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32 早朝の訪問者
しおりを挟むネロが完全に寝入ったのを確認してオリヴィアは部屋を去ることにした。
キャンドルの灯りを消すときに見えた横顔を少しだけ見つめてみる。目を覚ましたときにそばに居なかったら、ガッカリさせてしまうだろうか。
だけれど、いくら人気がないとはいえ、ここは皇帝の私室。有事の際にはいつ人が飛び込んでくるか分からない。
今度会ったときに良い言い訳を用意しておかなくては、とふっと息を吐きながら考えた。日付が変われば王宮の廊下はより一層に静まり返る。
何も飾られていない長い廊下を歩いて、突き当たりを左に曲がると別邸へ続く道がある。オリヴィアはひっそりと息を潜めつつ慎重に足を進めた。
先ずは使用人の男たちが眠る一階。階段を上って踊り場を回り込み、二階に辿り着くと二つ目の部屋がオリヴィアの部屋だ。上がってすぐの場所にあるジャスミンの部屋の電気はもう消えていた。
「………え?」
ドアノブに手を掛けて押し開く。
目に入ったのは信じられない光景だった。
「お帰りなさい、オリヴィア・バレット」
そこに立っていたのは、つい数時間前に担架で運ばれて行った皇太后その人だった。艶やかな黒髪を背中まで垂らして、一つしかない椅子に腰掛けている。
脇を固める衛兵たちがジロリとオリヴィアを睨んだ。
「皇太后様……どうしてこちらに?」
「ある噂を耳にしたの。皇帝の部屋に通う女が居るらしいとね。昨日、貴女をネロの部屋の近くで見掛けたときは不思議だったけれど、思い返せばそういうことだったのねぇ」
唇を歪めてわざとらしく笑うと皇太后はこちらを見た。ネロとは違うルビーレッドの瞳がジリジリと焼き尽くすようにオリヴィアを見据える。
「貴女はあの子の愛人なのかしら?」
「………いいえ、」
「それじゃあ、いったい何?若い女がこんな時間まで皇帝の部屋に居たなんて不潔だわ。辞職した衛兵から噂を聞いたときは相手にしなかったけれど、まさか本当だったとはね……」
オリヴィアは考えていた。
今から何かを取り繕おうとしても、きっと無駄な足掻きだろう。辞職した衛兵というのはおそらくルカエルのこと。彼がどれだけ詳細に伝えたのか分からないけど、ネロが彼に説明したように「料理を作って与えただけ」というのは無理があるように感じた。
では、皇帝に頼まれたと正直に言う?
そうすれば彼女は納得するのだろうか。
「貴女に分かる?」
「………?」
「ネロは皇帝なの。エーデルフィアという一つの国を背負っているのよ。あの子がどんなつもりで自分の城で働く使用人に手を出したのかは分からないけれど、こんなことがアデーレに知られたら……!」
「皇太后様、」
ギリッと歪む赤い唇を見て咄嗟にオリヴィアは口を開いた。
「……皇帝陛下に関係を迫ったのは私です」
「なんですって!?」
「実家の資金繰りが苦しいので、彼に奉仕する代わりにお金が欲しいと訴えました。陛下は私の願いを聞き入れてくれただけで、彼が進んでこのようなことを受け入れたわけではありません」
「………っ、この!卑しい女!穢らわしい!!」
「本当に……申し訳ありませんでした」
「どうなるか分かっているんでしょうねっ!?」
叫ぶように発する皇太后ルイーダを見つめる。
自分の生活に訪れる変化はおおよそ想像出来た。このまま、この場所で働き続けることは出来ない。大好きだった仕事を手放すことになるから。
「分かっています。私は王宮を去ります」
「当たり前だわ、解雇よ、解雇!本来であれば皇帝を誘惑した罪で有罪にしてしまいたいけれど、今すぐに姿を消すと言うならば見過ごしてあげる」
「………かしこまりました」
「ネロとの間に起こったことを他言したら許しません。オリヴィア・バレット、貴女の情報はこちらですべて掌握しているのよ」
「大丈夫です。弁えていますので」
オリヴィアはそう言って頭を下げた。
ルイーダが長い息を吐く。
「浅ましい女……そこまでして金が欲しいなんて」
心底軽蔑するように投げられたその言葉に、オリヴィアは何も答えなかった。
二人居た衛兵のうちの一人が「三十分で支度しろ」とオリヴィアに声を掛け、終わるまで外で待っていると伝える。ただ了解を示すために頷いて、オリヴィアは久方ぶりにトランクケースを開いた。
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