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狂いだす歯車

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 人の口に戸は立てられぬ。
 
近頃、硬派で浮ついた遊びの一つもしないと有名な宇賀神辰義うかじんたつよしの醜聞な噂が流れた。

屋敷に美女と見まがう程の非人の美少年を囲い、寝床を共にしているという。帝より下賜され、長年連れ添った葵姫様にも素っ気ない態度で日々泣かせている。
男妾に乞われ九重まで半月も旅をし、これまで仕事の虫だったが、仕事が終わるや否や家へと急ぎ帰る。女に手を出さぬ堅物かと思えば、稚児趣味だったとは。
ああ、葵様も晩年にこのような苦悩が待っていようとは。

穢れない英雄の尾籠な噂は面白おかしく、民衆へ伝わっていく。
宇賀神辰義と親交のある者は、辰義の人柄を知っているのでまさかと笑った。旧知の友は既にみのるを紹介され、将棋やボードゲーム、あるいは實の発明仲間となっているため、噂が全くの出鱈目であると知っていた。
当の本人、宇賀神辰義は噂を気にも留めず、堂々としたものだった。何を勘違いしたのか、酒の席に幼い男の子が呼ばれることが多々あり、辰義は少年にたくさんの菓子を持たせて、「早く家へ帰るように。」と強く戒めた。九重への旅行に関して深く詮索されない為、敢えて噂は噂のままでもいいかとさえ思っていた。

