火を灯し、薪を割り、布を織り、物を作って町の市で売る。その暮らしにいつの間にか慣れてしまった。

 雪は、嫌いじゃない。
 音もなく降り積もる白い世界は、まるで夢の中のようで、人の喧騒も、心のざわつきも、静かに包みこんでくれるから。

 この町に春が来るのは、きっとあと三ヶ月は先。
 町の人たちは寒さに文句ばかり言うけれど、私はこの雪の季節がいちばん好きだった。
 誰も干渉してこない、真っ白で静かな時間。

 今朝、目を覚ますと、外はまた一面の雪景色だった。
 軒先に干した果物にうっすら積もった粉雪を払いながら、私はぽつりと独り言をこぼす。

「……今日は染め仕事はやめておこうかな。布も乾かないし」

 昨日のうちに煮ておいた染料は、まずまずの出来だった。けれど、こんな天気では染めた布を干しても乾かない。市に出すのも、明日に延ばそう。

 ふと時間が空いた。なら、あの大好きな場所へ行こう。
 厚手のコートを羽織り、毛糸の手袋をはめる。雪靴を履いて扉を開けると、ひやりとした冷気が頬を撫でた。

「……さむっ」

 それでも足は止まらない。
 町はずれの、誰も気にも留めない古びた納屋。けれど私にとっては、両親が遺してくれたたったひとつの宝物。
 埃をかぶった本、破れかけの地図、誰かが書いた詩。古くて、誰にも必要とされないものたちが、そこでは静かに息をしている。

 私は、あの場所が好きだった。
 誰のものでもない、けれど私だけが知っている、ひっそりとした世界。

 膝まで積もった雪をかき分け、ゆっくりと歩いていく。
 風が強くなってきた。少し吹雪いてきているかも。それでも、あと少し。何度も通った道だ。目を閉じても歩けるくらいには、もう慣れている。

 そう、思っていたその時だった。

「……え?」

 足が止まった。
 白い雪の中に、誰かが倒れている。

 一瞬、幻かと思った。けれど、それは確かに人だった。
 雪に埋もれかけた人影。黒い髪に白い肌、凍りついた睫毛。そのあまりにも儚くどこか現実離れした美しさに息を呑んだ。まるで、雪の精霊でも見ているような気がしたからだ。

「ね、ねぇ、大丈夫……っ?」

 見惚れていたのは一瞬だった。
 すぐに我に返り、駆け寄る。雪を払って、頬に触れた瞬間、凍りつくような冷たさが手袋越しにも伝わってきた。

「しっかりして。こんなところで寝てたら、凍えちゃうよ!」

 返事はない。けれど、微かに呼吸をしている気配があった。
 私は彼の体を抱き起こし、全力で引きずるようにして納屋へ向かう。

 ……重い。正直、私の力では無理があったかもしれない。
 それでも、不思議と体が動いた。ただ助けなきゃという想いだけが、胸にあった。

 納屋の扉を押し開け、中の木箱の上に彼を寝かせる。
 毛布をかけ、急いで薪をくべ、火を点ける。古い暖炉がぱちりと音を立てて、ゆっくりと温もりを広げていく。

「ねぇ……生きてるよね?」

 誰にともなくそう呟きながら、彼の顔をじっと見つめた。
 まだ若い。けれど、その少年はどこか大人びた雰囲気をまとっていた。

 この人、いったい誰なの? どうして、あんなところで……?

 問いは胸の奥に沈んだまま、私はそっと毛布を整えた。
 体はひどく冷えていたけれど、怪我はなさそうで安心した。

 すると、微かに、彼のまぶたが動いた。

「……っ」

 目が開くと、宝石のような赤い瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。心臓がどくりと跳ねる。

「……ここは」

 掠れた声が、かすかに震えていた。
 私は頷き、落ち着いた声で言う。

「ここは町はずれの納屋。私の、秘密の場所なの。あなた、雪の中で倒れていたのよ。私がここまで運んできたの」

 彼は何も言わず、焦点の合わない目でぼんやりと私を見つめていた。
 その表情には、言葉にできない戸惑いが滲んでいた。

「……ねえ、何があったの?」

 私の問いに、彼は眉をひそめ、首を横に振る。
 その仕草が、答えられない苦しさを物語っていた。

 しばらくの沈黙のあと、彼がぽつりと呟いた。

「わからない」

「……何も覚えてないの? 自分のことや名前は?」

「自分のこと?……名前も、わからない」

 その言葉に、胸の奥がきゅうっと締めつけられた。
 何も思い出せないなんて、それはどれほど不安だろう。

「それは……困ったわね。でも、大丈夫。しばらくここにいて。町の人にも聞いてくるから」

「それはやめて!」

 突然、彼が強い声を上げた。

「ど、どうして? ここにいること、知られたくないの?」

「……わからない。でも……誰にも言わないで」

 怯えたようなその表情に、私は迷いながらも頷いた。

「わかった。あなたのことは、私だけの秘密にする。だから、安心して」

「……ありがとう」

 彼の顔に、ほっとしたような笑みが浮かぶ。
 その笑顔があまりにも綺麗で、胸が少しだけ高鳴った。

 私はふと思いつき、口を開いた。

「えっと、名前がわからないままだと不便だし……仮の名前考える?」

 彼は私をじっと見つめ、目を細める。
 その視線には、どこか柔らかさが宿っていた。少しは私のこと信用してくれたのかな。

「……好きに、呼んでいい」

「んー……じゃあ、そうね。ノクってどう? 夜の雪っていう意味」

 彼は小さく目を閉じ、わずかに口元を緩めた。

 それが笑みだったのか、私にはわからなかったけれど、雪の中で出会った名もなき少年と私の時間は、こうして静かにゆっくりと重なり始めた。
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