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第一章
ノク
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朝になるたび、私はまた納屋へ向かう。
誰にも知られたくない、私だけの図書室。今は、その奥に一人の青年が眠っている。
ノク。
私が仮につけたその名前は、彼の無口な雰囲気によく似合っていた。
名前も出自も年齢もわからないけれど、雪の中で倒れていた彼をそのまま見過ごすことなんてできなかった。
それに、あの瞳を見たとき、凍えていたのは体だけじゃない気がしたから。
私は毎朝、熱を測り、薬草茶を煎じ、昨日の残りのスープを温める。
暖炉の火が消えないように薪をくべて、湿ったシーツはその火で乾かす。
誰かのために、こんなふうに手を動かすのは、いったいいつ以来だろう。
「……もう、大丈夫よ」
小さく呟きながら、彼の額にそっと触れる。熱は少し下がってきていた。
息遣いも、昨日より穏やかになっている。私は安心して、毛布の端を整える。
外では、雪がしんしんと降り続いている。
ぱちぱちと薪が燃える音の中、私はいつものように彼のそばに座った。
ふと、視線が彼の顔に落ちる。
すっと通った鼻筋、長いまつげ、きめ細やかな肌。やっぱり、普通じゃない。こんな辺境の町には、まずいない顔立ちと雰囲気だ。旅人にしては装束が上等すぎるし、手も髪も手入れされている。
彼はそれなりに高い身分の人だったのかもしれない。
耳を澄ませば、薪の燃える音と、かすかな寝息だけが聞こえてくる。
その静けさが、不思議な安心感を私に与えてくれた。
今まで誰も連れてこなかったこの場所に、ノクならずっといてくれてもいい。
そう思えるようになっていた。
私は立ち上がり、本棚の間をゆっくり歩く。
父と母が遺してくれたこの納屋。
外から見ればただの物置だけれど、中には古い木製の書棚が並び、羊皮紙に綴られた本やぼろぼろの童話集、魔法に関する研究記録まで、様々な書物が眠っている。
父と母は学者だった。
何を研究していたのか、あの頃の私には難しすぎてわからなかったけど、今なら少し理解できる。
おそらく、古代魔法を研究していたのだ。
その昔、魔法というものが存在していた時代の遺物。
ときどき古代語で書かれた魔術書や、魔道具に関する記述が父の残したノートから見つかることもある。
私はこれらを一冊ずつ磨き、手入れし、順番に並べていった。
ノクがここに来るまでは、ここは本当に私だけの世界だった。
背後で、小さな物音がした。
振り返ると、彼が目を開けて、こちらをじっと見つめていた。
言葉はなかったけれど、その瞳にわずかに焦点が戻ってきている。
唇が、かすかに動いた。
「……本が、多いな」
低く、掠れた声だった。
「体調はどう?」
私は慌てて彼のそばに戻り、湯飲みに薬草茶を注ぐ。
彼はそれをじっと見つめたまま、黙っていた。
その様子に小さな笑いが込み上げてくる。くすくすと笑いながら告げる。
「苦いけど、よく効くから飲んで」
「……ありがとう」
もう何度か飲ませているけれど、ノクはこの薬草茶が苦手なようだ。
確かに味は苦い。でも私が熱を出したとき、母がいつもこのお茶を作ってくれた。
「ここの本は君の?」
「そうよ。……と言っても、両親が集めたものだけど。ここは私の大切な場所なの。誰にも教えてないけど、私は勝手に図書室って呼んでる」
その言葉に、彼のまぶたがゆっくりと瞬いた。
「……そうか」
私は彼のそばに腰を下ろし、手にしていた童話の本を開いた。
小さい頃、母が私に読み聞かせてくれた物語。
旅に出た白い狼が、故郷の雪原に戻るまでのお話。
「このお話、昔から好きなの。これが自分でも読みたくて、必死で字を覚えたの。たぶん、初めて自分で読んだ本だったと思う」
懐かしさを噛みしめながらページをめくると、彼がぽつりと呟いた。
「……それ、知ってる気がする」
私ははっとして、彼を見た。
「知ってる……の?」
返事はなかった。
彼は目を伏せ、薪の火の揺らぎをじっと見つめていた。
記憶を失った人が、「知ってる気がする」と言う。
それが、どれほど大きな希望になるか。私は、なんとなくわかる気がした。
「じゃあ、もっとちゃんと思い出せるかもしれないから、読んであげるね」
私の声に耳を傾けながら、彼はほんの少しだけ微笑んだように見えた。
薪がパチ、と弾けて音を立てる。
物語はまだ途中だったけれど、寝息が聞こえてきた。
見ると、ノクが穏やかな顔で眠っている。
まだ熱が残っていてしんどいのだろう。少し寒そうに眉をひそめた彼に、私はそっと毛布を首元までかけ直してあげた。
寝息は、再び静かに整っていく。
私は立ち上がり、扉のそばへ向かう。
窓の外では、雪が静かに降り続けていた。
「……あなたはいったい、誰なんだろうね」