 しかし、宇賀神家の敷地内でおおよそ全ての生活が完結してしまう實は、噂を耳にする機会はなかった。

いつもの様に、午前は私塾で学び、午後からは弥助の馬小屋の作業を手伝う。
「實さん。」
馬小屋の影にたたずむ初老の女。
この館の女中達と同じ紺色のロングワンピースに真っ白なドレスエプロンを着ているから、宇賀神家の女中なのだが、その顔は見たことがなかった。
白髪交じりの髪の毛を女学生の様におさげにしており、なんとも特徴的な人物だ。
「奥様がお呼びです。」
「奥様?」
この屋敷で奥様と呼ばれるのは、宇賀神辰義様の妻だけだ。
「葵様があなたをお呼びです。」
お前のような下々の者とは、関わりたくないとい侮蔑を含んだ目だ。
「今ですか?馬の世話をしたばかりで、匂いが。」
「今すぐだと言っているだろうが。」
陰湿な女が急に大声をあげる。
この女中の態度で何故、宇賀神家に来て二年間、屋敷の奥様に会うこともなかったかを察する。
ついて来いと視線だけで命令し、女中は南東方向へ歩き始めた。
中庭の立派な日本庭園を抜け、こじんまりした和風の屋敷が姿を現した。
学習棟から屋根が見えていたため、以前弥助に「あの建物は何か」と聞いた。
「奥様は辰義様が武功をあげた時に、お嫁に来たお姫様だよ。洋館がお気に召さない様だったので、奥様の希望通りに新たに建てた家だよ。奥様は体が弱い方だから、あそこで療養なさっているんだよ。」と教えられた。
専用の女中、専用の料理人がいる様で本館からは独立しており、執事の伊藤さんも管轄外となっている様だ。
たまに人影が見てとれる。
裏門を利用しているのか、奥様に類する者ともすれ違ったことはない。
案内された屋敷は、やはり人気がなく寂しい印象だ。
しっかりと整理整頓がされており、生活感がない。
「どうぞ」
襖を開けると、美しい初老の女が凛と座っていた。
鼠色の正絹の着物に鮮やかな花模様の帯、顔は整っておりはっきりとした紅へ目が行く。
気が強そうな瞳と眉間に刻まれた皺。
「あなたが實ね。」
「實です。」
襖の手前で、礼を取る。
「ほら、お茶を用意したのよ。近くに来なさい。」
にっこりと笑い、優しい言葉で対面になるように置かれた座布団を指す。
しかし、目は笑っておらず、孫ほどの子供と楽しくおやつを食べる雰囲気ではない。
恐る恐る葵様の前へ座る。
先ほどの女中が、無表情で玉露と高級そうな最中を給仕する。
「辰義と大変仲良くしている様ね。」
「はい。お世話になっております。」
質問と言うより、断定して話をしてくる。
言葉は丁寧でも、その態度や視線は高圧的だ。
それで何か?貴女は何が言いたいのか。
「九重へ二人で行ったの?」
「二人ではありません。藤枝さんも一緒に行きました。」
執事の伊藤さんはお屋敷を離れることが出来なかった為、替わりに使用人の藤枝さんが辰義様の身の回りのことや荷物持ち、旅行日程の手配等をしてくれた。
すると、バシッという乾いた音と共に頬へ鋭い痛みが走った。
まったく予想していなかったことに衝撃を受ける。
葵様が帯に差してあった扇で叩いたのだ。
「私に口答えしないの。」
理不尽、ここに極まれり。
いや、質問したやん。
美しい顔が怒りに歪む。
「私の質問には全て『はい』って答えるに決まっているでしょう。」
知らないが。
「なんて生意気な目をしているの。」
いやぁ、もともとこの目付きで生まれてきましたが。
「この汚らしい非人が。何が目的でこの屋敷へ入り込んだか。宇賀神家の金か。卑しい男妾が。」
般若のような顔で、扇で容赦なく撃ち込まれる。
決定打にはならないが、女性でも大人の力で本気で叩かれれば痛い。
はぁぁ、男妾だと。
爺さんと十四歳が出掛けただけで、何故そうなる。
「こんな餓鬼に籠絡されおって。どうやって誑し込んだ。この淫売が。変態め。」
あらぬことを言われ、妙に冷静になる俺とは反対に、葵様は興奮していっている様子。
雨が降るように続く扇の殴打は、一向に止む気配はない。
飼い主の祖母を殴る訳にもいかず、何とか肘でガードし、ただ打たれるしかなかった。
先ほどの女中は、部屋の隅に座って人形の様に無表情にこの出来事を眺めている。
「辰義様とは、そのような関係ではありません。」
「会計担当に調べさせたわ。九重でかなりの買い物をしているじゃない。辰義に何を強請ったの。」
火縄銃を三丁程とは言えない。
「それは…。」
答えられない俺を嘲笑う。
「特等室での船旅は、さぞ素敵だったでしょうね。」
確かに特室だった。
辰義様の心配りで、二つある寝台の一つを使わせてもらった。
しかし、そこにやましいことは何一つない。
「…。」
男妾だという明確な証拠はないが、そうでない証明も現時点では出来ない。
「聞いたわ。辰義が遺言書を書き換えたらしいわ。領地のある山をあなたに譲りたいんですって。ああ、あと貴方の戸籍がないから戸籍を作る依頼もしているらしいわ。戸籍なんて作って、どうするつもりなのかしら。」
初耳だった。
「妻にはなれないから、正式に養子にして遺産を相続させるつもりかしら。愛されているのね。」
「辰義様に確認をしていただければ。」
「お前のような卑しきものが、気安く名前を呼ぶな。」
強烈な平手打ちに畳へと倒れこむ。
「私には四十年愛を囁かない男が、今更稚児狂いだなんて反吐が出る。女遊びもしなかったのに、どうして急に。どうしてお前なの?」
もはや罵倒ではなく、悲壮な叫びだ。
夫婦は上手くいていなかったのだろうか。
四人も子供がいるのに。
「ねぇ、辰義とは寝たの。」
「…。」
もう、何を答えても興奮させるだけの気がする。
ここに辰義様や藤枝さんの証言があっても、葵様にとって意味はない。
「康代さん、この子、殺すわ。」
急にぱたりと凍えた空気の中、葵は呟いた。
「御意。」
康代が圧し掛かかると、どこからか他の見慣れぬ女中が二人出てきて實の手足を縛りあげた。
「ちょっと…。」
抗議の声をあげようとすると、直ぐに布で猿ぐつわをされた。
手足を拘束されても、のたうつ様に暴れていた實だが、乱暴に床を引きずられどこかへ運ばれる。
このまま、殺される。
庭を引きずられた際、空を見上げた。
日が傾いている。
夕飯時にいないことに弥助が気が付いて、探してくれないだろうか。

