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1話
しおりを挟む物が少ない部屋だな、と酒が回ってぼんやりとした頭で一沙は漠然と思った。案内されたリビングにはソファーにテーブル、テレビくらいしか目ぼしいものがない。彼を普段見かけることはあまり無かったので、もしかしたらここはいくつか借りている部屋のうちの一つなのかもしれない。だとすれば、彼はかなりの金持ちということになる。
最も一沙は彼のことは何も知らない。名字が神木ということくらいしか。真夏日でもきっちりとスーツを着込みネクタイを締めていた彼は、いつも感情の読めない無表情を貼りつけていた。見上げるほどの長身、冷たさを帯びた鋭い眼差し、恐ろしいくらい整った顔立ち。オーラからして只者ではないと感じた一沙は数年前引っ越しの挨拶に伺ったことをちょっぴり後悔したほどだ。
だが、内心ビクビクと怯える一沙の心の裡を知らない彼は顔を合わせると挨拶をするようになった。「あれ、この人そんなに怖い人じゃないのかも」と簡単に手のひらを返したが所詮マンションのお隣さん、何かが起こるわけもなく一沙には彼氏が出来、そろそろ結婚も視野に入れ始めていた、はずだったのに。内心浮かれていた一沙の心を彼、いや彼らはズタズタにした。
一沙は挨拶以外まともに話したことのない男の部屋に入り、ソファーに座りながら出された赤ワインをガブガブ飲み相変わらず「無」な彼が耳を傾けてくれているのを良いことに、今まで溜まりに溜まった鬱憤を吐き散らかしている。
「互いの家族に挨拶もしてたんです。はっきりと言われてなくても結婚意識してくれてるって思うじゃないですか?あからさまに会う頻度が減った段階で気づくべきだったんですかね…いやまさか、妹と出来てた挙句妊娠させてるとは思えませんよふざけんな」
呼び出さされた一沙に告げられたのは、一沙とは結婚出来ない、よりにもよって恋人の妹を妊娠させてしまったという、耳を塞ぎたくなる内容だった。彼氏は必死に頭を下げ、一沙に別れてくれと懇願しその隣で妹はハラハラと涙を流す。地獄のような光景だった。
実家に挨拶に行った際、妹と彼氏は顔を合わせはしたがほんの短い時間。あの短時間で接点を作り、連絡を取り合うようになったのだ。警戒はしていたのだ。「今までの彼氏、妹を好きになることが多くて。顔を合わせたらあなたも好きになるんじゃないかって不安で…」と正直に吐露したら「安心しろよ、俺は一沙しか見てないから」と答えてくれた彼氏にときめいている場合ではなかった。あんな臭すぎる薄っぺらい台詞を信用しては駄目だった。現に速攻で裏切られている。一沙しか見てない、と戯言をほざいた口は縫い付けてやった方が良いと思う。
愚痴を聞かされている神木は凛々しい眉を顰め、呟く。
「それは酷いな」
「でしょ、急に大事な話があるって呼び出されて、やっとプロポーズしてくれるのかと思ったら…彼の隣に座ってる妹を見た瞬間全て察しましたよ…またか…って」
「…また?」
「妹…一美は昔から私のものを欲しがったんですよ。おもちゃにぬいぐるみ、プレゼントに友達…恋人…。母に似て顔は可愛くて甘えるのも上手かった妹を両親も…周囲も愛しました」
天真爛漫で愛らしく誰からも愛される妹、甘えるのが苦手でいつも暗く俯いており、両親から蔑ろにされる姉。妹が欲しがったら譲るのは当たり前、友人も恋人もいつの間にか一沙から離れて白い目を向け、妹に愛を囁くようになる。いつの間にか一沙には「妹を虐める性悪な姉」という身に覚えのない噂が「事実」として付き纏った。一沙がどれだけそんなことはしてない、と必死に弁明しようが一美が涙を流すだけで周囲は一沙を「人でなし」「性悪」として責め立て嫌悪した。いつしか一沙は無駄だと諦めてしまった。
「就職と同時に鍼の筵だった家を出て…やっと自分だけを見てくれる人に出会えた、これで私は幸せになれると思った…のに」
グラスを握り締める手に力が入り、テーブルにポタポタと雫が落ちる。彼の子を妊娠した、お姉ちゃんごめんなさいと涙を流す妹を見ても、歯を食いしばって泣くのを堪えた。妹は惨めな姉の顔が何よりも好きだ。恋人に選んでもらえず既に惨めな一沙は、これ以上落ちぶれるのはごめんだった。泣きながら自分達を責める姿を予想していたのだろう。だが一沙は据わった目のまま立ち上がり水を彼氏いや、元彼氏に思いっきりぶっかけると「最低、死んで」と吐き捨てて店を出て行った。いつも俯いて暗い顔をし、全てを諦めて受け入れる姉しか知らない一美は呆気に取られていた。あれで少し溜飲が下がったが、自分の中で渦巻くドス黒い感情は収まってくれそうにない。
ここで神木がスッとハンカチを差し出してくれる。それを受け取った一沙は涙を拭い、ダラダラ垂れてきた鼻水を噛んだ。その瞬間我に返る。
(あ…)
「…ごめんなさい、洗って返します」
「差し上げますよ、安物なので」
(絶対嘘だ、ブランド物でしょ⁈)
今気づいたが、見るからに上質なハンカチだ。それで鼻水を拭いたのである。冷や汗ダラダラだ。しかし、泣いてる人間にブランド物のハンカチを咄嗟に差し出せるとは、神木は何て親切で紳士的な人だ、と一沙は感動する。ゲスな元彼に彼の爪の垢を煎じて飲ませたいくらいだ。
(新しいの、渡そう)
いっそ開き直った一沙は涙は引っ込んだが、ズビズビ出る鼻水をハンカチで拭きながら、あの忌まわしい記憶の後のことを思い出していた。
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