胸の奥で小さく呟いたその声は、雪の静寂に溶けて消えていった。
誰にも知られたくない、私だけの図書室。今は、その奥に一人の青年が眠っている。
ノク。
私が仮につけたその名前は、彼の無口な雰囲気によく似合っていた。
名前も出自も年齢もわからないけれど、雪の中で倒れていた彼をそのまま見過ごすことなんてできなかった。
それに、あの瞳を見たとき、凍えていたのは体だけじゃない気がしたから。
私は毎朝、熱を測り、薬草茶を煎じ、昨日の残りのスープを温める。
暖炉の火が消えないように薪をくべて、湿ったシーツはその火で乾かす。
誰かのために、こんなふうに手を動かすのは、いったいいつ以来だろう。
「……もう、大丈夫よ」
小さく呟きながら、彼の額にそっと触れる。熱は少し下がってきていた。
息遣いも、昨日より穏やかになっている。私は安心して、毛布の端を整える。
外では、雪がしんしんと降り続いている。
ぱちぱちと薪が燃える音の中、私はいつものように彼のそばに座った。
ふと、視線が彼の顔に落ちる。
すっと通った鼻筋、長いまつげ、きめ細やかな肌。やっぱり、普通じゃない。こんな辺境の町には、まずいない顔立ちと雰囲気だ。旅人にしては装束が上等すぎるし、手も髪も手入れされている。
彼はそれなりに高い身分の人だったのかもしれない。
耳を澄ませば、薪の燃える音と、かすかな寝息だけが聞こえてくる。
その静けさが、不思議な安心感を私に与えてくれた。
今まで誰も連れてこなかったこの場所に、ノクならずっといてくれてもいい。
そう思えるようになっていた。
私は立ち上がり、本棚の間をゆっくり歩く。
父と母が遺してくれたこの納屋。
外から見ればただの物置だけれど、中には古い木製の書棚が並び、羊皮紙に綴られた本やぼろぼろの童話集、魔法に関する研究記録まで、様々な書物が眠っている。
父と母は学者だった。
何を研究していたのか、あの頃の私には難しすぎてわからなかったけど、今なら少し理解できる。
おそらく、古代魔法を研究していたのだ。
その昔、魔法というものが存在していた時代の遺物。
ときどき古代語で書かれた魔術書や、魔道具に関する記述が父の残したノートから見つかることもある。
私はこれらを一冊ずつ磨き、手入れし、順番に並べていった。
ノクがここに来るまでは、ここは本当に私だけの世界だった。
背後で、小さな物音がした。
振り返ると、彼が目を開けて、こちらをじっと見つめていた。
言葉はなかったけれど、その瞳にわずかに焦点が戻ってきている。
唇が、かすかに動いた。
「……本が、多いな」
低く、掠れた声だった。
「体調はどう?」
私は慌てて彼のそばに戻り、湯飲みに薬草茶を注ぐ。
彼はそれをじっと見つめたまま、黙っていた。
その様子に小さな笑いが込み上げてくる。くすくすと笑いながら告げる。
「苦いけど、よく効くから飲んで」
「……ありがとう」
もう何度か飲ませているけれど、ノクはこの薬草茶が苦手なようだ。
確かに味は苦い。でも私が熱を出したとき、母がいつもこのお茶を作ってくれた。
「ここの本は君の?」
「そうよ。……と言っても、両親が集めたものだけど。ここは私の大切な場所なの。誰にも教えてないけど、私は勝手に図書室って呼んでる」
その言葉に、彼のまぶたがゆっくりと瞬いた。
「……そうか」
私は彼のそばに腰を下ろし、手にしていた童話の本を開いた。
小さい頃、母が私に読み聞かせてくれた物語。
旅に出た白い狼が、故郷の雪原に戻るまでのお話。
「このお話、昔から好きなの。これが自分でも読みたくて、必死で字を覚えたの。たぶん、初めて自分で読んだ本だったと思う」
懐かしさを噛みしめながらページをめくると、彼がぽつりと呟いた。
「……それ、知ってる気がする」
私ははっとして、彼を見た。
「知ってる……の?」
返事はなかった。
彼は目を伏せ、薪の火の揺らぎをじっと見つめていた。
記憶を失った人が、「知ってる気がする」と言う。
それが、どれほど大きな希望になるか。私は、なんとなくわかる気がした。
「じゃあ、もっとちゃんと思い出せるかもしれないから、読んであげるね」
私の声に耳を傾けながら、彼はほんの少しだけ微笑んだように見えた。
薪がパチ、と弾けて音を立てる。
物語はまだ途中だったけれど、寝息が聞こえてきた。
見ると、ノクが穏やかな顔で眠っている。
まだ熱が残っていてしんどいのだろう。少し寒そうに眉をひそめた彼に、私はそっと毛布を首元までかけ直してあげた。
寝息は、再び静かに整っていく。
私は立ち上がり、扉のそばへ向かう。
窓の外では、雪が静かに降り続けていた。
「……あなたはいったい、誰なんだろうね」
胸の奥で小さく呟いたその声は、雪の静寂に溶けて消えていった。
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