納屋へ運ばれると、解体する獲物の様に天井の梁から縄で吊るされた。
つま先が何とか地面に着く位の、絶妙な高さの縛り上げだ。
「簡単には殺しはしないから。苦しんで苦しんで、死んでね。」
葵様はほの暗く笑った。
康代と呼ばれた女中が、無言で背後から實の衣服を鋏で切った。
曝け出された背中へ冷たい冷気が纏わりつく。
手には實の背丈ほどの家畜用の鞭が握られていた。
マズイと思った瞬間、風が鳴る音と燃えるような熱が背中を襲った。
驚愕に目を開くことも許されない勢いで、次々と鞭は振るわれた。
猿轡によって、悲鳴は口腔内に籠もり、誰にも届かない。
實の背中が無残に切り裂かれ、穿いていたズボンの腰部から臀部にかけて血で染まっている。
夢中で鞭を振るっていた葵は息も髪も乱れ、さながら夜叉の様だ。
「人の夫に手を出すから、こんな目に合うのよ。」
目をらんらんと輝かせて、ボロボロになった實を嘲笑った。
「畜生は畜生らしく。ねぇ、そうでしょ。康代、準備して。」
「はいっ。」
康代は實の下穿きも鋏で切り捨てた。
何がしたいのかわからないが、嫌な予感しかしない。
「若いっていいわね。綺麗な肌。綺麗なおしり。」
背後に回った葵の視線を感じる。
「葵様。」
再び康代の声がして、何かやり取りがあり、康代に強く腰を押さえつけられる。
独特な金属の臭いと熱がある感じがする。
ジュッという音と肉が焼ける臭い。
脳天まで雷が落ちたかの様に、痛みが走りのける。
目の奥がチカチカして、何が起きているのかわからない。
ただただ、葵が狂ったように笑っている声がこだます。
「死ねばいいのに。死ね。死ね。」
呪いの言葉を吐く葵が背後にいるため、次に何をされるのかわからない。
明らかに殺意を含んだ言葉に、實は我武者羅に暴れた。
吊り上げられた手首が、ちぎれそうで痛い。
「暴れるな。今からあの人が触れたところ、愛したところを全て切り裂きそぎ落とします。」
康代はエプロンドレスのポケットから、小さなナイフを取り出して葵へ渡す。
「葵様、気を付けて扱ってください。」
陶酔した表情でうっとりと葵を見つめ、そっと背後から實を固定する。
「まずは、あの人が口づけした唇から。」
もう、否定の言葉も出ない。
實の下唇を無遠慮に左手で引っ張ると、歯肉を掠めてナイフが真上から貫通した。
あとは少しナイフを右か左にスライドさせれば俺の下唇が削げる。
しかし、自分の左手を伝う鮮血に葵は怯えた。
「やぁあ!康代、血が血がついてしまったわ。」
幸運にもナイフは地面へ落ちた。
「大丈夫ですか。」
康代は葵へ駆け寄るとハンカチを取り出し、俺の血を拭う。
「大丈夫ですよ。葵様の血ではありません。」
よしよしと小さな子供をあやす様に抱きしめて頭を撫でる異様な光景だ。
「男妾の血がついたのよ。変な病気がうつったらどうするの。穢らわしい。」

「何をされているのか?」
勢いよく納屋へ飛び込んで来たのは、執事の伊藤さんだった。
その声に反応し、康代は葵を守るように抱きしめる。
「あら、伊藤。何って、そうね。家畜の管理かしら。」
さっきまでの狂った様子はない。
今は品のある貴婦人だ。
「その子をこちらにお渡し頂けますか。」
「嫌よ。」
「その子は辰彰たつあき様の養い子です。」
「だから、何。この家の家畜でしょ。執事の分際で、私に命令するの。」
「…。」
にやりと葵が笑う。
「その辺にしなさい。」
聞きなれた辰義の声がする。
「男妾を迎えに来たか。」
「そうではない。伊藤、直ぐに医者を呼べ。」
「はい。」
伊藤さんは素早く本館へ向かって走った。
辰義様によって、俺はようやく梁から降ろされた。
素っ裸の為、辰義様が羽織で包んでくれた。
「関係のない子供に何てことを。」
静かな怒りを含んだ声だった。
「還暦を過ぎて、この醜聞。貴方、どういうおつもりですか。」
「彼は関係ない。これは儂と貴女の問題だ。」
「何のことですか。」
鬼の形相で怒り狂う葵。
「これ以降、貴女の我儘は聞かない。本館の使用人を派遣する。實の治療後話し合いをする。それまではこの屋敷で軟禁させてもらう。」
本館の屈強な下働きの男達と女中がすっと入ってきて、葵と康代を取り囲む。
「ひどい傷じゃ。すまんかったの。すぐに手当てを。」
辰義自らの手で實を抱き上げた。
「女遊びの一つもしない貴方が、なんで今更、男妾に狂いおって。」
葵は抱き上げた實を、親の仇を見るような顔で睨みつけた。
「まるで嫉妬に狂った女の様じゃ。貴女は儂のことなど好いてはおらんと思っておったが。」
辰義の言葉に侮蔑が混じる。
「違う。私は貴方の妻だ。昔も今もお慕いするのは辰義様だけです。」
「ふむ。では、英明、紗代、英光は誰の子かな。」
「…一体、何を?」
「儂が何も知らないとでも思っておったか。木村造船の木村秀明であろう。」
目を見開いた葵は、人形の様に固まって動かない。
葵の反論は聞く気すらないと、辰義は動き出した。
「いくぞ、治療が先だ。」


辰義自ら實を抱き上げると、中庭をつきって進んでいく。
離れの辰義様の寝室へ寝かされると、執事の伊藤さんが止血用の綿布と消毒薬を用意してくれていた。
「布団が汚れてしまう。」
「こんなひどい傷で何を言っているんじゃ。」
背中の傷が酷いので、うつ伏せで寝かせられる。
綿布で下唇を抑え止血を試みる。
今になって、全身が小刻みに震えていた。
あんなにも誰かに怒りをぶつけれたのは初めてだった。
全身の傷が炎症反応を起こしている様で、熱を孕んだ様に熱い。
目を閉じるとドクドクと心臓の音だけが妙に耳につく。
「感染を起こすといかんから、まず背中の傷を消毒する。ちょっと染みるが、耐えてくれ。」
薬品の独特なにおいが室内に広まる。
薬が染み込んだ綿布が背中を撫でると、激痛が走る。
「うっ…つっ。」
歯を喰いしばって耐えるが、痛みで息が上がる。
「あっ、ああぁ、い、痛い。」
あの納屋で吊るされていた時は、無様に泣き叫んでたまるかと思い何とか耐えた。
辰義に助け出されて、温かい布団に突っ伏したとき、實はすごくほっとした。
もう大丈夫だと安心した。
鞭で打たれるより、焼印を押し付けられるより、消毒のわずかな痛みが耐えがたい。
「大丈夫。ちょこっと痛みが続く故、失礼する。」
動かないように太腿の裏ぐらいに辰義様が跨いで乗り、消毒が続く。
「痛かったら、声を出してもいいぞ。」
「うぅ、うぅ…痛い。」
すすり泣くような自分の声が響いていた。
少しして宇賀神家の専属の医師が到着した。
テキパキと下唇を縫い、背中と臀部を清潔な綿布を張り保護すると、火傷の軟膏を処方して帰った。
医師がいなくなると、ふわりと睡魔に襲われ眠っていた。


翌日、辰義様と葵様とで話し合いが持たれた。
結果、葵様は心身が弱っておられるため、皇都を離れ領地のお屋敷で静養をすることとなった。

葵様より傷を受けて五日。
出血は止まり、消毒は一日に二回になった。
腕を大きく動かすと、背中の傷が引っ張れて痛い。
あれからずっと辰義様の離れでお世話になっている。
弥助の待つ馬小屋へ帰ろうとしたが、感染症をおこす可能性もまだあると止められた。
非人の俺が、この国の英雄の寝室を占拠し、上げ膳据え膳でぐうたらしてもいいものか。
昨夜、辰義様と伊藤さんから話があった。
今、流れている噂について。
硫黄の産出される山の名義を實にしようと動いていること。
今後、陸軍士官学校への入学を見据えて、きちんと戸籍を作成しなければならないこと。
士官学校へ行くことは、ちゃっかり決まっているらしい。
金をかけて教育を施してもらった立場ゆえ、文句は言えないが。
辰義様は誠実に、夫婦間のことも含めて俺へ説明をしようとしてくれた。
子供にも伝わるようにという配慮と己の羞恥心で、しどろもどろになっていたため、説明は不要と告げた。
夫婦のことは二人で解決するしかない。
今回は葵様が噂に惑わされただけだ。
この屋敷内では感じなかったが、改めて非人は軽んじられる存在なんだと認識した。
身分の高い人から見れば、本来は家畜同然。
肝に銘じておこうと思う。

しかし、噂には困ったものだ。
誰が絶世の美少年だ。
早く人々が、こんなくだらない噂を忘れますように。
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